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第26話:盗人たちの土足 〜埃塗れの記憶と、暴かれた精霊銀の輝き〜

アルトハイム公爵邸の北棟は、本館の絢爛豪華なサロンや舞踏室とはまるで異なる、陰鬱な空気に支配された見捨てられた一角であった。

一年の大半を通じて陽の光が届かず、冬になれば凍てつく隙間風が細い回廊を吹き抜ける吹き溜まり。

壁に掛けられた歴代のタペストリーは湿気でカビが生え、絨毯は色褪せて擦り切れ、使用人たちですら足を踏み入れるのを嫌がるその薄暗い廊下の奥に、頑強な鉄帯で補強された一枚のオーク材の扉があった。


かつて、アルトハイム公爵家の長女ヴァレリア・フォン・アルトハイムが、十歳で地下牢へと連行されるその日まで生活していた私室である。

十年もの間、鍵を固く閉ざされ、まるで公爵家の歴史から存在そのものを抹消するかのように封印されていた部屋。


その静寂を破ったのは、品のないけたたましい笑い声と、重い軍靴の足音であった。


「さあ、早く開けなさい! ぐずぐずしていると、お前たちの給金を半分に削って叩き出すわよ!」


薔薇色のフリルドレスの裾を自ら持ち上げ、扇子で鼻を覆いながら命令を下しているのは、次女クロティルデであった。

その背後には、バールやつるはし、麻袋を抱えた筋骨隆々の従僕たちが五名、息を潜めて控えている。

彼らは公爵家の正規の召使いたちではなく、金で雇われた荒くれ者たちであった。金目のものを強奪し、帝都の闇商人へ横流しするための、文字通りの略奪部隊。


「へ、へい、お嬢様! 今すぐに!」


初老の従僕頭が、ハインリヒから預かった錆びついた真鍮の鍵を震える手で鍵穴へと差し込んだ。

十年の歳月が堆積した錆と埃。ギギ、ガチリと鈍い軋み音が響き、シリンダーが重々しく回転する。


バタンッ!!


従僕が肩をぶつけるようにして押し開いた瞬間、部屋の内部から、埃の混ざった古い冷気と、かすかな古い紙の匂いがドッと廊下へ吐き出された。


「ゲホッ、ゴホッ! なんて埃っぽいの! 息をするだけで病気になりそうだわ!」

クロティルデは露骨に顔をしかめ、扇子を激しく仰いだ。


室内は、十年前のあの日から完全に時間が止まっていた。

薄暗い部屋の隅に置かれた、天蓋のない質素な木製ベッド。

壁際には、歴史書や魔導の基礎理論書がぎっしりと並べられた古い書架。

窓辺には、インク壺が干からびた小さな書き物机。

公爵家の長女の私室とは思えぬほどに質素で、華美な装飾品など何一つない、修道院の瞑想室のような静けさ。


十年前、ここからヴァレリアが引きずり出されたのだ。

帝国全土の穢れを肩代わりする生贄として、実の父親と神殿の使者によって手枷を嵌められ、冷たい雨の降る中、地下牢へと連行されたあの日。

当時まだ幼かったクロティルデは、本館の温かな暖炉の前で最高級の焼き菓子を頬張りながら、窓の外で縄に引かれていく姉の背中を、嘲笑と共に眺めていた。


「ふん……相変わらず、陰気で反吐が出る部屋ね」

クロティルデは土足のまま部屋の中央へと踏み込み、爪先で床に落ちていた古い童話の本を蹴り飛ばした。

バサリと表紙が破れ、埃が舞い上がる。


「あのドブネズミ、こんな薄汚い部屋に閉じこもって、難しい本ばかり読んで気取っていたのよ。生まれつき愛嬌もなくて、殿下に色目を使うこともできず、最後は生贄として穴の底に蹴落とされた無能女。……そんな女の部屋に、本当にお父様の仰るような財宝なんてあるのかしら?」


「へへっ、お嬢様、任せてくだせえ」

荒くれ者の従僕が、下卑た笑みを浮かべてバールを構えた。

「名門公爵家の隠し金庫なんざ、床下か壁の裏に決まってまさぁ。手当たり次第にぶち壊して探せば、すぐに吐き出しますよ」


「おやりなさい!」

クロティルデは冷酷に手を振った。

「家具でも床でも、片っ端から壊して構わないわ! 金目のものを一つ残らず暴き出しなさい!」


「へいっ! 野郎ども、やっちまえ!!」


下卑た咆哮と共に、破壊の狂乱が始まった。


ドガァッ! バキバキッ!!


従僕たちの振るう大槌が、十年前までヴァレリアが使っていた古い書架を薙ぎ倒した。

何百冊もの書物が床へと散らばり、破かれたページが踏みにじられる。

少女が熱心に書き込みを遺していた魔導学のノートは、泥靴で踏み躙られて黒く汚され、木製の机はバールで引き裂かれて薪のように砕かれた。

ベッドのシーツは切り裂かれ、羽毛が部屋中に舞い散る。


そこにあるのは、死者に対する敬意も、かつての家族に対する情けの欠片もない。

己の保身と虚栄心のためなら、他人の思い出を踏みにじることなど何とも思わない、唾棄すべき略奪者の醜悪な狂気。

クロティルデはその破壊を腕を組んで眺めながら、爪の先を噛んで苛立たしげに足を踏み鳴らしていた。


「見つからないわね! 銀食器の一枚すら出てこないじゃないの! あいつ、本当に公爵家の娘だったのかしら!? 貧乏くさいにも程があるわ!」


「お、お嬢様! こっちです! こっちのクローゼットの壁に、妙な細工がありやすぜ!」


部屋の最奥、頑丈な黒鉄の鋲が打たれた古いワードローブの前で、バールを突っ込んでいた従僕が声を上げた。

クローゼットの内部――古着が数着掛けられていただけの空間の底板を乱暴に引っ剥がすと、二重底になっていた隠し空洞が現れたのだ。


「何ですって!?」

クロティルデはドレスの裾を翻し、従僕を乱暴に突き飛ばして前へと進み出た。


薄暗い空洞の奥底。

埃にまみれたクローゼットの二重底から引きずり出されたのは、幅五十センチほどの、漆黒の漆で塗り固められた豪奢な小箱であった。

箱の表面には、現代のガルディニア帝国では失われた太古の意匠――流麗な蔓草の紋様と、星々を象った純銀の象嵌が施されている。

そして、蓋の中央には、ヴァレリアの実母の生家であり、大陸全土にその名を轟かせた古代魔導名門『ローゼンクロイツ家』の正式な家紋が、燦然と刻まれていた。


「これよ……! これに決まっているわ!」


クロティルデの瞳が、ギラギラとした強欲の光で見開かれた。

箱には古代文字で封呪が施されていたが、十年もの歳月が経過したこと、そして大聖堂の結界が消失した影響により、術式の効力はすでに風前の灯火となっていた。


「開けなさい! バールで叩き壊してでも、早く蓋をこじ開けなさい!!」


「へ、へいっ!」


従僕が鉄のバールを箱の隙間にねじ込み、力任せに体重をかけた。

メキメキメキッ!と悲鳴のような軋み音が響き、千年の歴史を持つ精巧な鍵前が、無残にも音を立ててへし折れた。


パカッ、と重厚な蓋が跳ね上がる。


その瞬間――。

薄暗く埃にまみれていた部屋の空気が、息を呑むような清澄な光によって一変した。


「……あ」


従僕たちの口から、感嘆の吐息が漏れた。

箱の中に敷き詰められていたのは、色褪せることのない純白の精霊絹。

そして、その中央に静かに鎮座していたのは――眩いばかりの神聖な輝きを放つ、一本の腕輪であった。


透き通るような白銀の輝き。

現代の冶金技術では決して再現不可能な、神話の金属『精霊銀(ミスリル・シルバー)』を極細の糸のように編み上げ、幾重にも重ね合わされた繊細極まる工芸品。

腕輪の表面には、肉眼では捉えきれぬほど微細な古代の精霊文字が刻み込まれ、部屋の淀んだ空気や埃を触れる端から清浄な光へと変換し、淡い紫紺の燐光を撒き散らしている。

それ単体で小国一つを買い取れると言われる、古代魔導文明の遺産――【精霊銀の腕輪】。


ヴァレリアの実母が生前、病床で息を引き取る寸前に、幼いヴァレリアの細い手首に自ら嵌めてくれた、世界でたった一つの形見。


十年前。

大聖堂の地下牢へ連行される直前、公爵ハインリヒによって無理やり腕から外されそうになった際、幼いヴァレリアは床に額を擦り付け、血を吐くような思いで懇願したのだ。


『お願いです、お父様……! 生贄でも何でも、言われた通りになります! 地下牢へも行きます! だから……これだけは、お母様の形見だけは奪わないで……っ!』


だが、ハインリヒはその懇願を冷酷に踏みにじった。

『生贄に身をやつす者が、このような高価な古代遺物を身につけてどうする。預かっておいてやる』

そう言って奪い取り、この北棟の隠しクローゼットへと封印したのである。

娘の魂の拠り所を奪い、絶望の暗闇へ突き落とすことで、完全に抵抗の意志を奪うために。


「まあ……! まあ、なんて美しいのかしら……!!」


クロティルデは狂喜に震える手で、精霊絹の上から腕輪を鷲掴みにした。

触れた瞬間、手のひらに伝わるひんやりとした神聖な冷気。

濁りのない白銀の輝きが、クロティルデの欲深い瞳に妖しく反射する。


「信じられないわ……! あのドブネズミの母親、こんな一級品の宝物を隠し持っていたなんて! これほどの魔導具、王室の宝物庫にだって一つあるかないかですわ!」


「へへっ、お嬢様、こいつは大金になりやすぜ! 闇市に流せば金貨数百万枚……いや、諸外国の王族に競売させれば、億の金が動く代物でさぁ!」

従僕たちが揉み手をしながら下卑た笑みを浮かべる。


だが――クロティルデの頭を満たしていたのは、単なる金銭の勘定だけではなかった。

彼女は手にした腕輪を自らの顔の前に掲げ、うっとりと目を細めた。


(売るですって……? 冗談じゃないわ!)


クロティルデの胸の中で、肥大化した自己愛と虚栄心が、ドス黒い炎となって燃え上がった。


(これほどの至宝、あんな死に損ないのドブネズミの手首には最初から豚に真珠だったのよ! これこそ、皇太子の新たな正妃となり、帝国の皇后となるこの私にこそ相応しい装飾品じゃないの!)


大聖堂の前で醜態を晒し、顔に火傷を負って転落したマリアベル。

鼻をへし折られて宮殿で孤立している皇太子ユースティス。

この神話級の輝きを放つ腕輪を身につけて殿下の御前へ侍れば、殿下の視線は釘付けになるに違いない。

公爵家の軍資金と共に、自らの神聖なる美貌をアピールするための、最高の切り札。


「誰が売るものですか、この愚か者共が!」

クロティルデは従僕たちを怒鳴りつけた。

「これは私がいただくわ! ユースティス殿下にお目通りする際、私の手首を飾る最高の宝物にして差し上げますわ!」


「へ、へえっ! さすがはお嬢様、お目が高い!」

「お嬢様の美しさに、殿下もイチコロでさぁ!」

荒くれ者たちが下品に拍手喝采を送る。


クロティルデは勝ち誇った笑みを浮かべると、自らの右の手首を覆っていた安物の金ブレスレットを乱暴に床へ投げ捨てた。

そして――何のためらいもなく、ヴァレリアの母の形見である【精霊銀の腕輪】の輪の中へと、自らの贅肉のついた手首を無理やり押し込もうとした。


「ん……っ、ちょっと輪が小さいわね。あのドブネズミ、骨と皮ばかりだったからかしら」


十歳の少女のサイズに合わせて調整されていた腕輪。

クロティルデは顔を歪め、脂ぎった皮膚を無理やりねじ込み、力任せに手首の関節へと押し通した。


カチリ。


乾いた金属音が、埃の舞う部屋に響き渡った。

白銀の腕輪が、クロティルデの右の手首に完全に嵌まり込んだ瞬間であった。


「ふふっ、どうかしら! 見なさい、この完璧な輝きを!」

クロティルデは腕を天へと掲げ、鏡のない部屋で自らの手首を誇らしげに見せびらかした。

「あははははっ! ヴァレリアお姉様、貴女が命乞いをしてまで守りたかった形見は、今や完全に私のものよ! 貴女が深淵の底で泥水を啜って野垂れ死んでいる間に、私はこの腕輪をつけて皇太子妃に上り詰めてあげるわ! 感謝なさい、死に損ないの哀れな負け犬!」


哄笑。

姉の死を踏み躙り、その魂の形見を強奪したことに対する、極限の優越感。

従僕たちが手を叩き、下品な歓声が部屋を埋め尽くす。


――だが。

その嘲笑の嵐が、最高潮に達したその瞬間であった。


ヒュンッ……。


突如として、部屋の空気が一変した。

窓の隙間から吹き込んでいた隙間風が、ピタリと止まる。

舞い散っていた埃の粒子が、まるで重力を失ったかのように空中で静止した。

部屋の温度が、一秒ごとに五度、十度と急激に低下していき、床に散らばっていた古い書物の表面に、薄っすらと白い霜が張り詰めていく。


「……え?」


従僕の一人が、異様な寒気に首をすくめた。

「な、なんだ……? 急に寒く……」


従僕の言葉は、最後まで続かなかった。

彼らの視線が、一斉に、クロティルデの右の手首へと釘付けになったからだ。


――チチチチチ……ッ。


白銀の輝きを放っていたはずの【精霊銀の腕輪】。

その表面に刻まれた古代の精霊文字が――突如として、毒々しい、おぞましいまでの『紫紺の燐光』を放ち始めたのだ。


それは、清らかな神聖の光では断じてなかった。

深淵の底の暗黒。

死者の怨嗟。

そして――何千キロもの距離を越えて直結した、世界の因果を司る絶対の捕食者の視線。


「な……何これ? 腕輪が……光って……?」

クロティルデが怪訝そうに眉をひそめた。


彼女は知らなかった。

この腕輪は、ただの古代遺物ではない。

ヴァレリアの実母が、自らの血統の魔力を注ぎ込み、実の娘――ヴァレリア・フォン・アルトハイムの『魂核』と生涯にわたって直結するよう設計された、命の契約具であったことを。


そして今。

ヴァレリアが【因果の天秤(カルマ・イーター)】に覚醒した瞬間から、この腕輪は――彼女に対するいかなる「強奪、搾取、侮辱の悪意」をも瞬時に検知し、神罰の座標を確定させるための、絶対の『標的誘導端末』へと作り変えられていたのである。


――対象ログ照合:アルトハイム公爵家次女、クロティルデ・フォン・アルトハイム。

――加害内容:不法侵入、遺品損壊、亡き母の形見に対する不当なる略奪および私物化。

――悪意の純度:完全なる私利私欲、死者への冒涜、無実の姉に対する底知れぬ嘲弄。

――因果の天秤:【標的ロックオン】完了。


カチリ。

世界のどこにも存在しないはずの、重厚な天秤の傾く音が、部屋にいた全員の頭蓋骨の内側に直接響き渡った。


「ひっ……!?」

クロティルデの背筋を、未知の戦慄が駆け抜けた。

本能が、全身の毛穴から警鐘を鳴らし始める。

不吉だ。危険だ。今すぐこの腕輪を外さなければならない――。


「な、何なのよこれ! 気味が悪いわね、早く外れなさいよ!」


クロティルデは青ざめ、左手で腕輪を掴んで引き抜こうとした。

だが――動かない。

先ほどまでわずかに隙間のあったはずの白銀の輪が、まるで生き物のように収縮していたのだ。


「え……? う、動かない……? ちょっと、誰か手伝いなさい! これを引っ張って――」


クロティルデの命令が、悲鳴へと変わるコンマ一秒前のことだった。


ギチギチギチッッ!!


耳を塞ぎたくなるような、骨が擦れ合う生々しい軋み音。

腕輪の内側から、目に見えぬ万力のような超重量の圧力が炸裂した。

精霊銀の輪が、クロティルデの右の手首の皮膚へ、脂肪へ、そして骨の芯へと向けて、狂乱の勢いで食い込み始めたのである。


「ぎゃあああああああああああああああっっっ!?!?!?」


鼓膜を劈く絶叫が、埃まみれの私室を叩き割った。

手首の血管が破裂し、白銀の金属の隙間から、鮮血がプシューッと噴水のように吹き飛ぶ。

皮膚が裂け、筋肉が断ち切られ、手首の関節骨がメリメリと音を立てて圧砕されていく凄まじい激痛。


「痛い痛い痛い痛い痛いっ!! 腕が! 手首が潰れるぅぅぅっ!! 取って、誰かこれを外してぇぇぇぇっ!!」


床を転がり回り、自らの右手首を抱えて泣き叫ぶクロティルデ。

従僕たちが血相を変えて駆け寄ろうとしたが、腕輪から放たれる紫紺の魔力障壁が暴風となって吹き荒れ、大男たちを壁際まで木の葉のように吹き飛ばした。


強奪の代償。

十年間の搾取に対する、最初の一括請求書。

地獄の業火が、哀れな泥棒の手首の上で、今まさにその牙を剥こうとしていた。

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