第31話:拝謁と絶対の格差 〜玉座に侍る二頭の猛獣と、床に砕け散りし皇女の冠〜
カイザーライヒ帝国が誇る迎賓離宮『黒曜宮』を取り囲む太古の原生林は、外界の騒乱など初めから存在しなかったかのような深い静寂に包まれていた。
女軍師ヒルデガルトが手配した黒鉄装甲の迎賓馬車は、結界の波長を滑らかにすり抜け、敷地内へと音もなく滑り込んだ。
車窓から外を覗き見た第二皇女セシリアは、そのあまりの神聖さと手入れの行き届いた美しさに、思わず息を呑んだ。
白銀の砂利が敷き詰められた広大な庭園。
吹き上がる噴水は水晶のように澄み渡り、夜気の中に咲き誇る月光花が、甘く清涼な香気を漂わせている。
先ほどまで馬車に揺られながら見つめていた、祖国ガルディニアの地獄絵図――炎上する大聖堂、有毒な黒瘴気が噴き出す帝都の地下水路、そして作物が全滅してドブ色の泥沼へと沈んだアルトハイム公爵領の惨状とは、天と地ほどの隔絶があった。
ここは、世界のあらゆる穢れと理不尽から完全に切り離された、ただ一人の主権者のためだけに整えられた絶対の聖域。
「……降りてください、殿下。我が主がお待ちです」
馬車の扉が開かれ、薄氷色の髪を揺らすヒルデガルトが淡々と促した。
セシリアは泥に汚れた麻布の外套の裾を握りしめ、冷たい夜風の中へと足を踏み出した。
黒曜石をふんだんに切り出して築かれた本館の大階段を登り、豪奢なエントランスを抜ける。
案内される回廊の壁面には、名だたる大画家たちの手による名画や、古代の魔導装飾が整然と並び、床に敷かれた真紅の厚手の絨毯は、セシリアの泥だらけの靴音すら完全に吸い込んで消し去ってしまう。
回廊を進むにつれ、空気の密度が目に見えて濃密になっていくのを、セシリアの研ぎ澄まされた魔力知覚は感じ取っていた。
肌をチリチリと刺すような、超高密度の神聖魔力。
大聖堂のいかなる高級神官の祈りよりも純粋で、触れる者の魂の不浄を容赦なく暴き出すような、暴力的ですらある神気。
やがて、回廊の最深部――天井高十メートルに及ぶ、黒鉄と白銀の装飾が施された巨大な二重扉の前で、ヒルデガルトが足を止めた。
扉の両脇には、感情を一切宿さない陶器の仮面のような美貌を持つ筆頭侍女長グレーテが、濃紺の侍女服に乱れ一つなく、直立不動の姿勢で控えていた。
「グレーテ。お客様をお連れしました」
「ご苦労様でした、ヒルデガルト様。……我が主は、すでにお待ちです」
グレーテは一瞥すらセシリアに向けず、白手袋を嵌めた両手を大扉の取っ手へと添えた。
重厚な金属音が静かに響き、巨大な扉が内側へと、厳粛に押し開かれる。
「……っ」
開かれた空間の奥から流れ出してきた圧倒的な気圧に、セシリアは思わず半歩、後ずさりそうになった。
そこは、黒曜宮の最奥に位置する『天蓋付きの大謁見の間』。
高いアーチを描く天井には、深淵の星空をそのまま閉じ込めたかのような夜光石が散りばめられ、青白い光が広大な空間を幽玄に照らし出している。
壁面に並ぶのは、漆黒の大理石で削り出された列柱。
そして、その広大な大広間の最奥――五段の石段の上に据えられた、純金と黒曜石で組み上げられた巨大な天蓋付きの玉座に、彼女は腰掛けていた。
ヴァレリア・フォン・アルトハイム。
その姿を視界に捉えた瞬間、セシリアの脳髄を、雷に打たれたかのような凄まじい衝撃が貫いた。
(……あ……あぁ……っ!)
言葉が出なかった。
セシリアの記憶の奥底に焼き付いていたのは、大聖堂の地下最深部『封呪の石牢』で、重い鉄の鎖に全身を縛り付けられ、骨と皮ばかりに痩せ衰え、ボロボロの襤褸切れを纏っていた薄幸の聖女の姿であった。
だが――今、眼前の玉座に君臨しているその女性のどこを探しても、かつて地下牢の泥水を啜っていた生贄の面影など、塵芥ほども残されていなかった。
身に纏うのは、夜の帳と星屑を織り上げたような、深い群青色の豪奢なシルクドレス。
胸元と背中が優美に開かれたその意匠は、傷一つない白磁の肌の滑らかさと、完璧な鎖骨のラインを月光の下で際立たせている。
豊かに波打つ黒髪は、触れれば指が滑り落ちるほどの濡れたような艶を帯び、その毛先からは微細な黄金の燐光が絶え間なく立ち上っていた。
そして、彫刻刀で削り出したかのように鋭利で、息を呑むほどに冷艶な美貌。
その中央に据えられた紫紺の双眸は、地上のいかなる権力者すら眼中にないかのように、冷涼で、絶対の知性を宿して澄み渡っていた。
それだけではない。
セシリアの理性を根底から粉砕したのは、その玉座を取り囲む「異常な構図」であった。
玉座の右脇――石段のすぐ下。
大理石の床の上に、黒銀の長髪を無造作に広げ、まるで忠実なる大型犬のように身を屈めて平伏していたのは、原初の魔王ヴォルフラムであった。
かつて神話の時代に大陸全土を震え上がらせ、数百万の軍勢を灰燼に帰したとされる絶対の破壊神。その怪物が、今は上等な黒の燕尾服を纏い、ヴァレリアの漆黒のハイヒールの爪先に額を擦り付けんばかりに侍り、金色の双眸を主に向け、狂信的な恍惚の色に濡らしている。
そして、玉座の左側――半歩引いた位置に、堂々と腕を組んで立っていたのは、皇帝コンラートであった。
大陸最強の軍事覇権国家カイザーライヒの頂点に君臨する若き覇王。歴戦の傷跡を頬に刻み、幾万の将兵を率いて諸国を震え上がらせる男が、自らの帝国の離宮において、玉座をヴァレリアに譲り渡し、一人の守護者の如く不敵な笑みを浮かべて控えている。
魔王を足元に跪かせ、皇帝を傍らに従える。
世界の頂点に立つ二大巨頭を手綱で繋ぎ、その中心で、優雅に背もたれに身を預ける一人の女性。
――絶対の支配者。
それは、弱者が復讐のために武器を取った姿などでは断じてなかった。
最初から世界のすべてをチェス盤の上の玩具として見下ろし、自らを害した愚者たちが勝手に破滅していく様を、ただワイン片手に笑覧するために君臨する、真なる悪のカリスマ。
「…………っ」
セシリアの膝が、激しく震えた。
立っていられない。
ガルディニア帝国の正統なる皇女として、どんな屈辱的な状況であっても誇り高くあろうと誓っていた彼女の自尊心が、目の前の光景の放つ「絶対の格差」の前に、粉々に砕け散っていく。
自分の背負ってきた皇族の血統など、この女帝の靴先に付着した埃ほどの重みすら持たないのだと、本能が叫んでいた。
カラン、と。
セシリアが握りしめていた麻布の外套の裾が手から滑り落ちた。
彼女の膝から、完全に力が抜け落ちた。
ドサリ。
大理石の床の上に、激しい音を立てて両膝を打ち付けた。
痛覚など麻痺していた。
セシリアは震える両手を床につき、白銀の髪を石畳の上に散らしながら――額を、ゴツンと鈍い音が響くほど強く、冷たい大理石の床へと擦り付けた。
土下座。
一国の皇女としての矜持を完全にかなぐり捨てた、魂の底からの平伏。
「ヴァレリア様……! ヴァレリア・フォン・アルトハイム様……ッ!!」
セシリアの喉から、震える叫びが絞り出された。
床に押し当てた額から、悔恨と恐怖の混ざり合った涙が溢れ出し、大理石の表面を紅く濡らしていく。
「お目通りが叶いましたこと……万死に値する我が身でありながら、心より……心より御礼申し上げます……!」
「……ほう?」
玉座の脇で、コンラート皇帝が琥珀色の瞳を面白そうに細め、片眉を吊り上げた。
「敵国の第二皇女と聞いていたが……名乗りも上げぬうちから、床に額を擦り付けるか。随分と聞き分けが良いではないか」
「我が主の御前で、薄汚い人間が気安く頭を上げるな」
ヴォルフラムが金色の瞳を眇め、低く唸るような殺気を含んだ声を落とす。
「主の御神気をその濁った呼吸で吸い込むことすら不敬だ。……我が主、目障りな小娘でございます。今すぐ灰にして床を掃除いたしましょうか?」
魔王の黒炎が、パチパチと空間を焦がす。
その殺気だけで常人なら心臓麻痺を起こすほどの重圧の中、セシリアはさらに深く額を床へ押し付け、涙を流しながら絶叫した。
「愚かな……あまりにも愚かな我が一族が、貴女様に犯した万死に値する大罪、心より……心よりお詫び申し上げます……!!」
セシリアの声は、激しい慟哭に震えていた。
「十年間、あの冷たい地下牢の底で、国中のすべての穢れを背負い続けてくださっていた貴女様の御恩を忘れ……! あのような無能な偽聖女の甘言に溺れ、貴女様を『魔女』と罵り、深淵へと蹴り落とした兄ユースティスの愚行……! 我が父皇帝の盲目、そして宮廷貴族どもの浅ましき共謀……! どれほど謝罪の言葉を重ねようと、決して赦されるはずのない大罪でございます……!!」
セシリアは床を爪で掻きむしり、自らの胸の内にある絶望を、吐き出すように訴え続けた。
「今、ガルディニアは……我が祖国は、完全に崩壊の淵にあります! 大聖堂は燃え落ち、最高司教は自ら放った呪詛で消滅し、帝都の地下からは黒瘴気が噴き出して民が熱病に倒れています! 東部国境の古代防壁は結界を失って破られ、五万頭を超える古代魔獣のスタンピードが雪崩れ込み……アルトハイム公爵領の作物は全滅し、飢えた数万の領民が暴動を起こして公爵邸を取り囲んでおります……!」
セシリアは顔を上げようとした。
だが、玉座から放たれる圧倒的な覇気に気圧され、ただ床を濡らす自らの涙を見つめたまま、声を震わせた。
「兄ユースティスは……あの狂乱の皇太子は、東部国境からの救援要請を一顧だにせず握りつぶしました! 民を見捨て、兵士を見捨て、ただ己の保身と傷ついた顔面を隠すことだけに執着し、自滅の道を突き進んでおります! ……もう、あの国を内側から正す術は、何一つ残されておりません!」
セシリアは胸元から、命がけで持ち出してきた羊皮紙の束――ガルディニア帝国の全軍事要塞配置図と地下水脈図を、両手で頭上へと高く掲げた。
「ヴァレリア様……! 愚鈍な兄たちや強欲な貴族どもが、自業自得の報いを受けて滅びるのは当然の理! ですが……何も知らず、ただ騙されてきた無辜の民たちに、罪はございません……! どうか……どうかこの手土産をお受け取りいただき、我が祖国の無力な民に、救済の御手を差し伸べてはいただけないでしょうか……! このセシリア、貴女様のためであれば、いかなる泥水をも啜り、この命の最後の一滴まで捧げる覚悟にございます……!!」
皇女の、魂を削り取った命乞い。
自らのプライドを捨て、祖国の軍事機密のすべてを差し出し、民の救済のために平伏した少女の、あまりにも痛切で純粋な慈悲の懇願。
謁見の間に、静寂が降りた。
柱の影で控える女軍師ヒルデガルトが、眼鏡の奥でセシリアの覚悟を冷徹に見定め、筆頭侍女長グレーテが無表情のまま佇んでいる。
これほどの覚悟を見せられれば、いかなる名君であろうと、その忠義と痛ましさに心を動かされ、手を取り、慈悲を約束するのが物語の定石であっただろう。
――しかし。
コトリ、と。
石段の上から、あまりにも澄み渡った、硬質な音が響いた。
ヴァレリアが、右手に持っていたクリスタルグラスを、肘掛けのサイドテーブルの上へと静かに置いた音であった。
グラスの中で揺れていた黄金の白ワイン――最高司教ベネディクトの即死呪詛を神聖精製して変質させた、神話級の完全霊薬(第21話)。
ヴァレリアは、ゆっくりと玉座の背もたれから身体を起こした。
漆黒と群青のドレスの裾がさらさらと絹擦れの音を立てる。
彼女は石段の下で額を床に擦り付け、肩を震わせて泣きじゃくるセシリアを見下ろした。
その紫紺の双眸に宿っていたのは、同情でも、怒りでも、哀れみでもなかった。
ただ――。
冬の夜空に瞬く星屑のように冷涼で、絶対零度の静謐。
「…………」
ヴァレリアは扇子を手に取ると、パチンと心地よい音を立てて広げた。
そして、鈴を転がすような、だが背筋の芯まで凍りつかせるような冷淡極まる声音を、静かに落としたのである。
「――お顔をお上げなさい、皇女殿下」
「……っ!?」
セシリアの肩がビクリと跳ね上がった。
「見苦しいわよ」
ピシャリと、冷水を浴びせかけるような一言。
「床に額を擦り付け、涙を流し、無辜の民の哀れさを並び立てて命乞いをする……。それが、千年の歴史を誇るガルディニア帝国の皇女の成れの果てかしら? 反吐が出るほどに無様で、救いようのないほどに下品ですわ」
「ヴァ、ヴァレリア……様……?」
セシリアは恐る恐る、涙に濡れた顔を持ち上げた。
視界に入ったのは、石段の頂上から自分を冷然と見下ろす、絶対の女帝の貌。
ヴァレリアは扇子を優雅に揺らし、艶やかな唇の端を吊り上げて、ゾッとするほど美しい冷笑を浮かべた。
「勘違いなさらないでくださるかしら、セシリア。……私がいつ、慈悲深い聖女などと名乗ったかしら?」
息が止まった。
セシリアの菫色の瞳が、極限まで見開かれる。
「無実の民? 何も知らぬ可哀想な羊たち? ……笑わせてくださるわね」
ヴァレリアは小さく喉を鳴らして笑い、扇子の切っ先を、セシリアの額へと向けた。
「あの日――処刑場の断崖絶壁の上で、私に腐った果物を投げつけ、『魔女を殺せ』『死ね』と大歓声を上げていたのは、一体誰でしたかしら? 十年間、私が地下牢で泥水を啜り、骨を軋ませて支えてあげていた平和を何食わぬ顔で貪り、いざ偽聖女が現れれば手のひらを返して私を穴の底へ突き落としたのは……貴女が『救ってほしい』と泣き喚く、その愚民どもではなくて?」
「あ……」
セシリアの唇から、言葉にならない掠れた息が零れた。
「自業自得ですわ。彼らは、自らが蒔いた悪意の種を、今まさに自らの胃袋で刈り取っているだけに過ぎません。……なぜ私が、あのような汚らわしい豚どもに、慈悲などという都合の良い奇跡を恵んでやらねばならないのかしら?」
ヴァレリアの瞳の奥で、底知れぬ悪意の深淵が渦を巻いた。
情に流されて敵を許すなどという、生ぬるい偽善の余地は微塵もない。
彼女は聖女などではない。
理不尽のすべてを支配の力へと転換し、自らを虐げた世界そのものをチェス盤の上で自滅させる、絶対のピカレスク・ヒロイン。
「救済など、この世で最も無価値な施しよ。私は復讐者です。あの国が内側から腐り果て、愚者たちが自らの血を啜って滅びゆく様を、最前列の特等席で眺めることだけが、今の私の唯一の娯楽ですの」
凍りつくような沈黙が、大謁見の間を支配した。
平伏するセシリアの全身を、かつて味わったことのない絶望と、息もできないほどの圧倒的な畏怖が支配する。
その凍てついた皇女を見下ろし、玉座のヴァレリアは――唇の端をさらに吊り上げ、嗜虐的で、極上に危険な笑みを深めたのであった。




