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第23話:チェス盤の第二手 〜肥え太りし血族の罪状と、沃野の底に眠る時限爆弾〜

迎賓離宮『黒曜宮』の東翼に位置する円形執務室は、外の騒がしい熱狂とは隔絶された、冷徹な知性と戦略の静寂に満ちていた。

先刻まで大広間で繰り広げられていた男たちの過剰すぎる求愛劇――神話の魔晶石、国宝の竜鱗ドレス、皇太子の寝室の鍵、血染めの讃美歌楽譜という、世界を傾けかねない四つの至宝は、筆頭侍女長グレーテの手によって無慈悲にも庭の物置へと一括収納された。

大広間に立ち尽くしていた四人の怪物たち――魔王ヴォルフラム、皇帝コンラート、暗殺者キリアン、元司教マティアスは、グレーテから「これ以上主の執務の邪魔をなされるのであれば、庭の池の泥浚いを申し付けます」と事務的に告げられ、居心地悪そうにそれぞれの待機室や本宮へと追い払われていた。


部屋に残されたのは、冷徹な理知で盤面を支配する三人の女性だけであった。


部屋の中央に置かれた黒鉄の円形作戦机。

その上座に腰掛け、優雅に背もたれに身を預けているのはヴァレリア・フォン・アルトハイム。

群青色のシルクガウンを纏い、白磁の指先で繊細なクリスタルペンを弄んでいる。昨夜、最高司教ベネディクトの放った即死呪詛【魂喰らいの黒釘】を神聖精製して丸ごと呑み干した(第21話)ことにより、彼女の全身から立ち上る神気は一段と密度を増し、部屋の空気を神聖なる泉のように清らかに澄み渡らせていた。


その机の向かい側には、カイザーライヒ帝国筆頭軍師兼筆頭宰相――ヒルデガルト・フォン・ベルリッヒが、長椅子に腰を据えていた。

白銀に近い薄氷色の髪を整え、細身の金縁眼鏡の奥で怜悧な双眸を光らせている。彼女の手元には、先刻掌握したばかりのガルディニア大聖堂の債権目録と、大陸全土の大商工ギルドから届いた最新の経済動向報告書が、整然と並べられていた。


そして、ヴァレリアの斜め後方には、濃紺の侍女服を着崩さず、直立不動の姿勢を崩さないグレーテ。

彼女は無駄のない所作で銀のポットを傾け、白磁のカップへと最高級のハーブティーを注ぎ落とす。湯気と共に広がるペパーミントとカモミールの清涼な香りが、執務室の張り詰めた空気を静かに和らげていた。


「……まずは、一手目の完全な勝利、お祝い申し上げますわ、ヴァレリア閣下」


ヒルデガルトが眼鏡の位置を指先で直しながら、静かに口を開いた。

その声には、初対面の頃のような探るような警戒心は微塵もなく、純粋な敬意と、同格の知性派に対する心地よい信頼が滲み出ていた。


「ガルディニア大聖堂は完全に沈黙いたしました。最高司教ベネディクトの怪死と公衆の面前での自白、大聖堂の物理的崩壊、そして我がカイザーライヒによる宗教債の一斉回収……。神殿が国内外に抱えていた信用はゼロに堕ち、残存する神官たちも私刑を恐れて四散しております。神殿という精神的・経済的支柱を失ったガルディニア帝国は、今や両脚をもがれた巨人の如く、ただ自重で崩壊するのを待つのみです」


「ええ。上々の滑り出しですわね、ヒルデガルト」


ヴァレリアはカップを受け取り、唇を寄せて小さく一口啜った。

上品なハーブの香りが喉を潤していく。彼女の紫紺の双眸には、しかし勝利の奢りなど一片も浮かんでいなかった。


「大聖堂という舞台装置の解体は、あくまで全体の序曲に過ぎませんわ。……あの国には、神殿の影に隠れながら、私の血肉を最も浅ましく啜り、私を十年間あの冷たい地下牢に縛り付け続けた『最大の元凶』が、まだのうのうと生き残っていますもの」


ヴァレリアの声音が、わずかに低く、氷のように冷え切った。


「――実家である、アルトハイム公爵家ですわ」


その名が発せられた瞬間、背後に控えていたグレーテの細い眉が、ピクリとわずかに動いた。

元暗殺者にしてヴァレリアの専属侍女長である彼女にとっても、アルトハイム公爵家という存在は、かつて仕え、そしてその底知れぬ強欲によって主を地獄へ売り飛ばした、唾棄すべき呪わしき血族であったからだ。


「アルトハイム公爵ハインリヒ……閣下の実の父親、ですね」

ヒルデガルトが手元の黒革のバインダーから、一枚の分厚い調査報告書を抜き出し、卓上へと滑らせた。

そこには、公爵家の資産状況、私設軍の規模、そして過去十年間にわたる帝室および神殿との「裏取引」の記録が、びっしりと記載されていた。


「調査報告を精査いたしましたが……吐き気を催すほどの徹底した搾取構造です。アルトハイム公爵家は、長女であるヴァレリア閣下を『帝国の呪詛を引き受ける生贄』として地下牢へ差し出す見返りに、帝室から天文学的な特権を引き出し続けていました」


ヒルデガルトが指先で書類の項目を一つずつ叩いていく。


「第一に、東部に広がる広大な穀倉地帯――帝国全土の穀物生産の四割を担う『アルトハイム沃野』の独占管理権と、それに伴う全収穫物の永代無税特権。

第二に、公爵領内に存在する古代銀鉱山の採掘権の無償譲渡。

第三に、大聖堂から毎年支払われていた、金貨五十万枚に及ぶ巨額の『聖女供出補助金』……。公爵家はこの十年間、閣下の流す血と激痛を担保にして、帝国屈指の富豪へと肥え太り、貴族院における発言力を不動のものにしていました」


「……ええ。お父様は昔から、数字の勘定だけは人一倍早い方でしたわ」

ヴァレリアは冷ややかに微笑んだ。その笑みには、家族に対する憎悪すら通り越した、路傍の汚物に対する絶対的な侮蔑だけが宿っていた。


「幼少期の私に『お前の犠牲が帝国を救うのだ』と甘い言葉を囁きながら、裏では帝室と神殿を天秤にかけ、私という商品の値段を吊り上げていた。十年間、冷たい石牢で私が骨を軋ませていた間、あの屋敷では毎夜のように豪奢な夜会が開かれ、私の苦痛から搾り取られた金貨で買った美酒が振る舞われていたのですものね」


「それだけではありません」

ヒルデガルトの眼鏡の奥の光が、さらに鋭さを増した。

「神殿の告発状(第17話)が帝都中に貼り出され、最高司教が自滅した今、アルトハイム公爵は自らの立場が危うくなったことを察知し、さらなる保身へと動き出しています。……次女のクロティルデ嬢を、新たな皇太子の婚約者として擁立しようと画策しているようです」


「クロティルデ……」

ヴァレリアの口から、懐かしくも薄汚れた妹の名が零れた。


「ええ。偽聖女マリアベルに取り入り、贅沢三昧を謳歌してきた娘です。マリアベルが先日の大聖堂爆発事故や大階段の転落事故によって醜態を晒し、民衆の信用を失った今こそ好機と判断したのでしょう。公爵は、皇太子ユースティスへ巨額の軍資金を献上することでクロティルデとの婚約を強引に取り付け、公爵家の権力を死守しようと目論んでいます。――そのための手土産として、閣下が地下牢に連行される前に残していった私物や、亡き実母様の遺産をすべて競売にかけ、換金しようとしているとの情報が入っております」


「……母の、形見まで」


ヴァレリアの紫紺の瞳が、スッと細められた。

その瞳の奥底で、氷点下の絶対零度の光が、静かに、だが不可逆の殺意を伴って凝縮していく。

十年前、地下牢へ連行される直前。

母が病床で遺してくれた、唯一の形見――高純度の魔力を秘めた古代遺物【精霊銀の腕輪】。

泣いてすがる十歳のヴァレリアから「これだけは奪わないで」と懇願された際、公爵ハインリヒは「後で届けてやる」と嘘をついて取り上げ、屋敷の金庫へと隠蔽したのだ。

それを今、自らの保身のための賄賂に変えようとしている。


「身の程を知らない豚たちね。……私の血肉を売り払った金で肥え太るだけでは飽き足らず、母の魂にまで泥靴で踏み入ろうというのかしら」


「いかがなさいますか、閣下?」

ヒルデガルトが身を乗り出した。

「カイザーライヒの秘密工作員、あるいはキリアン殿の暗殺ギルドを動かし、公爵邸を襲撃して腕輪を奪還させますか? 公爵の首を刎ねることなど、キリアン殿の配下であれば今夜のうちにでも造作もないことですが」


「いいえ」


ヴァレリアは即座に、優雅に首を横に振った。

彼女は手元のクリスタルペンを置き、卓上に広げられたガルディニア帝国の立体地図へと、そっと指先を滑らせた。


「力づくで奪い返すなど、野蛮人のすることですわ。……それに、泥棒の首を切り落とすだけでは、十年間私が地下で流した涙の利子としては、あまりにも安すぎます」


ヴァレリアの指先が、地図の東部――広大な緑で塗られた『アルトハイム公爵領』の上でピタリと静止した。


「ヒルデガルト。貴女は不思議に思ったことはありませんこと? ……なぜ、ガルディニア帝国の東部に位置するアルトハイム領だけが、大陸屈指と呼ばれるほどの異常な穀物収穫量を誇っていたのかを」


「……と、仰いますと?」

ヒルデガルトがわずかに眉をひそめた。

「地理的には、肥沃な河川の流域であり、温暖な気候に恵まれていると記録されておりますが……」


「表向きの地理学など、何の意味もありませんわ」

ヴァレリアは小さく喉を鳴らして笑った。その笑みは、世界の裏側の構造を知る者だけが浮かべる、恐るべき暴露の予兆。


「あそこはね……太古の昔、深淵から吹き上がった『原初の穢れの奔流』が、地下深くの地脈を通じて直接流れ込む、大陸で最も呪われた土地の一つなのですのよ」


「……何ですって!?」

ヒルデガルトが息を呑んだ。


「作物が異常な速度で育っていたのは、土壌が豊かだったからではありません。地下の大地脈に満ちる莫大な魔力残滓――高濃度の霊的エネルギーが、土地を過剰に励起させていただけなのです。本来であれば、そのエネルギーは植物を狂わせ、作物を内側から腐敗させ、大気を致死の瘴気で満たすはずの猛毒でした」


ヴァレリアは自らの胸元にそっと手を当てた。

薄いドレスの生地越しに伝わる、かつて十年間、彼女を焼き苛み続けた呪縛の記憶。


「なぜ、猛毒が豊かな恵みへと変わっていたのか。……私が十年間、地下牢で大聖堂の核石に繋がれ、帝国全土の地脈から吸い上げ続けていたからですわ。公爵領の大地に溜まるはずだった『原初の穢れの奔流』を、地下水脈を通じて、私がこの身一つで濾過し、毒素だけをすべて私の肉体に引き受け続けていたからに他なりません」


「…………っ!!」


ヒルデガルトの全身を、冷たい戦慄が駆け抜けた。

大聖堂前広場での爆発事故(第8話)、帝都の噴水がドブ水に濁った異変(第7話)――それらすべてと同じ構造。

ガルディニア帝国という国家の繁栄のすべてが、ヴァレリアというたった一人の生贄が機能させていた「排水処理フィルター」の上に咲いた、砂上の楼閣だったのだ。


「私が深淵へ落とされたことで、大聖堂のフィルターは外れました。……そして今、公爵領の大地の下でも、まったく同じ現象が起ころうとしています」


ヴァレリアの指先が、公爵領の地図をコンコンと叩いた。


「防壁を失った今、地下深くの大地脈には、十年間私がせき止めてあげていた何万トンもの濃縮された呪詛ガスが、行き場を失ってパンパンに膨れ上がっていますわ。地下水脈と混ざり合い、圧力を高め、地表へ噴き出す瞬間を、今か今かと待ち構えている……。あそこは今、大地そのものが巨大な『時限爆弾』と化しているのです」


「……時限爆弾」

ヒルデガルトの唇が、震えるようにその言葉を反復した。


「ええ。何もしなくてよろしくてよ、ヒルデガルト。軍を動かす必要も、暗殺者を放つ必要もありません。彼らは勝手に、自らの手で導火線に火をつけますわ」


ヴァレリアは机の脇に置かれていた、黒曜石で作られたチェスの駒入れへと手を伸ばした。

彼女の指先が摘み上げたのは、漆黒の『クイーン』の駒。


「公爵家は、私から奪った母の形見を手首に嵌め、金貨に変えようとするでしょう。……その強欲こそが、【因果の天秤】の引き金を引く鍵となります。私に向けられた略奪の悪意が反跳した瞬間、公爵家の血統は内側から焼き切られ――そして、大地の下で眠る時限爆弾が、一気に炸裂いたしますわ」


黄金色に実るはずの麦畑が泥沼へと沈み、井戸から毒水が噴き出し、家畜が死に絶え、飢えた領民たちが館を取り囲む地獄絵図。

娘の肉を売って肥え太った血族が、自ら蒔いた強欲の種によって、領地ごと骨の髄まで腐り落ちていく完璧な自滅のシナリオ。


「素晴らしい……」

ヒルデガルトは感嘆のため息を漏らし、深く頭を垂れた。

「武力による破壊など、貴女の描く盤面の前にはただの粗野な暴力。公爵家は、自らが長年貪ってきた『富の源泉』そのものによって、窒息死することになるのですね」


「ええ、その通りよ」


ヴァレリアは唇の端を妖艶に吊り上げると、手にした黒いクイーンの駒を、作戦地図の中央――アルトハイム公爵邸のシンボルが描かれた場所の上へと、音もなく、静かに打ち下ろした。


カツン。


硬質な黒曜石の音が、執務室の静寂に心地よく反響した。


「十年分の親孝行ですもの。……たっぷりと、余すところなく味わっていただきませんとね。お父様、お母様」


絶対の女帝の冷酷な宣告と共に、実家アルトハイム公爵家を地獄へと叩き落とすための、因果の歯車が静かに噛み合い始めたのであった。

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