第28話:腐りゆく豊穣の沃野 〜黄金の大地を呑む黒泥と、飢えに狂いし領民の咆哮〜
ガルディニア帝国東部に広がる『アルトハイム公爵領』は、建国以来、大陸全土から『帝国の乳房』と称えられてきた至高の穀倉地帯であった。
地平線の彼方まで遮るものなく広がる見渡す限りの広大な沃野。
秋風が吹き抜けるたび、豊かに実った麦穂がさざ波のように揺れ、大地全体が黄金の絨毯を敷き詰めたかのように燦然と輝く。帝都ルテティアをはじめとする帝国内の全人口が消費する食糧の四割を、このアルトハイムの肥沃な土壌が一手に賄っていた。
収穫期を目前に控えた農村では、農民たちが手入れされた鎌を研ぎ、麦を運ぶ荷馬車の車輪に油を差し、今年もまた訪れるであろう空前の大豊作を疑いもしなかった。
だが――彼らは誰一人として知らなかったのだ。
この肥沃すぎる大地が、いかなる『おぞましき欺瞞』の上に成り立っていたのかを。
本来、アルトハイム公爵領の地下深くには、東部魔境『昏冥の原生林』から枝分かれした、致死性の超高濃度魔力残滓――『原初の穢れの奔流』が網の目のように交差していた。
土壌を壊死させ、触れる草木を瞬時に腐敗させるはずの猛毒の地脈。
それがなぜ、十年もの長きにわたり、植物の成長を異常なまでに促進させる奇跡の滋養へと変貌していたのか。
――答えは、ただ一つの冷酷な真実。
アルトハイム公爵ハインリヒが、実の長女ヴァレリアを帝都大聖堂の地下最深部『封呪の石牢』へと生贄として差し出し、地下水脈を通じて流れ込むすべての毒素を、十年間、彼女のたった一つの華奢な肉体に吸い上げ、濾過させ続けていたからに他ならなかった。
娘の骨を軋ませ、皮膚を爛れさせ、血反吐を吐かせることで維持されていた、偽りの豊穣。
その絶対の濾過フィルターであったヴァレリアを、自らの手で深淵へ突き落とし、あまつさえ亡き実母の形見までも強奪しようとしたアルトハイム公爵家(第27話)。
神殿の結界が崩壊し、東部防壁の守護が失われた今――十年間せき止められ、何万トンもの質量となって地下水脈に濃縮されていた国家規模の呪詛が、行き場を失った巨大な霊的マグマとなって、大地の下で臨界点を突破した。
***
始まりは、微かな地鳴りであった。
ド……ド……ド……。
収穫の準備に追われていたアルトハイム領最大の農村・ゼルク村の農民たちが、ふと作業の手を止め、足元を見下ろした。
蹄の音ではない。地震とも違う。
まるで、大地の底で巨大な胃袋が蠢き、消化不良の汚泥を吐き出そうとしているかのような、不快極まりない重低音の振動。
「……おい、なんだこの音は?」
麦畑のあぜ道に立っていた中年の農夫が、眉をひそめて首を傾げた。
「馬車の列でも近づいてるのか? いや、東の防壁のほうから響いているような……」
その呟きが宙に消え去るよりも早く――大地が、悲鳴を上げた。
――ズギャァァァァァァンッッ!!!!
足元の石畳が、麦畑の土壌が、一斉に上方へと跳ね上がった。
何万ヘクタールにも及ぶ広大な黄金の平原の各所から、まるで間欠泉のように、轟音と共に黒紫色の液体が天高く噴き上がったのだ。
「うわああああっ!?」
「な、何だこれは!? 水じゃない……泥だ! ドブ泥が噴き出してきたぞ!!」
天から降り注いだのは、恵みの雨などでは断じてなかった。
鼻腔を焼き切るような強烈な硫黄臭と、死肉が腐敗したかのようなドス黒いヘドロの飛沫。
十年間、ヴァレリアの肉体という防壁によって地下深くに圧縮されていた、何万トンもの『原初の呪詛ガス』が、地下水脈と完全に混ざり合い、強酸性の泥流となって地表へと大逆流を果たしたのだ。
ジュウウウウウウウウッッ!!
悲惨極まる光景が、農民たちの目の前で瞬時にして広がっていった。
太陽の光を浴びて黄金色に輝いていた見渡す限りの麦畑――そこに黒泥が触れた瞬間、パチパチと不気味な泡が立ち上り、青白い煙が噴き上がった。
豊かな麦の茎が、まるで熱湯を浴びせられたかのようにドロドロに溶け崩れていく。
黄金色だった穂先は、触れる端から真っ黒に変色し、悪臭を放つ毛むくじゃらの『黒カビ』にびっしりと覆われ、わずか数分のうちに腐肉のような粘液となって土へと溶け落ちていった。
「う、嘘だろ……! 麦が……俺たちの麦がぁぁぁっ!」
農夫が叫び、泣き叫びながら駆け寄ろうとした。
だが、あぜ道を踏み出した瞬間――ズブブッ!と、彼の長靴が膝まで泥に呑み込まれた。
「ぎゃっ!? あ、熱い! 足が焼けるぅぅぅっ!!」
悲鳴を上げて引き抜いた彼の革靴は、酸性の黒泥に触れた部分がジュクジュクと音を立てて溶け崩れ、中の皮膚が赤黒く爛れ落ちていた。
肥沃であったはずの農地全体が、底なしのドブ色の泥沼へと急速に沈降していたのだ。
一ヘクタール、十ヘクタール、百ヘクタール――黄金の海であった平原は、目に見える速度で真っ黒な死の湿地帯へと呑み込まれていき、腐敗の霧が地表を白く覆い尽くしていく。
だが、地獄は畑の上だけにとどまらなかった。
「水だ! 井戸水を持ってこい! 火傷を洗うんだ!」
村の中心部へ逃げ帰った農民たちが、広場の共同井戸の釣瓶を必死に巻き上げた。
大聖堂が井戸に微毒を撒いていた帝都(第17話)とは比較にならない、完全なる物理的毒水の噴出。
井戸の底からゴボリ、ゴボリと不気味な泡立ちの音が響いた次の瞬間――。
ドパァァァァンッ!!
井戸の石組みを吹き飛ばし、鉄砲水のように噴き出したのは、血のように赤黒く濁りきった有毒泥水であった。
濃縮された霊的毒素と重金属を含んだその濁流は、広場を這うように広がり、村の排水溝を逆流して民家の床下へと雪崩れ込んでいく。
モオオオオオッ! ヒヒィィィンッ!
村の牧場から、家畜たちの狂乱したいななきが響き渡った。
水たまりの水を口にした乳牛や軍馬たちが、わずか数秒の後、激しく四肢を痙攣させて地面へと叩きつけられたのだ。
目から血を流し、口から白い泡と黒い胃液を噴き散らし、内臓を腐食された牛や羊たちが、数百頭単位で次々と絶命していく。
鶏は羽をむしり取られたように倒れ伏し、池の魚は腹を上にして水面に浮かび上がり、その鱗が白く崩れて水へと溶けていく。
完全なる生命の死滅。
空気は呼吸するだけで肺胞を焼くような毒気を帯び、豊かな農村は、わずか半日のうちに、人が足を踏み入れることすら叶わぬ呪われた毒沼の地獄へと変貌を遂げたのである。
***
「……ひ、報告ッ! 東部全区画より緊急報告でございます!!」
アルトハイム公爵邸の本館、破壊された北棟から運び込まれたばかりの応急執務室。
折れた肋骨の激痛に顔を歪め、包帯で胸元をガチガチに固めた公爵ハインリヒの前に、泥まみれになった領地代官たちが次々と転がり込んできた。
床には、先刻北棟で両腕を炭化させられ、白目を剥いて失禁したまま昏睡している次女クロティルデが横たわっている(第27話)。家宝のオリハルコンの剣は砕け散り、娘は廃人となり、公爵邸全体がすでに半壊状態にあった。
そこへ畳み掛けるように叩きつけられた代官の悲鳴。
「ゼルク村、ハイデン地区、東部第三穀倉地帯……すべて壊滅いたしました! 地下から噴出した黒泥によって、収穫を控えていた麦畑の百パーセントが腐敗・全滅! 井戸水はすべて致死性の毒水と化し、家畜の九割が死亡! 領内の農耕地帯の七割が、すでにドブ色の泥沼へと沈下しております!!」
「な……」
ハインリヒの贅肉のついた顎が、ガチガチと激しく音を立てて痙攣した。
目を見開き、脂汗で顔中をテラテラと光らせながら、代官の胸ぐらを掴み上げる。
「な、何を言っている……!? 全滅だと!? 収穫の百パーセントが腐っただと!? バカな、そんなことがあってたまるか! 我がアルトハイムの沃野は、帝国一の肥沃な大地なのだぞ! 今年の収穫物は、すべて帝都の商人共へ前売りして手付金を受け取っているのだ! あれが全滅すれば……我が公爵家は、一体どうやって違約金を支払えばいいのだ!!」
ハインリヒが叫んだのは、領民の命への心配では断じてなかった。
金だ。
公爵家が十年間貪り続けてきた、天文学的な収益の完全なる破綻。
大聖堂が崩壊したことで、年間五十万枚の補助金は完全に途絶えた(第21話)。
さらに、唯一の富の源泉であった東部沃野の作物が全滅したとなれば、公爵家の年収は一夜にして『ゼロ』になる。
それどころか、作物を担保にして借り入れていた諸外国の銀行への負債、帝都の商人たちへの違約金、そして貴族院から請求されている脱税の追徴金――天文学的な借金だけが残り、公爵家は即座に破産宣告を受けることになるのだ。
「嘘だ……嘘だぁぁぁっ! 技師を呼べ! 魔導士共を集めろ! 土を浄化し、今すぐ麦を元に戻せぇぇっ!!」
「無茶を仰らないでください!」
代官が涙ながらに叫び返す。
「宮廷魔導士の派遣を要請しようにも、帝都への通信網は途絶しております! それに……それどころではございません! 領民共が……ゼルク村をはじめとする数十の村から、何万人もの飢えた領民共が、武器を持ってこの屋敷へ向かって押し寄せてきております!!」
「……何だと!?」
ハインリヒが息を呑んだ、その瞬間であった。
――ズズズズズズズズッ……!!
公爵邸の分厚い防壁を揺るがす、怒号の地鳴りが響き渡った。
執務室の窓ガラスが、ビリビリと悲鳴を上げる。
ハインリヒがよろめきながら窓辺へとすがりつき、カーテンを引き裂くように開けた。
そして――公爵の息が、喉の奥で完全に凍りついた。
「ひ……ひぃぃぃっ……!?」
公爵邸を取り囲む広大な平原の果て。
夜の帳が降り始めた暗闇を、無数の赤い光が埋め尽くしていた。
数千、数万に及ぶ、燃え盛る松明の火の海。
そこに集まっていたのは、手入れされた鎌や斧、つるはし、鉄パイプを手にした、泥と煤まみれの農民たちであった。
彼らの顔には、従順な領民としての敬意など微塵も残っていなかった。
収穫を奪われ、井戸水を毒に変えられ、家族を飢餓の淵へと叩き落とされた者たちの――剥き出しの殺意と、狂乱の復讐心。
『食糧庫を開けろぉぉぉっ!!』
『俺たちの麦を返せ! 子供たちに食わせるパンを出せ!!』
『人殺し! 娘を生贄にして私腹を肥やしていた悪魔め!!』
風に乗って届く怒号の中に、決定的な言葉が混ざり合っていた。
民衆は、すでに知ってしまったのだ。
帝都からキリアンの暗殺ギルドがばら撒いた告発状(第17話)の複写が、すでにこの東部領地にも届いていた。
そして、先刻の最高司教ベネディクトの公衆の面前での自白(第21話)。
自分たちが十年間享受してきた豊穣が、公爵の長女ヴァレリアが地下牢で流し続けた血の犠牲の上に成り立っていたという真実。
そして、強欲な公爵家が彼女を使い捨て、深淵へ蹴り落とした結果として、この大地の呪いが爆発したという、動かぬ因果の結末。
「公爵が……あの強欲親父が、ヴァレリア様を売り飛ばしたからだ!」
「本物の聖女様を殺した天罰が、俺たちの大地に下ったんだ!」
「公爵を殺せ! あの豚の肉を削いで、飢えを凌げぇぇぇっ!!」
怒号は連鎖し、津波となって公爵邸の正門へと押し寄せていた。
門前を守る公爵家の私設騎士団の兵士たちも、迫り来る数万の飢民の気迫に恐れをなし、顔を青ざめさせて後ずさっている。
「ば、バカな……愚民どもめが……! この私を、アルトハイム公爵を誰だと思っているのだ!」
ハインリヒは折れた肋骨を押さえながら、狂乱のまま執務机をバンと叩いた。
「私設騎士団に命じろ! 門を死守せよ! 近づく者は全員、反逆者として弓で射殺せ! 愚民どもを皆殺しにしてでも、我が屋敷を守り抜くのだ!!」
公爵の血走った命令が、廊下へと響き渡る。
だが――。
ゴオオオオオオオッ……!!
さらに東の空。
領民たちの背後――東部国境の古代防壁『アイアン・ウォール』がそびえる方角から、夜空を叩き割るような、地響きを伴う巨大な咆哮が轟いた。
結界を失った防壁を乗り越え、飢えた数万頭の古代魔獣が、腐敗した沃野の臭気を嗅ぎつけて、平原へと雪崩れ込んでくる地鳴りの音(第24話)。
内からは、飢餓と怒りに狂った数万の領民の暴動。
外からは、肉を求めて突進してくる数万の古代魔獣の軍勢。
そして、屋敷の中には、両腕を炭化させられて白目を剥く娘と、全財産を失って破産寸前の公爵。
自らの娘を生贄として売り払い、その血肉で肥え太ってきた強欲なる血族の頭上に――。
十年間積み上げられた因果の負債が、一滴の容赦もなく、完膚なきまでの破滅の鉄槌となって振り下ろされようとしていた。




