第29話:飢民の蜂起と兵站の断絶 〜闇夜に爆ぜる兵糧庫と、逃げ惑う私設騎士団〜
夜の闇を真紅に染め上げるのは、大地を埋め尽くした数万本の松明の火であった。
かつて黄金の絨毯と讃えられたアルトハイム公爵領の広大な沃野は、いまや異臭を放つ酸性の黒泥に呑み込まれ、息をするだけで喉を焼く死の湿地帯へと沈んでいた(第28話)。作物は全滅し、井戸水は毒水と化し、家畜は全滅。十年間、公爵領の繁栄を支えていた『大地の呪詛の防壁』――ヴァレリアというたった一人の生贄が失われたことの代償は、農民たちから明日を生きるための糧のすべてを奪い去ったのである。
飢えと、渇きと、そして裏切られた怒り。
それらに背中を押された数万人の領民たちが、泥に塗れた足で這うようにして辿り着いた先が、領地の中央にそびえ立つアルトハイム公爵邸であった。
公爵邸を囲む高さ八メートルの石造りの防壁の前に、松明を持った群衆が黒山の人だかりとなって押し寄せていた。
彼らの手には、錆びた鎌、薪割り斧、つるはし、そして棍棒が握りしめられている。
女たちは飢えて泣き叫ぶ赤子を胸に抱き、男たちは血走った目で鉄格子の巨大な正門を睨みつけていた。
『門を開けろぉぉぉっ!!』
『食糧庫を開放しろ! 俺たちにパンを寄越せ!!』
『自分たちだけ肥え太りやがって! ヴァレリア様を生贄にして吸い上げた金を吐き出せぇぇぇっ!!』
怒号は大地を揺るがす地鳴りとなって防壁を打ち叩いていた。
民衆の手には、帝都から暗殺ギルドがばら撒いた告発状(第17話)の写しが握りしめられていた。
自分たちが豊かな収穫を享受していた陰で、公爵家の長女ヴァレリアが十年間、地下牢で地獄の苦痛を引き受け続けていたこと。
そして、用済みとなった彼女を父親である公爵ハインリヒが嘲笑と共に深淵へ蹴り落としたこと。
そのすべての因果が暴かれた今、領民たちの胸にあった領主への畏怖は、骨の髄まで焼き尽くすほどの殺意へと反転していた。
「開けろ! 開けないなら門を叩き壊すぞ!!」
ドォォォォンッ!!
数十人の屈強な農夫たちが担ぎ上げた巨大な丸太が、防壁の鉄門へと叩きつけられた。
鈍い衝撃音が夜空に響き、鉄の閂が軋みを上げる。
***
その怒号の嵐を、防壁の内側――豪奢な本館の二階バルコニーから、血走った目で見下ろしている男がいた。
「……愚民どもめが。反吐が出るわ、薄汚い寄生虫どもが!!」
公爵ハインリヒ・フォン・アルトハイム。
先刻、北棟において実母の形見を強奪しようとした次女クロティルデの腕が炭化し、家宝の剣で助けようとした反動で吹き飛ばされて肋骨を粉砕された男(第27話)。
胸元には分厚い包帯が巻かれ、呼吸をするたびに肺に激痛が走っていたが、その痛みすら今のハインリヒには感じられなかった。
手にした純金のステッキをバルコニーの手すりに叩きつけ、唾を撒き散らしながら喚き散らす。
「誰のおかげで今まで飯を食えていたと思っているのだ! このアルトハイムの領地で農耕を許してやっていた恩を忘れ、我が屋敷を取り囲むだと!? 万死に値する反逆者どもめが!!」
「だ、旦那様……!」
背後に控えていた私設騎士団長が、青ざめた顔で進言した。
「門前の群衆は優に三万を超えております! このままでは正門が破られるのも時間の問題です! 備蓄庫の小麦を一部でも放出し、彼らの怒りを鎮めてはいかがでしょうか……!?」
「黙れッ!!」
ハインリヒはステッキの柄で騎士団長の頬を容赦なく殴りつけた。
ゴツンと鈍い音が響き、団長がたたらを踏む。
「なぜ我が公爵家の財産を、あのようなドブネズミどもに恵んでやらねばならんのだ! 作物が全滅した今、あの地下倉庫の穀物こそが、我が公爵家が帝都の貴族院で生き残るための唯一の生命線なのだぞ! 一粒たりとも渡すものか!!」
ハインリヒは狂気に満ちた笑みを浮かべ、抜刀を命じた。
「全私設騎士団に通達せよ! 重装歩兵、騎兵、弓兵、三千の全軍をもって門を開け放ち、愚民どもを皆殺しにせよ! 反逆者として一人残らず首を刎ねろ! 畑の泥の上に死体の山を築いて、領主たる我が威厳を思い出させてやれぇぇぇっ!!」
血も涙もない、自らの領民に対する無差別虐殺の命令。
娘の肉を売り払って肥え太ってきた男の、最後の狂乱であった。
「……は、ははっ! 全軍、出撃準備ッ!!」
騎士団長は震えながら敬礼すると、本館の回廊を駆け下りていった。
公爵家の私設騎士団三千名。
装備は帝国の正規軍にも劣らぬ最新の板金鎧と鋼鉄の槍、そして魔導弓。
相手は武器の扱いも知らぬ農民たちである。完全武装の騎士団が突撃すれば、数万の群衆などわずか半刻で血の海へと沈めることができるはずであった。
――本来であれば。
***
公爵邸の裏手に広がる、広大な軍用敷地。
三千の私設騎士たちが、慌ただしく鎧の留め金を締め、出撃の隊形を整えようとしていた。
だが、その陣営の至る所から、突如として困惑と悲鳴の声が上がり始めた。
「お、おい! 馬はどうした!? 騎兵隊の軍馬を早く引き出せ!!」
「だ、駄目です隊長! 厩舎の馬が……一頭も立ち上がれません!!」
「何だと!?」
騎兵小隊長が厩舎へと駆け込んだ。
そして、目を見張った。
敷き藁の上に倒れ伏していたのは、公爵家が巨額の金を投じて諸外国から買い集めた、五百頭に及ぶ屈強な軍馬たちであった。
馬たちは口から泡を吹き、苦痛に鼻息を荒げながら、地面を掻きむしっていた。
その四肢――両足の後ろ足の腱が、鋭利極まる刃によって、皮一枚残して寸分の狂いもなく『両断』されていたのだ。
一頭や二頭ではない。五百頭すべての軍馬の腱が、夜陰に乗じて音もなく切り裂かれていたのである。
「ば、バカな……! 誰がこんな真似を!? 歩哨は何をしていたんだ!!」
混乱は、武器庫でも同時に発生していた。
「火薬だ! 魔導砲と火炎銃の装填を急げ!」
「た、隊長……火薬樽が……!」
兵士たちが震える手で開けた大型の火薬樽。
その中に入っていたのは、乾燥した黒色火薬などではなかった。
樽の底には、地下水路から汲み上げられたとおぼしき、粘り気のあるドブ泥と水が並々と注ぎ込まれ、火薬は真っ黒なヘドロとなってドロドロに溶け崩れていたのだ。
「水が……火薬に水が混ぜられている! 使えない、一発も撃てないぞ!!」
「弓の弦もだ! 予備の弓弦が全部切り刻まれている!!」
「な……何が起きているんだ!? 敵か!? 敵が潜入しているのか!?」
完全武装を誇るはずの軍隊が、出撃の直前になって、手足を奪われた赤子のようにパニックへと叩き落とされていた。
馬は走れず、火薬は湿気り、弓は引けない。
そして――その混乱が極限に達した、まさにその瞬間であった。
――カチリ。
静寂を切り裂いて、武器庫の天井の梁から、乾いた指を鳴らす音が響いた。
次の瞬間。
――ドォォォォォォォォォンッ!!!!
天地を揺るがす大爆発が、公爵邸の敷地を叩き割った。
一つではない。
武器庫の中央、魔導弾薬の集積所、そして公爵家が何万トンもの穀物を秘匿していた巨大な地下兵糧庫――三箇所が、寸分の狂いもなく同時に、紅蓮の火柱を夜空へと噴き上げたのだ。
ズギャアアアアンッ!!
猛烈な爆風が吹き荒れ、武器庫の石壁が一瞬で粉微塵に吹き飛んだ。
弾薬庫に保管されていた古代の魔導結晶が連鎖爆発を起こし、極彩色の破壊光線が敷地内を乱れ飛ぶ。
兵糧庫の屋根は吹き飛び、何千袋もの小麦が炎に呑まれて黒煙を上げ、香ばしいパンの焦げる匂いが、肉の焦げる異臭と共に夜風に乗って広がっていく。
「ぎゃああああああああっ!?」
「火事だ! 武器庫が吹き飛んだぞ!!」
「兵糧が……食糧庫が燃えているぅぅぅっ!!」
爆風の直撃を受け、数十名の私設騎士たちが吹き飛ばされ、石畳へと叩きつけられて血飛沫を上げる。
炎の粉が雨のように降り注ぎ、陣営全体が阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
***
その燃え盛る武器庫の屋根の天頂――火の粉が舞い散る漆黒の夜空を背にして、一人の影が佇んでいた。
夜啼鳥の羽根色のマントを風になびかせる、銀髪碧眼の少年。
裏社会の頂点に君臨する暗殺ギルド『影の旅団』の頭領――キリアンであった。
少年は、手にした二本の波刃ダガーの切っ先を、軽やかに指先の上でくるくると回転させていた。
その陶器のように整った白い顔輪郭には、煤一つついていない。
冷酷無比な碧眼で眼下の阿鼻叫喚を見下ろしながら、少年は甘く、無邪気な笑みを唇に浮かべた。
「あはっ……綺麗な花火。やっぱり、ヴァレリア様の仰った通りだったな」
キリアンの背後の影から、十数名の黒装束の暗殺者たちが音もなく膝をついた。
彼らはすべて、キリアンが率いるギルドの最精鋭たちであった。
「頭領。ご指示通り、公爵領から帝都へ続く主要街道の石橋三箇所、すべて爆破完了いたしました」
「補給路の輜重隊も全滅させ、伝令の早馬の喉笛はすべて掻っ切ってあります。……公爵邸は完全に孤立無援です」
「うん、ご苦労様」
キリアンは満足げに頷くと、懐から小さな布切れを取り出して、ダガーの刃を丁寧に拭った。
その布は、かつて十年前、地下牢に入る直前のヴァレリアから水とパンを与えられた際(第6話)、少年の泥だらけの頬を拭ってくれた、彼女のハンカチの切れ端であった。
「ヴァレリア様が言ってたんだ。『相手の手足を一本ずつ切り落とし、自重で倒れる様を眺めなさい』ってね。……ふふっ、馬の腱を切るの、すっごく楽しかったな。火薬にドブ水を混ぜるのも、子供の泥遊びみたいで最高だった」
キリアンは頬を紅潮させ、恍惚とした吐息を漏らした。
この国家規模の裏工作――軍馬の無力化、兵糧と武器の同時爆破、補給路の完全切断。
軍隊が何ヶ月もかけて行う兵站破壊を、キリアン率いる暗殺ギルドは、ヴァレリアから下されたたった一枚の指令書に従い、わずか一夜のうちに、完璧に完了させていたのだ。
「さてと……武器もご飯もなくなった兵隊さんたち、どうするのかな?」
キリアンは屋根の端にしゃがみ込み、冷酷な瞳で正門の方角を見下ろした。
***
正門の内側。
武器庫と兵糧庫を失い、煙と炎に巻かれた三千の私設騎士団は、完全にパニックに陥っていた。
「ど、どうするんだ!? 馬もいない、予備の武器もない、兵糧も全滅だぞ!」
「この屋敷に留まっていたら、飢えて死ぬか、煙に巻かれて焼け死ぬだけだ!」
そこへ――。
ドガァァァァァァンッッ!!!!
ついに、外からの数万の飢民の丸太攻撃に耐えかねて、正門の鉄の閂がへし折れた。
巨大な門扉が、内側へと激しい音を立てて倒れ込む。
「開いたぞぉぉぉっ!!」
「雪崩れ込めぇぇぇっ!!」
ドォォォォォォッ!!
何万という松明の火が、怒号と共に屋敷の敷地内へと一気に雪崩れ込んできた。
先頭を走るのは、飢えと毒水によって家族を奪われ、完全に理性を失った農夫たち。彼らは鎌や斧を振り上げ、燃える武器庫を背にして立ち尽くす私設騎士たち目掛けて突進してくる。
その圧倒的な数と、死を恐れぬ狂気の気迫。
対する私設騎士たちは、馬もなく、火薬もなく、指揮系統も崩壊し、ただの鉄の板を身につけただけの無力な標的と化していた。
「ひ……ひぃぃぃっ!?」
最前列にいた騎士の一人が、悲鳴を上げて後ずさった。
「無理だ……! こんな数の暴徒、防げるわけがない!」
「おい、戦え! 公爵様のために戦え!」
騎士団長が叫ぶが、その声に耳を貸す者など一人もいなかった。
給与の支払いも怪しく、食糧庫すら燃え尽きた今、誰が強欲な公爵のために命を捨てるというのか。
「やってられるかぁっ!」
一人の兵士が、手にした長槍を地面へと叩きつけた。
それを皮切りに、チャリン、ガシャンと、鋼鉄の武具が次々と地面に投げ捨てられていく。
「逃げろ!」「門から出ろ!」「公爵の私兵なんてやめだ!」
三千の私設騎士団は、交戦することすらなく、我先にと武器を捨て、裏門や壊れた防壁の隙間目掛けて蜘蛛の子を散らすように逃走していった。
数万の群衆の前に、公爵邸の防衛線は、わずか数分で完全に消滅したのである。
「公爵を捕まえろぉぉぉっ!!」
「あの豚を広場へ引きずり出せ!!」
障害の消え去った邸宅の敷地内へ、怒れる民衆の濁流が雪崩れ込んだ。
防壁を乗り越え、窓ガラスを叩き割り、本館の大扉を斧で破り――略奪と破壊の嵐が、豪奢を極めたアルトハイム公爵邸を呑み込んでいく。
純金の彫像が引き倒され、高価な絵画は引き裂かれて松明の火をつけられ、ワインセラーの樽は叩き割られて美酒が泥水のように床を流れる。
十年間、ヴァレリアの血肉を売って築き上げられた偽りの栄華が、民衆自身の復讐の手によって、粉々に解体されていく。
***
その狂乱の嵐のただ中。
本館の最奥、頑強な特殊鋼鉄で覆われた『公爵私室の隠し金庫室』。
バタンッ!!と重厚な鋼鉄扉が内側から閉ざされ、三重の閂が下ろされた。
「ひっ……ひぐっ、う、うああああっ……!」
暗闇の中、冷たい床の上にへたり込んでいたのは、公爵ハインリヒであった。
折れた肋骨の痛みに顔を歪め、贅肉のついた身体を小刻みに震わせながら、彼は部屋の隅に山積みにされた純金の延べ棒と宝石箱にしがみついていた。
「金だ……我が金だ……! 誰にも渡さん……! これは私のものだ、アルトハイム公爵家のものだぁぁっ!」
金塊を抱きしめるハインリヒの顔は、恐怖と狂気で土色に変色していた。
外から響くのは、邸宅が破壊されていく凄まじい轟音と、何千人もの民衆の怒号。
私設騎士団が逃走したことも、武器庫が吹き飛んだことも、彼にはすべて理解できていた。
自分は孤立したのだ。
逃げ場はない。この頑丈な金庫室の扉だけが、彼と死を隔てる唯一の盾であった。
だが――。
ドガァァァァンッ!!
金庫室のすぐ外、私室のオーク材の扉が、激しい音を立てて叩き割られた。
『いたぞ! この奥の部屋だ!』
『斧を持ってこい! 扉を叩き割れ!!』
ガンッ! ガンッ! ドガンッ!!
鋼鉄扉の表面に、鈍く重い衝撃が連続して打ち込まれ始めた。
大槌が、斧が、鉄パイプが、扉を叩き割ろうと狂乱の勢いで打ち据えられている。
頑丈な鉄扉であっても、何万という群衆が交代で打ち続ければ、破られるのは時間の問題であった。
「ひぃぃぃっ……! 助けてくれ……! 誰か……誰か助けてくれぇぇぇっ!!」
ハインリヒは金塊を抱いたまま、ガタガタと歯の根を鳴らして涙と鼻水を垂らした。
かつて娘を地下牢の暗闇へ突き落とし、十年間の激痛に泣き叫ぶ声を嘲笑っていた傲慢な父親が、今や、自らが逃げ込んだ暗黒の金庫の中で、恐怖に怯える一匹の豚となって震えていた。
扉の隙間から漏れ聞こえる斧の音。
それは、彼が十年間積み上げてきたすべての罪に対する、逃れようのない死刑執行の足音であった。




