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第24話:咆哮する東部国境 〜崩落した不可視の防壁と、見捨てられし巨壁の警鐘〜

ガルディニア帝国の東部国境――そこには、建国以来千年にわたり、人間が足を踏み入れることを禁じられた人外の魔境『昏冥の原生林』と、天を突き刺す険峰『黒嶺山脈』がどこまでも連なっていた。

その凶悪な自然の脅威と、奥地に巣食う数万頭の凶暴な古代魔獣の侵入を遮断するためだけに築かれたのが、大陸三大防壁の一つと称される古代防壁『アイアン・ウォール(鉄壁の巨門)』である。


高さ五十メートル、厚さ二十メートル。

黒鉄を練り込んだ特殊な魔導花崗岩を積み上げ、地平線の彼方から彼方へと万里の長城の如く横たわるその偉容は、本来であればいかなる大軍であろうと一歩たりとも踏み越えられぬ、帝国の絶対の盾であるはずであった。

だが、この巨大な石の防壁が千年の長きにわたり機能し続けていた真の理由は、その分厚い石材にあったのではない。


防壁の表面全体に、毛細血管のようにびっしりと彫り込まれていた古代の神聖魔導回路――。

帝都大聖堂の主魔導炉をキーストーンとし、大地の地脈を通じて全土へ張り巡らされていた『帝国守護大結界網』。

不可視の神聖障壁が放つ高周波の霊的波動が、防壁の遥か数十里先まで魔獣の接近を拒絶する「絶対の結界」を展開していたからこそ、人間はこの肥沃な東部沃野で安全に農耕を営むことができていたのだ。


――そして、その結界のエネルギー源こそが。

十年間、地下牢で帝国全土の呪詛と穢れを吸い上げ、濾過し、相殺し続けていたヴァレリア・フォン・アルトハイムという、たった一人の生贄の存在であった。


***


キィィィィィン……ッ。


不吉な金属質の悲鳴が、黄昏に染まるアイアン・ウォールの最頂部に響き渡った。


「……な、何事だ!?」


防壁の上を見回りしていた国境警備軍の歩哨が、足を止めて目を見張った。

夕陽を浴びて黒く光っていたはずの防壁の胸壁――そこに刻まれていた純白の神聖文字が、パチパチと不穏な火花を散らしていたのだ。

文字の輝きが、目に見えて弱まっていく。

黄金色の燐光が薄れ、煤けた灰色へと変色し、やがてピシピシと細かな亀裂が走り始めた。


ポロポロ、パラパラ……。


千年間、風雨に耐え抜いてきた神聖な魔導刻印が、まるで寿命を迎え乾ききった泥のように脆く崩れ、冷たい石屑となって谷底へと零れ落ちていく。

防壁の天頂から立ち上っていた、空気を清めるはずの清涼な霊的微風が、ピタリと止まった。

代わりに吹き込んできたのは、東の原生林の深奥から漂う、鼻を突く獣の腐肉と土の臭気――。


「ば、バカな……! 結界が……結界の魔力反応が、完全に消失しただと!?」


防壁の中央指令塔に詰めていた国境警備軍司令官、バルトロメウス将軍は、卓上に置かれた巨大な魔導水晶儀を見て蒼白になっていた。

帝都大聖堂と直結し、結界の稼働状況を監視していたはずの碧色の水晶が、内側からパリンと乾いた音を立てて砕け散り、黒い煙を吹いて完全に沈黙したのだ。


「通信機を使え! 帝都の大聖堂へ至急回線を繋げ! 主魔導炉の出力を確認させろ!」

将軍の怒号が響く。


「だ、駄目です、閣下! 大聖堂からの魔力供給信号が、完全に途絶しております!」

通信兵が震える手で魔導盤を叩きながら悲鳴を上げた。

「昨夜から帝都方面の霊的周波数が狂乱しておりましたが……今朝方、大聖堂の識別信号そのものが消失いたしました! まるで、大聖堂そのものがこの世から消滅したかのような……!」


「戯言を抜かすな! 千年続く大聖堂が消滅するなどあるはずが――」


将軍の言葉は、最後まで続かなかった。


――ズズズズズズズズズッ……。


足元から。

いや、この五十メートルの巨大な防壁全体、そして足下の黒嶺山脈の大地そのものから、地響きのような重低音が鳴り響き始めたのだ。

地震ではない。

規則正しく、徐々にテンポを上げ、波のように押し寄せてくる何百万もの重い足音の振動。


「か、閣下! 前方を! 物見台から前方の森林地帯をご覧ください!!」


見張り兵の絶叫に、バルトロメウスは司令塔のテラスへと駆け出した。

腰の双眼鏡を引き抜き、東の地平線――夕暮れの茜色に染まりゆく『昏冥の原生林』へと視線を向ける。


そして――歴戦の老将の息が、喉の奥で凍りついた。


「……神よ……」


双眼鏡を持つ手が、激しく痙攣した。

原生林の木々が、ドミノ倒しのように薙ぎ倒されていた。

巨木が宙を舞い、もうもうと立ち上る黒煙のような土煙が、地平線の端から端までを埋め尽くしている。

その土煙の底から湧き出してきたのは――黒い波。

何万、何十万という、凶暴極まりない原生の怪物たちの群れであった。


全長十メートルを超える巨大な双頭の甲殻熊(ベヒモス・ベア)。

鋼鉄の皮膚を持ち、時速六十キロで疾走する黒角巨獣(ライノセラス)。

空を埋め尽くすように旋回する、酸の粘液を滴らせた飛竜(ワイバーン)の群れ。

さらには、数百年もの間、結界の圧力によって大地の奥底に封じられていたはずの、人知を超えた異形のキメラや古代魔獣たちが、目を血走らせ、口から白い泡を噴き散らしながら、一直線に防壁目掛けて雪崩を打って突進してきていたのだ。


――魔獣大暴走(スタンピード)。


それも、過去のいかなる防衛戦の記録にも残っていない、国家規模の超絶災害。

千年間、彼らを縛り付け、近づくことすら阻んでいた神聖な結界が、突然として消滅したのだ。

結界の消失によって解き放たれた原生林の怪異たちは、防壁の向こう側に広がる、人間たちが耕した肥沃な沃野の甘い匂い――そして、長年溜まりに溜まった人間への飢餓感を爆発させ、津波となって押し寄せていた。


「スタンピードだぁぁぁっ!!」

「魔獣の群れが来るぞ! 防壁に備えろ!!」


防壁の上に、けたたましい警鐘の乱打が鳴り響いた。

だが、警備兵たちの顔には、絶望の色しか浮かんでいなかった。

国境警備軍の兵力は、わずか五千。

普段であれば結界の防護に守られ、近づいてきた小規模なはぐれ魔獣を魔導砲で撃ち落とすだけで十分だったため、本格的な大規模野戦の装備など何一つ整っていなかった。

対する魔獣の総数は、目視できるだけでも優に五万を超えている。


「持ちこたえられるはずがない……! 結界なしで、こんな質量を受け止められるものか!」

バルトロメウスは歯を食いしばり、唇から血を滲ませながら叫んだ。

「伝令! 特級の魔導早馬を帝都へ走らせろ! 防衛司令部直通の緊急親書だ!!」


将軍は震える手で羊皮紙を広げ、羽ペンを走らせた。


『東部防壁の神聖結界が完全に消失。推定五万以上の古代魔獣によるスタンピードが発生。現有戦力による防衛限界は数日。至急、近衛兵団および宮廷魔導軍団の全戦力を東部国境へ急派されたし。援軍なき場合、防壁は陥落し、魔獣の群れはアルトハイム公爵領を蹂躙、帝都ルテティアへと雪崩れ込む――!』


「行け! 馬の肺が破裂しようとも走り抜け! 帝都へこの危機を伝えよ!!」


「ははっ!!」


伝令兵は親書を頑丈な革筒に収めると、魔導を注ぎ込んだ俊足の軍馬に飛び乗り、夕闇の迫る西の街道――帝都ルテティアへ向けて、矢のように疾走していった。


***


それから一日半の後。

馬を二頭乗り潰し、泥と自らの血にまみれながら帝都ガルディニア宮殿へと辿り着いた伝令兵の目に飛び込んできたのは――信じがたい、帝国の末期的な光景であった。


帝都ルテティアは、荒廃の極みにあった。

大聖堂は黒焦げの巨大な廃墟と化して煙を噴き上げ(第19話)、最高司教ベネディクトの自爆と自白によって神殿の権威は完全に地に堕ちていた(第21話)。

通りには怒れる市民やスラム街の暴徒が溢れかえり、貴族邸への略奪や放火が散発。地下水路から逆流するドブ色の黒瘴気によって街全体が毒ガス室のようになっていた。


伝令兵は、混乱する城門を押し破るようにして宮殿へと駆け込んだ。

通されたのは、豪華絢爛なシャンデリアが輝く皇太子の謁見の間。


だが、そこに鎮座していた第一皇太子ユースティスの姿に、伝令兵は息を呑んだ。


「……痛い、痛いぞ……! おい、もっと強い鎮痛剤を持ってこい! 鼻の奥がズキズキと疼くのだ!」


玉座に座るユースティスは、白銀の軍服を着崩し、顔面の中央にこれでもかと分厚い白い包帯を幾重にも巻き付けていた。

大階段の転落事故(第12話)で粉砕骨折した鼻は、治癒魔法の失敗によって歪んだまま固まりつつあり、腫れ上がった両目の周囲にはドス黒い鬱血が広がっている。その無残で滑稽な貌は、民衆を統べる皇太子の威厳など微塵も残っていなかった。


その傍らには、大聖堂の爆発事故と階段転落で自慢の金髪を焦がし、顔半分に青あざを作った新聖女マリアベルが、ヒステリックに爪を噛みながら侍女たちを睨みつけている(第18話)。


「も、申し訳ございません、殿下! 東部国境防壁『アイアン・ウォール』より緊急の早馬でございます!」


伝令兵は床に滑り込み、泥だらけの革筒から親書を取り出して掲げた。


「東部国境の神聖結界が完全に消失いたしました! 現在、未踏峰地帯より五万頭を超える古代魔獣のスタンピードが防壁へと殺到しております! バルトロメウス司令官より、近衛軍および宮廷魔導軍団の全戦力を即時投入してほしいと、緊急の救援要請でございます!!」


謁見の間に、張り詰めた静寂が降りた。

五万の魔獣。結界の消失。

それは、国家の存亡に直結する未曾有の軍事危機。常識ある指導者であれば、即座に非常事態宣言を発令し、全軍を東部へと進発させるべき局面であった。


――しかし。


「…………は?」


ユースティスの包帯の隙間から覗く血走った目が、怪訝そうに細められた。

皇太子は伝令兵の手から親書を引ったくると、斜め読みして、鼻先でせせら笑ったのである。


「東部の田舎者が……揃いも揃って、何を血迷った妄言を喚いているのだ?」


「は、はい……? 殿下、妄言などでは断じてございません! 現に結界は消滅し、魔獣の群れが防壁を――」


「黙れッ!!」


ドカァンッ!と、ユースティスは手近にあった銀の酒杯を伝令兵の額目掛けて投げつけた。

ガツンと鈍い音が響き、伝令兵の額から鮮血が滴り落ちる。


「結界が消えただと!? 大聖堂の守護結界が消滅するなどという不吉な嘘を、この私の前で吐くか! ……ええい、どいつもこいつも、私を苛立たせることしか能のないゴミ屑ばかりだ!」


ユースティスは立ち上がり、狂乱のまま親書をビリビリと八つ裂きに引き裂いた。

紙屑が、床の上へと無残に散らばる。


「見ろ! この帝都の惨状を! 大聖堂が燃え、愚民どもが暴動を起こし、私の顔に傷がついたのだぞ! 今、宮殿の周囲を警護する兵力すら足りぬというのに、なぜ東部の辺境などに我が近衛兵を割かねばならんのだ!!」


「殿下! 防壁が破られれば、アルトハイム公爵領が全滅し、魔獣は帝都へ雪崩れ込みます! 国家が滅びるのですぞ!!」


「五月蝿い、五月蝿い、五月蝿いッ!!」

ユースティスは耳を塞ぎ、地団駄を踏んで喚き散らした。


「魔獣など、国境警備兵だけで防げ! そのために税金を使って貴様らを養っているのだろうが! 防壁の上から弓でも射かけていれば、そのうち魔獣など森へ帰るに決まっている! それより帝都だ! 帝都の反逆者どもを全員捕縛しろ! 私を嘲笑った愚民どもを広場で公開処刑にし、私の威厳を取り戻すのが先決だ!!」


「そ、そんな……馬鹿な……っ」

伝令兵は、血を流しながら呆然と立ち尽くした。

目の前にいるのは、一国の主権者ではない。

己の面子と恐怖に脳を支配され、現実を直視することすら拒否した、哀れで醜悪な狂人であった。


傍らにいたマリアベルもまた、扇子で鼻を覆いながら、冷酷に吐き捨てた。


「そうですわ、殿下の仰る通りよ。東部の農民なんて、魔獣に何千人か食われたところで代わりはいくらでもいますもの。それより殿下、私の荒れたお肌を治すために、カイザーライヒから最高級の美容霊薬を取り寄せてくださるって約束、忘れていらっしゃらないでしょうね?」


「ああ、もちろんだとも、我が愛しきマリアベル……」


崩壊寸前の国家の頂点で、手を取り合い、自分たちのエゴだけを貪り合う道化たち。

伝令兵は拳を血が滲むほど強く握りしめ、言葉を失ったまま、絶望の涙を流して宮殿を後にするしかなかった。


東部国境の救援要請は、完全に握りつぶされた。

防壁を守る五千の警備兵、そしてその背後に広がるアルトハイム公爵領の見渡す限りの沃野と領民たちは――帝国の支配者自らの手によって、完全に「見捨てられた」のである。


***


――同じ時刻。

隣国の軍事覇権国家カイザーライヒ帝国、迎賓離宮『黒曜宮』。


澄み渡る秋晴れの空の下、二階のテラス席で、ヴァレリアは筆頭侍女長グレーテが淹れたばかりの最高級ダージリンを、優雅に口に運んでいた。

手元の円卓には、女軍師ヒルデガルトが広げた、大陸東部の最新軍事魔力観測図。


「……始まったようね」


ヴァレリアはカップをソーサーに戻し、紫紺の双眸を細めて南東の空を見つめた。

彼女の魂に宿る【因果の天秤】が、遠く離れたガルディニア東部の地脈の軋みを、正確無比に感知していた。


「ええ」

向かいの席で、ヒルデガルトが眼鏡を押し上げ、冷徹に頷く。

「我がカイザーライヒの国境観測所が、ガルディニア東部防壁における結界の完全消滅、並びに未曾有のスタンピードの発生を確認いたしました。……そして、我が帝国の情報部によれば、皇太子ユースティスは国境警備軍からの救援要請を一顧だにせず、親書を破り捨てて握りつぶしたとのことです」


「くすっ……あはは」


ヴァレリアの唇から、鈴の音のように美しい、だが氷の如く残酷な笑い声が零れ落ちた。


「期待を裏切らない男ね、ユースティス。……保身と虚栄心に目を眩ませ、自ら防壁の背後を切り捨てて見殺しにするとは。本当に、絵に描いたような無能だこと」


背後に控えていた魔王ヴォルフラムが金色の瞳を爛々と輝かせ、暗殺者キリアンが無邪気に短剣を回す。


「これで、盤面の外枠は完全に整いましたわ」

ヴァレリアは卓上の立体地図――アルトハイム公爵領の真上に置かれた、漆黒のクイーンの駒を指先で愛おしそうに撫でた。


「東部国境が破られれば、魔獣の群れが真っ先に雪崩れ込むのは、防壁のすぐ裏手に位置するアルトハイム公爵領。……援軍はなく、防壁は陥落寸前。そこへ、私が十年間抑え込んであげていた大地の穢れが地表へ大噴出し、公爵家の富の源泉を内側から焼き尽くす」


外からは数万の飢えた魔獣の津波。

内からは腐敗する大地と、飢餓に狂った数万の領民の暴動。

そして、己の娘を生贄にして肥え太ってきた強欲なる家族の自滅。


「完璧な喜劇の舞台ですわね。……さて、お父様、お母様。そして妹のクロティルデ」


ヴァレリアは立ち上がり、テラスの手すりへと歩み寄った。

黒曜石のバルコニーに吹き抜ける風が、彼女の艶やかな黒髪を優雅になびかせる。


「十年分の親孝行……極上の地獄絵図を、最前列の特等席で観賞させていただくわ」


遥か彼方、東の地平線。

茜色の空が、ゆっくりと血のような赤黒い黄昏へと沈んでいく。

大気を震わせて轟く、数万頭の魔獣の飢えた咆哮。

ガルディニア帝国という名の腐り落ちた巨木に、破滅の牙が今まさに突き立てられようとしていた。

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