第22話:愛の重すぎる修羅場 〜四つの狂気と、庭の物置行きとなった至宝〜
ガルディニア大聖堂が紅蓮の業火に包まれ、最高司教ベネディクトが自らの放った呪詛の反跳によって公衆の面前で灰燼に帰した(第21話)という急報は、竜骨山脈を越えて瞬く間にカイザーライヒ帝国へと届いた。
千年の歴史を誇る宗教国家の事実上の壊滅。
さらに、女軍師ヒルデガルトの手腕によって仕掛けられた国際金融の一斉封鎖(第16話)が決定打となり、国内外の全債権者が一斉に雪崩れ込んだことで、ガルディニア神殿の残された資産は完全に差し押さえられ、経済的にも再起不能の死を迎えたのである。
一滴の血も流さず、自軍の兵士を一人も動かさず、ただ手元の帳簿をチェス盤のように動かしただけで、隣国の精神的中枢をわずか数日で消滅せしめた奇跡。
迎賓離宮『黒曜宮』は、まさに歴史的な大勝利の熱狂に包まれる……はずであった。
だが――翌朝の黒曜宮二階、ヴァレリアの私室へと続く大広間を支配していたのは、祝勝ムードなどという生ぬるいものでは断じてなかった。
大理石の床が軋み、空間の四隅が異なる魔力の波長によって歪み、今にも爆発しそうなほどの殺気と重苦しい熱気が充満していた。
世界最高峰の男たちによる、あまりにも過剰で、あまりにも狂気じみた――「求愛競争」の修羅場である。
「……どいつもこいつも、我が主の私室の前に醜い面を晒して群がるな。朝の清らかな大気が淀む」
大広間の中央で腕を組み、金色の双眸から常人を狂死させるほどの殺戮オーラを撒き散らしていたのは、原初の魔王ヴォルフラムであった。
黒銀の長髪を不機嫌そうに揺らし、夜を固めたような黒の燕尾服を纏ったその男は、足元に鎮座させた巨大な金属の長持を見下ろして鼻を鳴らした。
「特に貴様だ、カイザーライヒの皇帝。昨夜から軍靴の音を響かせて回廊をうろつきおって。主がお目覚めになられる前に、そのうるさい舌を根元から引き抜いてやろうか?」
「威勢だけはいいな、古代のトカゲが」
対角の大理石の円柱に背をもたれかけ、不敵な笑みを浮かべていたのは皇帝コンラートであった。
黒髪短髪、精悍な顔立ちに刻まれた歴戦の傷跡を朝陽に晒しながら、男は腰の古代魔剣の鞘を指先で弄んでいる。その背後には、カイザーライヒ皇室の近衛兵たちが、息を詰まらせて跪き、巨大な黒檀の衣装箱を恭しく捧げ持っていた。
「ヴァレリアの手腕によって、我が帝国は一兵も損なわずにガルディニアの宗教債を丸ごと手中に収めたのだ。この国の主権者たる俺が、最大の功労者である我が至宝に報奨を届けに来るのは当然の義務だろうが。……手ぶらで主の前に侍ることしか能のない人外には、理解できん道理だろうがな」
「誰が手ぶらだと抜かした、下等生物が」
ヴォルフラムの瞳が爛々と輝き、足元の長持の蓋を爪先で跳ね上げた。
ゴオオオオオオッ!!
蓋が開いた瞬間、大広間全体が、息を呑むような深紅と漆黒の燐光に包まれた。
長持の中に収められていたのは、赤ん坊の頭ほどもある巨大な菱形の結晶体――深淵の底の最深部に眠っていた、大陸にただ一つしか現存しない神話の秘宝『原初の魔晶核』であった。
触れた者の魔力を無限に増幅し、一個で都市一つを百年単位で稼働させるとされる、生きた心臓のようにドクン、ドクンと脈動する伝説の心臓核石。
「深淵の底を三千メートル掘り返し、我が手で引きずり出してきた至宝だ」
ヴォルフラムは誇らしげに牙を覗かせ、胸を張った。
「主の魔力総量はすでに神話の領域にあるが、これさえあれば、さらに無限の深淵の力をその身に宿すことができる。……我が神の胸元を飾る装飾品としては、まだ少々濁りが気になるがな。この我が、主のために命を賭して掘り当ててきたのだ」
「はっ、笑わせるな」
コンラートは鼻先でせせら笑い、背後の近衛兵に顎で合図を送った。
黒檀の衣装箱が音もなく開け放たれる。
パァァァァ……と、朝露のように清らかな黄金の光が溢れ出た。
箱の中に敷き詰められた白絹の上に横たわっていたのは、目を見張るほどに豪奢で、息を呑むほどに美しい真紅のドレスであった。
太古の古代竜が千年に一度だけ脱皮する際に残すとされる『真祖竜の逆鱗』。触れればいかなる物理攻撃も魔導砲すら無力化し、羽毛よりも軽く、着用者の魔力に応じて形を変えるという、カイザーライヒ帝室の国宝指定第一号のドレス。
さらにそのドレスの上には、皇帝の印璽が捺された羊皮紙――『カイザーライヒ帝国全権委任状』が添えられていた。
「ただの石ころなど、女の肌を飾るには重苦しいだけだ」
コンラートは傲然と言い放ち、胸元の委任状を指し示した。
「俺がヴァレリアに捧げるのは、世界最高の衣、そしてこの国の半分だ。この委任状にサイン一つすれば、カイザーライヒの全軍、全領土、全法制の拒否権が彼女の手に渡る。我が帝国のすべてを、彼女の復讐劇の玩具にして構わないという、皇帝としての俺の全身全霊の誓約だ」
「……相変わらず、俗物の考えることは浅ましいですね」
二人の怪物の間に、氷水を差し挟むような冷淡な声が滑り込んできた。
壁の影から歩み出てきたのは、白銀の祭服を脱ぎ捨て、漆黒の聖職服を着崩した青年――元筆頭司教マティアスであった。
大聖堂を自ら爆破して出奔したその男の首元には、生々しい火傷の痕が残り、端正な顔立ちの中央で、狂信に濡れた瞳が異様な光を放っている。
マティアスの両手には、二つの手土産が抱えられていた。
一つは、大聖堂の宝物庫の最奥から略奪してきた、歴代聖女にのみ継承される門外不出の秘薬『神聖真祖の白滴』。
そしてもう一つは――羊皮紙を束ね、自らの血で音符を書き殴った分厚い楽譜の束であった。
「権力だの、防御力だの……ヴァレリア様の至高の御前にあって、それらがいかに無価値なゴミ屑であるか、まだ分からないのですか?」
マティアスは陶酔したように楽譜を胸に抱きしめ、天を仰いだ。
「ヴァレリア様は、地獄から這い上がられた生ける唯一神! 神に必要なのは、世俗の権力ではなく、全人類からの絶対なる祈りと礼拝です! これを見なさい……私が昨夜、一睡もせずに神殿の禁忌魔導書を解読し、貴女様を称えるために書き下ろした【新世界創世讃美歌】の楽譜です! 大聖堂が崩壊した今、この大陸全土にヴァレリア様を唯一神と崇める新たな国教を打ち立て、十億の民を跪かせてみせましょう!」
「気色が悪いんだよ、狂信者」
ピシャリと、その狂気の演説を切り捨てたのは、梁の上から音もなく逆さ吊りにぶら下がった銀髪の少年――暗殺者キリアンであった。
少年は死人のように冷たい碧眼を眇め、床の上へと軽やかに着地した。
手にした二本の波刃ダガーを鞘に納めることもせず、無表情のままヴァレリアの私室の扉の前に立つと、懐から取り出した二つの『実用品』を机の上にカツンと置いた。
一つ目は――ガルディニア帝都宮殿の最新の『全近衛兵警備配置図』。巡回ルートから死角に至るまで、暗殺ギルドの精鋭が昨夜命がけで調査した極秘図面。
そして二つ目は――真鍮で作られた、古めかしい一本の鍵。
「……何だそれは、ガラクタの鍵か?」ヴォルフラムが眉をひそめる。
「ガラクタじゃないよ」
キリアンは淡々と、だが底知れぬ残虐性を瞳に宿して告げた。
「第一皇太子ユースティスの、寝室の裏口の合鍵。それから、あいつが毎晩飲んでいる精神安定剤の毒物混入ルートの確保記録。……石ころも、ドレスも、歌も、ヴァレリア様にとってはただの余興でしょ? 一番大切なのは、あいつらをどう殺すかだ。――いつでもあの男の喉笛を掻っ切れる準備ができました。合図ひとつで、今夜にでもあいつの耳と舌を削ぎ落として、ヴァレリア様の枕元にお届けします」
――四者四様。
帝国の半分と絶対の権力を捧げる皇帝コンラート。
神話の心臓石と無限の魔力を捧げる魔王ヴォルフラム。
復讐の仇敵の寝室の鍵と命を差し出す暗殺者キリアン。
新宗教の教皇として全人類の信仰を捧げる元司教マティアス。
矢印のベクトルが「権力」「人外の執着」「暗殺の狂気」「背徳の信仰」と極限まで尖りきり、互いに一歩も譲らぬまま、男たちの視線がバチバチと火花を散らした。
「我が魔晶核こそが、主の胸元に相応しい」
「ふん、俺のドレスと帝国の全権こそが、彼女の器に釣り合う」
「僕が持ってきた首のほうが、ヴァレリア様は喜んでくれるよ」
「いいえ、我が讃美歌こそが、神への唯一の正しき奉納です」
「「「「貴様、いい加減に失せろ!!」」」」
ドォォォォォォンッ!!
四人の咆哮が重なり、大広間の大理石の床に亀裂が走った。
魔王の黒炎が渦を巻き、皇帝の覇気が空間を軋ませ、暗殺者のダガーが銀の光条を描き、元司教の呪導書が紫の燐光を吹き上げる。
私室の扉の前で、まさに世界大戦が勃発せんとした――その瞬間であった。
カチャリ。
あまりにも静かに、扉の鍵が外れる澄んだ音が響いた。
ザッッ!!
四人の怪物が、示し合わせたかのように一瞬で武器を収め、魔力を霧散させ、背筋をピンと伸ばして直立不動の姿勢を取った。
冷や汗を流しながら、互いに肘で小突き合って最前列を奪い合おうとするが、扉が完全に開かれた瞬間、四人は同時に息を呑んで硬直した。
現れたのは――朝の身支度を完璧に整えた、ヴァレリア・フォン・アルトハイムであった。
身に纏うのは、深い夜空の色をしたシルクの部屋着に、繊細な銀糸のレースを羽織った優美なガウン。
昨夜、最高司教ベネディクトの放った即死呪詛【魂喰らいの黒釘】を丸ごと呑み干し、神聖精製した影響(第21話)により、その白磁の肌は内側から神々しい光を放つかのように透き通り、艶やかな黒髪は一筋の乱れもなく肩へと流れている。
紫紺の双眸には、睡眠を邪魔されたことに対する微かな不快感と、退屈を極めたような冷淡な光が宿っていた。
「……朝から騒がしいわね。何の喜劇ですの?」
ヴァレリアが冷涼な声音を落とした瞬間、四人の男たちは一斉に、我先にと膝を折って床に平伏した。
「ヴァレリア様! 我が主! この魔晶核をお受け取りください!」
「ヴァレリア、我が帝国の至宝たる竜鱗のドレスと委任状を君に捧げる!」
「ヴァレリア様、皇太子の寝室の鍵です! 今すぐ首を狩ってきます!」
「我が神よ! 貴女を称える讃美歌を、どうかその清らかな耳でお聴きください!」
大広間の床の上に、誇らしげに並べられた四つの貢ぎ物。
大陸全土の富を合わせても手に入らない、規格外の至宝と狂気の結晶。
ヴァレリアは、長持の中の巨大な魔晶石を一瞥し、続いて竜鱗のドレスと委任状を見下ろし、鍵とカルテを一瞥し、最後に血で書かれた讃美歌の楽譜へと視線を流した。
「…………」
彼女は扇子の先を自らの艶やかな顎に当てると、小さく溜息をついた。
感動も、歓喜も、一片の動揺すらない。
ただ、山のように積まれた粗大ゴミを前にした貴婦人のような、心底から面倒くさそうな眼差し。
そのヴァレリアの斜め後方から、音もなく姿を現したのは筆頭侍女長グレーテであった。
乱れのない濃紺の侍女服に、感情の欠片も宿さない陶器の仮面のような美貌。
グレーテはエプロンのポケットから銀の懐中時計を取り出して時間を確認すると、床に並べられた四つの至宝を、ゴミ箱の中身を見るような底冷えする視線で一瞥した。
そして――深々とヴァレリアに向けて頭を下げ、抑揚のない平坦な声音で進言した。
「――我が主。朝のお茶の時間が三分遅延しております」
「そうね、グレーテ」
「床の上の粗大ゴミが邪魔で、ワゴンの車輪が通りません。……すべて、庭の物置に放り込んでよろしいでしょうか?」
ピシリ、と大広間が凍りついた。
国宝指定の古代竜のドレス。
世界に一つしかない神話の魔晶石。
帝国の全権委任状と、皇太子の命を握る鍵。
そして新宗教の創世経典。
大陸の歴史を塗り替えるはずの四つの至宝を――『庭の物置の粗大ゴミ』として処理するという、究極の暴言。
「な……ッ!?」
「物置だと……!?」
四人の男たちの顔が同時に引き攣る。
だが、グレーテの言葉を受けたヴァレリアは、微塵も迷うことなく、優雅に扇子をパチンと鳴らして微笑んだ。
「ええ、そうしてちょうだい。……埃を被らないように、上から古い毛布でも掛けておきなさいな」
「畏まりました、我が主」
グレーテは一礼すると、足元の長持と衣装箱、楽譜と鍵の束を、まるで使い古した雑巾でも片付けるかのような無造作な手つきで、ワゴンの下の回収籠へと次々と放り込んでいった。
男たちは床に額を擦り付けたまま、自慢の貢ぎ物がゴミ同然に回収されていく光景を、ただ呆然と見送るしかなかった。
反論などできるはずもない。
彼女が微笑み、受け取った(物置行きにした)という事実そのものが、今の彼らにとって唯一与えられた「慈悲」であったからだ。
「さて……くだらないお遊戯は終わりよ」
ヴァレリアは男たちを一顧だにせず、身を翻してサロンへと歩み出した。
漆黒のガウンの裾がさらさらと床を滑り、彼女の紫紺の瞳の奥で、冷徹な復讐者の知性が妖艶に目を覚ます。
「大聖堂という精神の柱は折れました。……次は、私の血肉を売り払って肥え太った、あの豚たちの番ね」
実家アルトハイム公爵家。
十年間、ヴァレリアを地下牢に閉じ込め、その犠牲の上に繁栄を謳歌してきた強欲なる血族。
彼らを自滅へと追い込むための次なる一手を打つべく、女帝は特等席のサロンへと、優雅に進み出たのであった。




