↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
25/46

第25話:強欲なる血族の焦燥 〜娘の血肉を啜りし豚たちと、遺品に伸びる汚れた手〜

かつて大陸で最も華やかと謳われたガルディニア帝都ルテティアの貴族街は、今や昼なお暗い鉛色の帳と、逃げ場のない不穏な悪臭に沈んでいた。

大聖堂が崩落し、紅蓮の業火に包まれたあの日から(第19話)、帝都の地下水路から噴き出す有毒な『黒瘴気』の勢いはとどまることを知らず、豪奢な白亜の屋敷街にもドブ川のような腐敗臭が容赦なく侵入していた。

庭園の噴水は泥を吐き、名門貴族たちが丹精込めて育てていた希少な薔薇はことごとく枯死。夜になれば、大聖堂を取り囲んでいた数万の暴徒たちの叫び声が、貴族街を隔てる鉄格子の防壁越しに地鳴りのように響いてくる。


その貴族街の最奥、最も広大にして威容を誇る大邸宅――アルトハイム公爵邸の大広間において、一人の男が激しい焦燥に駆られ、大理石の床を踏み荒らしていた。


「……ええい、忌々しい! どいつもこいつも、この私を誰だと思っているのだ!!」


ガシャァンッ!!


手にした純金の酒杯が、壁に掛けられた歴代公爵の肖像画目掛けて投げつけられた。

極上の赤ワインが血飛沫のように飛び散り、額縁を汚して絨毯へと滴り落ちる。

荒い息を吐きながら肩を上下させているのは、現アルトハイム公爵ハインリヒ・フォン・アルトハイム。

ヴァレリアの実の父親であり、帝国貴族院において絶大な権勢を誇ってきた名門の当主であった。


仕立ての良い黒天鵞絨の外套を羽織り、指には大粒のエメラルドやルビーの指輪が幾重にも嵌められているが、その贅肉のついた顔は蒼白に引き攣り、額からは冷や汗が絶え間なく滲み出ていた。

執務机の上には、ここ数日で届いた山のような『督促状』と『召喚状』が雪崩を起こしている。


「ベネディクトの愚か者めが……! 大聖堂を灰にされた挙句、公衆の面前で己の罪を喚き散らして灰になりおっただと!? 万死に値する無能めが!!」


ハインリヒは狂ったように机上の書類を払い飛ばした。

最高司教ベネディクトの自滅(第21話)。それこそが、アルトハイム公爵家にとって致命的な破滅の引き金であった。

神殿が数百年秘匿してきた裏帳簿(第14話)が帝都中にばら撒かれたことで、公爵家が過去十年にわたり神殿から受け取っていた天文学的な額の裏金、脱税の証拠、そして貴族院での買収工作の記録が、白日の下に晒されてしまったのだ。

さらに、カイザーライヒ帝国が主導する国際金融封鎖によって神殿の債権が一斉に差し押さえられた結果、公爵家が神殿に預けていた巨額の隠し資産までが完全に凍結。

いまや貴族院の諸侯たちからは「横領の首謀者」として連日激しい突き上げを食らい、債権者たちからは門前に怒号を浴びせられる始末であった。


だが――ハインリヒを何よりも苛み、恐怖させていたのは、自らが十年間貪り続けてきた『富の源泉』そのものが消滅したという冷酷な事実であった。


(ヴァレリア……あの忌々しい娘め……!)


ハインリヒは爪を噛み、暗い執務机の奥を睨みつけた。

十年前。

長女であるヴァレリアが十歳を迎えたあの日、ハインリヒは神殿と帝室の密約に応じ、我が子を大聖堂の最深部『封呪の石牢』へと差し出した。

表向きは「帝国を救う慈愛の聖女」「公爵家の誉れ」。

だが、その実態は――大地の底から湧き出る致死性の黒瘴気と呪詛を一身に引き受けさせるための、ただの『生贄』。


娘を人柱として売り払う見返りに、ハインリヒが手に入れた富は途方もないものであった。

大聖堂から毎年支払われる金貨五十万枚もの巨額の補助金。

帝国全土の穀物生産の四割を担う東部沃野の独占管理権と、それに伴う永代無税特権。

公爵領内に眠る古代銀鉱山の無償採掘権。

十年間、地下牢で骨を軋ませ、血を吐きながら激痛に耐え続けていたヴァレリアの犠牲を担保にして、公爵家は帝国屈指の富豪へと成り上がり、贅沢の限りを尽くしてきたのだ。


それなのに。

皇太子ユースティスが無能な男爵令嬢マリアベルに現を抜かし、ヴァレリアを「用済み」として深淵へ突き落とした(第2話)。

ハインリヒ自身も、その場に同席し、「我が家の恥晒しめ」と冷笑を浴びせて見殺しにしたのだ。

マリアベルの光があれば、薄汚い長女など不要になる――そう信じ込んでいた。


だが、蓋を開けてみればどうだ。

ヴァレリアという絶対の濾過フィルターを失った瞬間、帝都には瘴気が逆流し、マリアベルの奇跡は火薬庫の爆発を引き起こし、神殿は崩壊。

そして何より、東部国境の古代防壁の結界までもが完全に消失した(第24話)。

公爵家の富を支えていた基盤のすべてが、砂上の楼閣のように足元からガラガラと崩れ落ちようとしていた。


「お父様ぁ? 朝からそんな怖いお顔をして、一体どうなさったの?」


大広間の重厚な扉が開き、甘ったるく、軽薄な声が響き渡った。


部屋に入ってきたのは、華美を極めた豪奢なドレスを纏った若い娘であった。

年齢は十七か八。

金糸の刺繍をふんだんにあしらった薔薇色のフリルドレスの裾を揺らし、首元や手首にはこれ見よがしに大粒のダイヤモンドや真珠の装飾品をジャラジャラと光らせている。

化粧を厚く塗りたくった陶器のような白い顔立ちに、吊り上がった勝ち気な瞳。

アルトハイム公爵家の次女――クロティルデ・フォン・アルトハイムであった。


十年間、姉のヴァレリアが薄暗い地下牢で泥水を啜っていた間、この豪奢な屋敷で何不自由なく愛され、贅沢三昧を謳歌してきた娘。

新聖女マリアベルの取り巻きの筆頭として社交界を我が物顔で練り歩き、地味で傷だらけだった姉を「我が家の汚点」「薄汚いドブネズミ」と嘲笑い続けてきた張本人である。


「クロティルデか……」

ハインリヒは眉間のシワを深くしながら、息を吐いた。


「まあ、床にお酒がこぼれていて汚らしいわ。召使いたちは何をしているのかしら?」

クロティルデは扇子で小さく鼻を覆い、つま先立ちでワインの染みを避けながら歩み寄ってきた。

「それよりお父様、来週の王宮夜会のために注文した特注のドレスの代金、まだ工房に支払われていないって仕立屋がうるさいのよ。金貨三千枚、早く決済のサインをくださらない?」


「……ドレスだと?」

ハインリヒの額に、ピシリと青筋が浮かんだ。

「この期に及んで、まだそのような下らん贅沢を抜かすか! 外の騒ぎが見えぬのか! 神殿の裏帳簿がばら撒かれ、我が公爵家の口座はすべて差し押さえ寸前なのだぞ!」


「あら、そんなの平民共の僻みに決まっているじゃありませんか」

クロティルデは意にも介さず、ケラケラと軽薄に笑った。

「あんな泥棒司教の遺した書類なんて、偽造されたものだと貴族院で突っぱねてしまえばよろしいのよ。公爵家のお金が少し減ったくらいで、何を狼狽えていらっしゃるの?」


世間知らず。愚鈍。そして底知れぬ傲慢。

姉の血肉の上に築かれた砂上の富を、自らの天賦の権利であると信じて疑わない、救いようのない寄生虫。

ハインリヒは怒鳴りつけようと口を開きかけたが――ふと、その脳裏に、冷徹で狡猾な計算が閃いた。


(……待てよ)


ハインリヒは、着飾った次女の姿をじっと品定めするように見つめた。

容姿だけは、贅沢な食事と高価な化粧水によって磨き上げられている。男を誘惑する媚態の作り方も、マリアベルの取り巻きとして十分に仕込まれているはずだ。


そして今――宮殿の玉座の周囲には、巨大な「空白」が生じていた。


「クロティルデ。……マリアベル様の様子はどうだ」

ハインリヒの低く湿った声に、クロティルデは露骨に軽蔑の表情を浮かべて鼻を鳴らした。


「ふん、あの女ならもうおしまいですわ。大聖堂の前で爆発を起こして煤まみれになった挙句、大階段から転げ落ちて顔半分に酷い青あざを作ったんですもの。おまけに、宮殿の自室でヒステリーを起こして侍女の顔を燭台で焼いたとかで、下級貴族たちからも総スカンを食らっていますわ。……殿下も、あんな化け物じみた傷物の女、もう抱く気にもなれないはずです」


クロティルデの口調には、かつて擦り寄っていたマリアベルに対する忠誠など欠片もなかった。

あるのはただ、ライバルが脱落したことに対する下卑た嘲笑と優越感。


「そうか……やはりそうか」

ハインリヒの口角が、ねっとりと吊り上がった。

「マリアベルは失脚する。そして、第一皇太子ユースティス殿下は、顔面の骨折と大階段での恥辱により、宮殿で孤立し、激しい焦燥に駆られている……。今、殿下が喉から手が出るほど欲しているものは何だと思う?」


「……何ですの、お父様?」


「味方だ。そして、莫大な『軍資金』だ」

ハインリヒは机に両手をつき、身を乗り出した。その双眸に、破滅を前にしたギャンブラー特有の濁った狂気の光が宿る。


「帝都では暴動が頻発し、近衛兵団への給与すら滞り始めている。東部国境では魔獣の騒ぎすら起きているのだ。この混乱を収拾し、自らの権威を回復させるため、ユースティス殿下は何としても即座に動かせる莫大な私財と、名門貴族の後ろ盾を必要としている!」


ハインリヒは、クロティルデの肩を両手で強く掴んだ。


「好機だ、クロティルデ! マリアベルが脱落した今こそ、お前がユースティス殿下の新たな婚約者の座を射止めるのだ!」


「……! 私が、皇太子妃に……!?」

クロティルデの瞳が、強欲と歓喜で見開かれた。


「そうだ! 我がアルトハイム公爵家が誇る全財力を殿下へ献上し、手土産として差し出すのだ。金貨数百万枚に及ぶ軍資金を殿下の懐に注ぎ込めば、殿下はお前を正妃として迎え入れざるを得なくなる! そうなれば、貴族院の追及など皇室の権力で一瞬にして握りつぶせる! 我が公爵家は皇室の筆頭外戚として、以前以上の絶対の権力を手に入れることができるのだ!!」


「素敵……! 素晴らしいですわ、お父様!」

クロティルデは頬を紅潮させ、両手を胸の前で組んで恍惚のため息を漏らした。

「あんな男爵家の小娘の後釜なんて朝飯前ですわ! 殿下の隣に座り、皇后のティアラを戴くのは、この私にこそ相応しい! ……ですがお父様、先ほど公爵家の口座は差し押さえ寸前だと仰っていたではありませんか? 殿下に差し出す軍資金は、一体どこから用意なさるのです?」


「ふっ……口座の金など、我が家の資産のほんの一部に過ぎんよ」

ハインリヒは冷酷な笑みを浮かべ、執務机の引き出しの奥から、錆びついた真鍮の鍵を取り出した。

その鍵の表面には、十年間触れられることのなかった埃と、薄暗いカビがこびりついていた。


「覚えているか、クロティルデ。邸宅の北棟の最奥……あの薄汚い長女が使っていた部屋を」


「ヴァレリアの部屋……?」

クロティルデは露骨に嫌悪の表情を浮かべた。

「あんなドブネズミの部屋、十年前にあいつが地下牢へ連行されて以来、一度も開けていませんわ。埃っぽくて不潔極まりない場所ですもの」


「不潔だが、宝の山だ」

ハインリヒの濁った瞳が、卑劣な光を放った。


「あの部屋には、あいつの亡き実母――前公爵夫人が遺した莫大な遺産が、当時のまま封印されて眠っているのだ。古代の魔導具、諸外国から贈られた神話級の宝飾品、そして……あの女の実家から持ち込まれた門外不出の一級美術品の数々がな」


ヴァレリアの実母は、かつて大陸屈指の魔導名門の血筋であり、その嫁入り道具として持ち込まれた財宝は、一国の国家予算に匹敵するとすら言われていた。

十年前、ヴァレリアが地下牢へ送られる際、ハインリヒは「生贄の私物など縁起が悪い」として部屋ごと封印していたが、その実態は、いつか公爵家の危機が訪れた際に売り払うための『隠し金庫』として温存していたのだ。


「十年前、あいつを地下牢へ送る前、泣き喚いてすがりついてきたのを覚えているか? 『母の形見だけは奪わないで』とかなんとか、無様な涙を流していたな。……ふん、笑わせてくれる。生贄の分際で、親の財産を私物化しようなどと生意気な」


ハインリヒは下卑た笑い声を漏らし、手にした真鍮の鍵を、クロティルデの宝石だらけの手のひらへと押し付けた。


「あの部屋にあるガラクタを、従僕共を使って片っ端から引きずり出せ。帝都の闇商人共を呼び、すべて即座に金貨へ換金するのだ。……そして、もし目ぼしい宝飾品があれば、お前が身につけて殿下の御前へ侍るがいい。殿下の目を惹くための最高の装飾品となろう」


「まあ……!」


手のひらに落ちた冷たい鍵を見つめ、クロティルデの唇が、醜悪極まる三日月形に吊り上がった。

死んだ実母の遺産。

そして、自分が何十倍も見下し、深淵へ蹴り落とされて死んだはずの姉が、命よりも大切にしていた形見の数々。

それを自らの手で踏みにじり、奪い去り、己の美貌を着飾るための踏み台にできる――その嗜虐的な快楽が、次女の胸を甘美な熱狂で満たした。


「ええ、喜んで引き受けて差し上げますわ、お父様!」

クロティルデは鍵を固く握りしめ、下卑た嘲笑を喉から漏らした。


「あんなドブネズミの部屋に残っていたガラクタ、高く売り払って差し上げますわ! お姉様も、深淵の底で泥水を啜りながら、私の皇后即位の役に立てて本望でしょうね!」


己が握りしめたその鍵が――。

触れた瞬間に己の四肢を焼き砕き、公爵家を跡形もなく灰燼に帰す、最悪の『破滅の信管』であることにも気づかずに。

強欲に目を眩ませた血族の足音が、埃まみれの北棟へと向けて、狂乱のまま響き始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。