第30話:密使の皇女 〜泥濘の商隊馬車と、国境に待ち受ける女軍師〜
ガルディニア帝国とカイザーライヒ帝国を隔てる峻険なる『竜骨山脈』。
万年雪に閉ざされたその険峰の裾野、切り立った断崖絶壁に沿って刻まれた細い獣道のような間道は、冷たい夜霧にすっぽりと覆い隠されていた。
木枯らしが吹き荒れるたび、枯れた針葉樹の枝が擦れ合い、まるで処刑された罪人たちの骨が鳴り響くかのような不気味な軋み音を立てる。正規の街道がカイザーライヒによる経済封鎖(第16話)によって固く閉ざされた今、この獣道こそが、厳重な国境警備網を潜り抜けるための唯一の密輸ルートであった。
その暗澹たる山道の上を、一台の粗末な商隊の馬車が、車輪を泥濘に取られながら軋んだ音を立てて進んでいた。
幌は雨風に晒されて煤け、車輪の木材には至る所に補修の跡が痛々しく残る、大陸のどこにでも転がっているような下級商人の輜重車。
御者台で手綱を握る老いた御者は、外套のフードを目深に被り、背後から追手が迫ってこないかを絶えず怯えた目で振り返っていた。
背後――東の空。
遥か彼方の地平線は、深夜であるにもかかわらず、不吉な赤黒い光によって鈍く照らし出されていた。
大聖堂が崩落し、業火に包まれた帝都ルテティアの空(第19話)。
最高司教ベネディクトが自らの呪詛に焼かれて消滅した神殿の死(第21話)。
そして何より、東部国境の古代防壁『アイアン・ウォール』が結界の消失によって破られ、五万頭を超える飢えた古代魔獣が雪崩れ込んできた地鳴りの響き(第24話)。
さらに、アルトハイム公爵領の全域で地下の呪詛泥流が噴出し、作物が全滅して数万の飢民が公爵邸を取り囲んだ大暴動(第28話、第29話)。
千年の歴史を誇った大帝国ガルディニアは、今や、国家の体をなしていない。
手足をもがれ、内臓を腐らせ、自らが蒔いた悪意の種によって全身を食い破られながら、音を立てて崩落しつつある巨大な死骸であった。
***
ギシ、ギシ、と激しく揺れる商隊馬車の荷台の奥。
積み上げられた穀物の麻袋と古い毛布の影に、一人の人影が小さく身を縮めていた。
身に纏うのは、貴族の娘が着るような上等なシルクやレースなどではない。
旅の垢と泥に汚れた、粗末な灰色の麻布の外套。
だが――そのフードの隙間から零れ落ちていたのは、夜の闇の中でも清廉な気品を失わぬ、絹糸のように艶やかな白銀の髪であった。
フードの下から覗く顔立ちは、陶器のように滑らかな白肌と、怜悧な知性を湛えた菫色の瞳。
まだ十代半ばをわずかに過ぎたばかりの少女でありながら、その佇まいには、修羅場を潜り抜けてきた指導者特有の、研ぎ澄まされた冷徹な覚悟が漂っていた。
ガルディニア帝国第二皇女――セシリア・フォン・ガルディニア。
第一皇太子ユースティスの異母妹であり、病床に倒れた老皇帝の血を引く、正統なる皇族の息女。
そして――狂気と無能が支配するガルディニア宮廷において、ただ一人、世界の現実と因果の理を正しく見据えていた聡明なる女性であった。
「…………っ」
セシリアは震える細い指先で、外套の内ポケットに忍ばせていた『ある物』にそっと触れた。
手のひらに触れたのは、ひび割れ、魔力を失って完全に冷え切った、手のひらサイズの複雑な金属の残骸。
ガルディニア帝室の地下深奥・歴代皇帝のみが立ち入ることを許された『原初の宝物庫』から、彼女が命がけで盗み出してきた古代の遺産――超長距離空間転移具【天翔ける銀の鍵】の燃え殻であった。
帝都が暴動と黒瘴気に包まれ、宮殿の周囲を近衛兵団すら守りきれなくなったあの日。
セシリアはこの古代遺物を起動し、宮殿の厳重な結界を内側から突き破って、単身、帝都の外郭へと脱出したのだ。
国境までの数百里を、身分を隠して泥水を啜り、粗末な商隊の荷台に金を払って潜り込み、追っ手の目を眩ませながら、ここまで辿り着いた。
皇女としての地位、豪華な寝室、何十人もの侍女、そして王族としての栄華のすべてを、彼女は自ら窓から投げ捨てた。
未練など、塵芥ほどもなかった。
(……あんな国に、残る価値など最初からなかった)
セシリアは菫色の瞳を冷たく細め、薄い唇を強く噛み締めた。
脳裏に蘇るのは、宮殿で繰り広げられていた末期的な茶番劇の数々。
大階段から無様に転落し、鼻を粉砕骨折した醜い顔に包帯を幾重にも巻き付けながら、激痛に狂乱して側近たちを怒鳴り散らしていた愚鈍な異母兄ユースティス(第12話)。
自慢の金髪を焦がし、顔に青あざを作りながら、自分を宥めようとした下級侍女の顔に焼けた燭台を押し当ててヒステリーを起こしていた偽聖女マリアベル(第18話)。
東部防壁から届いた「五万の古代魔獣が迫っている」という悲痛な救援要請を、「田舎者の妄言だ」と切り捨てて親書を八つ裂きにし、見殺しにした皇太子の狂気(第24話)。
そして、自らの娘を十年間地下牢に売り飛ばして肥え太り、最後はその形見までも強奪しようとして両腕を炭化させられたアルトハイム公爵家の浅ましき末路(第27話)。
腐りきっていた。
上に立つ者が誰一人として現実を見ず、保身と虚栄心と我欲のために、罪なき民の血を啜り、国家を破滅の淵へと追いやっていた。
セシリアは幾度となく、兄ユースティスに諫言した。
『お兄様、マリアベルの奇跡はまやかしです。ヴァレリア様を処刑してはなりません』
『今すぐ軍を東部へ向けてください。防壁が破られれば国が滅びます』
だが、返ってきたのは侮蔑の嘲笑と、平手打ちだけであった。
『女子供が生意気に口を挟むな! 我が光の聖女を侮辱するなら、貴様とて皇族の籍を剥奪するぞ!』
止められなかった。
どれほど正論を尽くそうと、狂った船長が全速力で氷山へ向けて舵を切る船の上で、一介の少女の叫びなど風にかき消されるだけだった。
そして――何よりもセシリアの魂を焼き苛んでいたのは、幼き日の記憶であった。
***
――それは、セシリアがまだ八歳か九歳の頃。
母を早くに亡くし、宮廷の権力闘争と腹黒い貴族たちの偽善に馴染めず、城の片隅でいつも一人で震えていた幼き日のセシリア。
ある日、彼女は大聖堂の奥深く、誰も近寄ろうとしない薄暗い地下階段の先へと、迷い込むようにして足を運んだことがあった。
大聖堂地下最深部、『封呪の石牢』。
重厚な鉄格子の向こう側、冷たい湿気と悪臭の漂う暗闇の底に、その少女はいた。
ヴァレリア・フォン・アルトハイム。
当時、十代前半の華奢な身体を重い呪縛の鎖で縛り付けられ、帝国全土から流れ込む有毒な黒瘴気を一身に受け止めていた、身代わりの聖女。
骨が軋み、皮膚が爛れ、息を吸うことすら激痛を伴うはずの地獄の底。
だが、格子越しに迷い込んできた幼い皇女を見つけたヴァレリアは――悲鳴を上げることも、助けを求めることも、ましてや皇帝の娘に対する恨み言を口にすることすら、一度たりともしなかった。
『……迷子かしら、小さな皇女様』
暗闇の中から響いたのは、鈴の音のように澄んだ、驚くほど気高く、優しい声音であった。
ヴァレリアは血の滲む指先で、落ちていた石の破片を拾い上げると、格子の隙間からセシリアの手元へと、小さな光る鉱石を転がしてくれたのだ。
地下の暗闇で不安に怯える幼子の足元を照らすための、淡い燐光を放つ小さな石。
『ここは冷えるわ。風邪を引かないうちに、温かいお母様の元へお帰りなさい』
『……お母様は、もう天国にいらっしゃいます』
セシリアが涙をこぼしながら答えると、ヴァレリアは紫紺の瞳を柔らかく細め、微笑んだ。
『そう……。寂しいわね。でも、泣かなくてよろしくてよ。人は一人で生まれ、一人で運命に立ち向かうもの。……自分の頭で考え、自分の足で立ちなさい。誰かの言いなりになるのではなく、貴女自身の誇りのために生きるのよ、セシリア』
その言葉は、宮廷の誰も教えてくれなかった、真実の生き方であった。
以来、セシリアは監視の目を盗み、幾度となく地下牢のヴァレリアの元へ足を運んだ。
格子の隙間越しに、ヴァレリアはセシリアに大陸の歴史を教え、軍事学の基礎を説き、国家の経済構造の歪みを語ってくれた。
どれほど泥水に塗れていようとも、どれほど理不尽な苦痛に苛まれていようとも、ヴァレリアの精神は一度たりとも汚れることはなく、天上のいかなる王族よりも高潔で、知性に満ち溢れていた。
この国を支えているのは、大聖堂の神官たちでも、玉座に座る父や兄でもない。
地下牢で泥水を啜りながら、たった一人で世界を支え続けている、この黒髪の聖女なのだ――幼いセシリアは、その真実を誰よりも深く、魂に刻み込んでいたのだ。
***
「……それなのに、あの愚者たちは」
馬車の荷台の暗闇の中で、セシリアの菫色の瞳から、熱い涙が一筋こぼれ落ち、粗末な麻布の膝の上へと吸い込まれていった。
恩を仇で返した。
十年間、国を守り続けてくれた唯一の恩人を、ドブネズミと罵倒し、愛嬌だけの無能な小娘にたぶらかされて、断絶の深淵へと蹴り落としたのだ。
自業自得。因果応報。
今、ガルディニア帝国が内側から腐り落ち、民衆が暴動を起こし、魔獣に蹂躙されようとしているのは、すべてあの愚者たちが自ら招いた当然の報いであった。
だが――セシリアは、ただ祖国の破滅に殉じて死ぬつもりは毛頭なかった。
『自分の頭で考え、自分の足で立ちなさい。貴女自身の誇りのために生きるのよ』
かつて地下牢でヴァレリアが授けてくれたその言葉だけが、今のセシリアの背骨を貫く絶対の道標であった。
(ヴァレリア様は、生きていらっしゃる)
セシリアには確信があった。
帝都を襲った数々の異常事態――大聖堂の爆発、大階段でのボリス騎士長の膝の粉砕、最高司教ベネディクトの自爆と自白、そして公爵家の壊滅。
それらの手口のすべてに、かつて地下牢で語り合っていた、あの冷徹で無駄のないヴァレリアの盤面掌握の気配が色濃く漂っていたからだ。
あの方が、ただ深淵の底で死ぬはずがない。
地獄から這い上がり、今や隣国カイザーライヒの頂点に座して、この愚かな祖国が崩壊していく様を、特等席から冷ややかに見下ろしているに違いないのだ。
(私は、助かりたくて逃げてきたのではない)
セシリアは懐から、もう一つの羊皮紙の束を握りしめた。
帝室の書斎から命がけで持ち出してきた、ガルディニア帝国の全軍事要塞の配置図、帝都の地下水脈の構造図、そして皇室直轄の全秘密資産の暗証符牒。
(私は……あの方の手駒となるために来た。あの方の復讐の舞台を、内側から完璧に完成させるための、最も鋭利な刃となるために……!)
ドスンッ!!
唐突に、商隊馬車が激しい衝撃と共に急停止した。
「ヒヒィィィンッ!」
馬のいななきと、御者の悲鳴のような叫び声が荷台の外から響く。
「ひ、ひぃぃっ! だ、誰だ貴様ら! あっしらはただの旅の商人で――」
「動くな。カイザーライヒ帝国軍だ。武器を捨て、両手を挙げて馬車から降りろ」
低く、重厚で、金属の擦れ合う冷徹な声。
セシリアの心臓が、トクンと激しく跳ね上がった。
辿り着いたのだ。
竜骨山脈の険路を越えた先――大陸最強の軍事覇権国家カイザーライヒの国境警備線。
帝国軍の秘密検問所『黒梟の監視砦』。
「おい、荷台の積荷を改めろ! 不審者はその場で拘束しろ!」
兵士たちの無機質な軍靴の音が、馬車の周囲を取り囲む。
ザッ、と荷台の幌が荒々しく跳ね上げられた。
冷涼な夜風と共に、魔導ランタンの鋭い光線が、穀物袋の影に潜んでいたセシリアの姿を真っ直ぐに射抜いた。
「見張れ! 密入国者だ! 女が一人潜んでいるぞ!!」
漆黒の甲冑に身を包んだカイザーライヒの黒甲兵たちが、一斉にハルバードの切っ先をセシリアの喉元へと突きつけた。
一分の狂いもない、歴戦の兵士たちの規律。わずかでも怪しい動きを見せれば、即座に喉笛を刺し貫かれるだけの絶対的な殺気。
だが――セシリアは微動だにしなかった。
悲鳴を上げることも、命乞いをすることもない。
彼女はゆっくりと両手を挙げ、麻布のフードを自らの手で静かに後ろへと跳ね上げた。
ハラリ、と夜風に白銀の髪が広がる。
魔導ランタンの光を浴びて浮かび上がったのは、泥に汚れてなお気高き輝きを放つ、若き皇女の美しい顔立ち。
そして、兵士たちの威圧感を正面から受け止め、一片の揺らぎすら見せない、冷徹なる菫色の瞳。
「な……!?」
兵士たちが思わず息を呑み、槍の切っ先をわずかに震わせた。
粗末な衣服を纏っていようとも、隠しきれるものではない。生まれながらにして万人の上に立つ者だけが放つ、絶対の血統の気品と覇気。
「無礼を許せ。貴様、何者だ! ガルディニアの密偵か!?」
兵士の詰問に対し、セシリアは静かに口を開こうとした。
――だが。
「――そこまでになさい、兵たちよ」
夜霧を切り裂いて、澄み渡る氷のように冷涼な、だが絶対の命令権を持つ女性の声が響いた。
カツン、カツン、と。
石畳を踏み鳴らす、無駄のない硬質な足音。
黒甲兵たちが一斉に弾かれたように直立不動となり、整然と道を開けて最敬礼の姿勢を取る。
霧の奥から歩み出てきたのは、濃紺の軍務服に身を包んだ、背の高いすらりとした女性であった。
肩口で切り揃えられた薄氷色の髪を夜風になびかせ、金縁の細身の眼鏡の奥で、怜悧極まる知性の光を放つ双眸。
手元には、極秘の軍事書類を挟んだ黒革のバインダーを抱えている。
カイザーライヒ帝国筆頭軍師兼筆頭宰相――ヒルデガルト・フォン・ベルリッヒ。
皇帝コンラートすら手玉に取る大陸屈指の頭脳を持つ辣腕の女傑が、なぜ一介の国境検問所に自ら足を運んでいるのか。
その事実だけで、事態が偶然の密入国などではないことを物語っていた。
ヒルデガルトは馬車の荷台の前まで歩み寄ると、眼鏡の位置を指先でスッと直した。
そして、麻布の外套を纏ったセシリアの姿を、値踏みするようにじっと見据えた。
「……古代転移具の残骸を使い、粗末な商隊の馬車に身を隠して国境を越えるとは。随分と泥臭い旅路を選ばれましたね」
ヒルデガルトの唇に、薄く、冷ややかな笑みが浮かんだ。
彼女はバインダーを小脇に抱えると、胸元に手を当て、寸分の狂いもない宮廷作法に則った、完璧な礼式を執ってみせた。
「――お待ちしておりましたよ、ガルディニア帝国第二皇女、セシリア・フォン・ガルディニア殿下」
「……っ!」
セシリアの喉が、息を呑んで詰まった。
初対面のはずの敵国の筆頭宰相が、一瞬で自らの正体を見破り、あまつさえ待ち構えていたかのように迎えたのだ。
「なぜ……私の名を……」
「我が帝国の情報網を甘く見ないでいただきたいですね」
ヒルデガルトは平然と言い放った。
「神殿が崩壊し、公爵領が暴動に包まれ、東部国境に魔獣が押し寄せているこの期に及んで、宮殿を脱出した皇族が一人。……あの無能なユースティス皇太子にそのような胆力があるはずもなく、消去法で導き出される答えは、聡明と噂される第二皇女殿下、貴女しかあり得ません」
ヒルデガルトは一歩、馬車のステップへと足をかけた。
眼鏡の奥の切れ長の瞳が、獲物の腹の内を解剖するように鋭く光る。
「さて、殿下。単身、敵国たる我がカイザーライヒへ潜入された目的は何でしょうか? まさか、滅びゆく祖国を救うため、哀れな亡命者として皇帝陛下に慈悲の命乞いをしに来られた……などという下品な理由ではないでしょうね?」
試すような、冷酷な問いかけ。
もしここでセシリアが涙を流して「助けてください」と懇願すれば、彼女はただの政治的カード、あるいは使い捨ての人質として地下牢へ放り込まれるだけであっただろう。
だが――。
セシリアの菫色の瞳に、迷いの色は微塵もなかった。
彼女は馬車の荷台から、泥まみれの革靴で、トンと音を立てて冷たい石畳の上へと降り立った。
背筋を寸分の狂いもなく伸ばし、カイザーライヒの筆頭軍師と、真正面から視線を激突させる。
「慈悲など、求めに来てはおりません」
セシリアの声は、木枯らしの吹き荒れる夜気を切り裂いて、凛と響き渡った。
「私が持参したのは、命乞いの言葉ではなく――あの愚かなガルディニア帝国を、内側から完璧に解体するための『手土産』です」
セシリアは懐から、帝国の全軍事要塞配置図と地下水脈図を記した羊皮紙の束を取り出し、迷うことなくヒルデガルトの胸元へと突き出した。
「神殿の豚どもも、愚鈍な兄ユースティスも、自らが蒔いた悪意の種によって破滅するのは当然の報い。あの国に、救う価値のあるものなど何一つありません。……私は、あの方の手駒となるために参りました」
セシリアの瞳に宿ったのは、狂気にも似た、濁りなき覚悟の光。
「あの方の前に私を連れて行きなさい。……地獄の底から這い上がられた、真なる女帝――ヴァレリア・フォン・アルトハイム様の御前へ!」
静寂が、検問所を支配した。
黒甲兵たちが息を呑む中、ヒルデガルトは突き出された羊皮紙の束を受け取ることなく、じっとセシリアの顔を見つめていた。
そして――。
「……ふふ」
ヒルデガルトの唇から、感嘆と愉悦を含んだ、柔らかな笑みが零れ落ちた。
「素晴らしい覚悟ですわ、第二皇女殿下。……ええ、合格です」
ヒルデガルトはバインダーを閉じ、満足げに目を細めた。
「身構える必要はありませんよ。貴女が祖国を切り捨てる覚悟を持ってここへ来られることなど……我が主、ヴァレリア閣下は、すべて最初からお見通しでいらっしゃいましたから」
「……え?」
セシリアの菫色の瞳が見開かれた。
「閣下が仰っておりましたよ。『神殿が崩壊し、公爵領が燃えれば、あの腐りきった宮廷の中で唯一脳味噌の入っている皇女が、自ら首輪を求めて這いずり出てくるはずよ』……とね」
ヒルデガルトは恭しく身を退き、検問所の奥に待機させていた、漆黒の装甲を施された豪奢な迎賓馬車の扉を自らの手で開け放った。
「ようこそ、カイザーライヒ帝国へ、セシリア殿下。……至高の特等席で待つ我が主の元へ、ご案内いたしましょう」
ヒルデガルトの冷ややかな、だが確信に満ちた微笑み。
その底知れぬ盤面掌握の深さに、セシリアは全身の血が凍りつくような戦慄を覚えながらも――自らの運命のすべてを預けるべく、力強く頷いた。
「……ええ。参りましょう。あの方の御前へ」
滅びゆく祖国ガルディニアの皇女は、自ら泥のドレスを脱ぎ捨て、絶対の女帝の手のひらの上へと、静かにその身を投じたのであった。




