第21話:自滅の業火と神殿の死 〜反跳せし呪毒の槍と、灰燼に消ゆ懺悔の声〜
迎賓離宮『黒曜宮』のテラスに吹き荒れていたのは、常世の風ではなかった。
大気は凍てつき、月光すらもその黒い質量に屈服して光を失っていた。
三十年の寿命と三十頭の神聖獣の命を貪り食らい、ガルディニア大聖堂の最高司教ベネディクトが放った絶対死の凶器――【魂喰らいの黒釘】。
物質としての障害も、空間の隔絶も、概念防御の結界すらも紙屑のように透過したその暗黒の穂先は、寸分の狂いもなく、ヴァレリア・フォン・アルトハイムの眉間へと突き刺さろうとしていた。
「我が主に――ッ!!」
「ヴァレリア様――ッ!!」
ヴォルフラムの咆哮が空間を震わせ、キリアンの影が音速の壁を破って割り込もうとする。
だが、二人をもってしても届かない。物理と魔導の法則を完全に超越した「因果の必中」の前に、彼らの手は空を切るしかなかった。
そして――。
黒い稲妻を纏う呪毒の切っ先が、ヴァレリアの白磁の額へ、ピタリと触れた。
触れたのだ。
本来であれば、そのコンマ一秒の後に対象の魂核を粉々に砕き、内臓を裏返し、全魔力回路を黒く腐敗させて即死させるはずの、神殿秘匿の禁忌呪詛。
激突の衝撃音など起きなかった。
ただ――。
――カチリ。
深淵の底で鳴り響いたあの音。
世界の基幹を律する絶対の天秤が、重厚に、冷徹に傾く音が、テラスにいた者たちすべての魂の底へ直接響き渡った。
――原初固有能力【因果の天秤】。
――第一原則【悪意の神聖精製】、最大出力稼働。
――検知害意:国家最高位聖職者による魂魄殺戮呪詛、寿命対価の絶対死。
「…………ッ!?」
息を呑んだのは、駆けつけようとしていたヴォルフラムたちであった。
ヴァレリアの額に触れた瞬間――槍の先端から噴き出そうとしていた漆黒の毒炎が、まるで目に見えない巨大な顎門に噛み砕かれたかのように、ピタリと動きを止めたのである。
ジュゥゥゥゥゥゥッ……!
それは、常識を根本から覆す光景だった。
触れた者を腐らせるはずのドス黒い霊的ヘドロが、ヴァレリアの滑らかな皮膚に触れる端から、激しい純白の蒸気を吹き上げ始めたのだ。
悪意が、毒素が、怨嗟が――触れた瞬間に脱色されていく。
黒は白へ。
死は生へ。
破壊の呪詛は、超高密度の神聖な魔力資源へと、180度完全に反転・精製されていく。
長さ二メートルを超える黒釘の巨躯が、まるで春の陽光に晒された氷柱のように、先端から音を立てて融解していった。
融解した純白の光の粒子は、きらきらと輝く天上の星屑となって宙を舞い、一本の美しい光の奔流となって、ヴァレリアの額、鼻腔、そして全身の毛穴から、彼女の体内へと貪欲に吸い込まれていく。
「……ん、ふ……っ」
ヴァレリアの艶やかな唇から、苦痛など微塵もない、あまりにも甘美で妖艶な吐息が零れ落ちた。
三十年分の寿命。三十頭の神聖獣の血。
最高司教が自らの魂を削り取って凝縮させた、天文学的な質量のエネルギー。
それが、一滴の不純物も残さず、極上の神気へと濾過されてヴァレリアの肉体を満たしていく。
バチバチッと、ヴァレリアの全身から神々しいまでの黄金の燐光が吹き上がった。
魔力総量が、加速度的に跳ね上がる。
彼女の白磁の肌は、内側から発光するかのように透き通るような白さと艶を帯び、夜風に揺れる黒髪の一筋一筋が、神聖なオーラを纏って微細な光の粉を散らす。
十年間、地下牢で削り取られていた生命の器が、敵の放った最大の必殺の一撃によって、更なる高みへと進化を遂げたのだ。
それだけではない。
ヴァレリアが右手に持っていたグラス――コンラートが贈った半世紀物の白ワイン。
彼女の指先から漏れ出た神聖な余剰魔力がグラスのステムを伝い、琥珀色の液体へと溶け込んだ瞬間、ワインは眩い黄金の輝きを放ち、周囲に極楽浄土の花園を思わせる神話の芳香を漂わせ始めた。
ただの高級ワインが、一口飲むだけで不治の病すら瞬時に治癒せしめる、神話級の『完全霊薬』へと変質を遂げたのである。
ものの十秒。
世界を滅ぼしかねない暗殺呪詛【魂喰らいの黒釘】は、塵一つ残さず、ヴァレリアの五臓六腑を潤す極上の栄養素となって完全に消滅していた。
テラスを支配したのは、呆気にとられるほどの静寂。
息を呑んだまま固まるヴォルフラムとキリアン。
その前で、ヴァレリアは黄金に輝くワイングラスを優雅に揺らし、夜風を胸いっぱいに吸い込んだ。
「……ごちそうさまでした」
鈴を転がすような、冷涼で艶やかな声。
彼女は唇をワインの縁に寄せ、神薬と化した黄金の雫を上品に一口喉へと流し込むと、南東の空――ガルディニアの彼方を見据え、氷のように冷たい微笑みを浮かべた。
「素晴らしい馳走でしたわ、最高司教猊下。……ですが、ただ施しを受けるだけでは、アルトハイムの長女として礼儀を欠くというもの。――では、お返し(・・・)を差し上げましょう」
ヴァレリアの紫紺の双眸が、妖艶な黄金の光を帯びて細められた。
彼女は空いた左手をそっと持ち上げ、虚空に向けて、細い人差し指を優雅に弾いた。
「――【因果の天秤】、第二原則【絶対反跳】、最大出力解放」
冷酷なる勅命。
ヴァレリアの胸元に刻まれた不可視の天秤が、ガタッと大きく傾いた。
神殿が誇る最大の悪意。
先ほど呑み干した【魂喰らいの黒釘】の呪詛質量が、因果の法則によって――「五倍」に増幅された。
それはもはや一介の人間が耐え得る領域を遥かに超越した、国家を焦土に変えるほどの呪毒の質量。
空間を繋ぐ因果の糸を逆流し、光速を越える速度で、発信源であるガルディニア大聖堂の地下へと、破滅の奔流が一気に逆流していった。
***
ガルディニア大聖堂地下数百メートル、『禁忌の秘儀室』。
祭壇の前で、ミイラのように干からびた最高司教ベネディクトは、自らの痩せこけた両手を掲げ、狂乱の笑みを浮かべていた。
「ヒヒッ……ヒハハハッ! 決まった! 手応えがあったぞ! 我が【黒釘】が、空間を越えてあの女の霊核に激突したのだ! 死んだぞ、ヴァレリアは死んだのだぁぁぁっ!!」
歯の抜け落ちた口から涎を垂らし、ベネディクトは床の上で狂喜乱舞した。
三十年の寿命を失い、身体はボロボロの骸骨と化したが、あの憎き魔女をこの世から消し去ることができたのだ。これで自分は英雄として、神殿を立て直し、再び権力の頂点に返り咲くことができる――。
――カチリ。
乾いた、重厚な金属音が、ベネディクトの頭蓋骨の内側で鳴り響いた。
「……え?」
ベネディクトの笑みが、凍りついた。
幻聴ではない。
魂の芯に直接撃ち込まれた、冷酷なる『秤』の音。
次の瞬間。
――ズギャアアアアアアアアッッ!!!!
八角形の黒曜石の祭壇の真上の虚空が、粉々に叩き割れた。
噴き出したのは、彼が放ったあの黒釘などとは比べ物にならない、数十倍の太さを持った漆黒と真紅の呪炎の柱。
五倍に増幅された自らの悪意。
三十年の寿命の代償と、三十頭の神聖獣の血の怨念が、百五十年の激痛と百五十頭分の怨霊となって、ベネディクトの頭上へと正確無比に逆流・直撃したのである。
「ぎゃ……ぎゃあああああああああああああああああっっっ!?!?!?」
鼓膜を破る絶叫が、地下室に木霊した。
ドゴォッ!と、見えない超重量の杭が、ベネディクトの頭頂部から股下へと貫通するように打ち込まれた。
肉体が焼けるのではない。
骨が砕けるのではない。
彼の魂そのものが、内側から数千度の黒い呪炎に包まれ、霊的な全細胞を同時に八つ裂きにされていく激痛。
「熱い! 熱い痛い痛い痛いっ!! 身体が……内側から、内臓が腐るぅぅぅっ!!」
ベネディクトの目から、鼻から、耳から、そして口から――ドス黒い呪炎の煙がボロボロと噴き出した。
血管が浮き上がり、皮膚の毛穴という毛穴から黒い毒血が吹き飛ぶ。
自分が他人に味あわせようとした「絶対死の苦痛」が、五倍の濃度となって己の肉体と神経を無限に苛み続ける。
死ぬことすら許されない。呪詛の質量が大きすぎるがゆえに、肉体が消滅するまで、その激痛のすべてを意識を保ったまま味わい尽くさねばならないという、絶対の因果応報。
「助けて……助けてくれぇぇっ! 誰か……誰か私を救ってくれぇぇぇっ!!」
狂乱したベネディクトは、床を這った。
四肢の関節から煙を吹き、血反吐を撒き散らしながら、彼は地下室の扉を頭突きで押し破った。
光を求めて。
痛みを止めてくれる救いを求めて。
燃え盛る大聖堂の地下通路を、一匹の黒焦げの蛆虫のように、地上へ向けて必死に這い上がっていった。
***
地上――大聖堂前の大広場。
燃え盛る白亜の大聖堂は、すでに屋根の大半が焼け落ち、夜空を焦がす巨大な火葬場のようになっていた。
広場を埋め尽くしていた数千人の市民たちは、崩落した黄金の十字架(第19話)の周囲で、呆然と燃える聖域を見つめていた。
神殿の権威の死を目の当たりにし、誰もが息を呑み、静まり返っていたその時――。
ズズズ……ガラガラッ!
大聖堂の正面、崩れ落ちた大階段の瓦礫の隙間から、奇妙な破壊音が響いた。
黒煙の立ち込める瓦礫の山を押し退け、何かが這いずり出てきたのだ。
「な、何だあれは……!?」
「化け物か……!?」
松明の火が照らし出したその異形に、最前列の市民たちが悲鳴を上げて後ずさった。
現れたのは、人間と呼ぶことすら躊躇われる肉塊であった。
金糸の法衣はボロボロに焼き爛れて皮膚と癒着し、頭髪は抜け落ち、目と鼻の穴から絶え間なく黒い煙を噴き出しながら、手足の肉を床に擦り付けて這いずり回る怪物。
最高司教ベネディクトであった。
彼は広場に集まる数千人の民衆の足元へと、血溜まりを引きずりながら転がり出た。
そして、群衆の足元に手を伸ばし、涙と血反吐を撒き散らしながら、激痛に狂乱して叫び声を上げたのだ。
「私がやりましたぁぁぁぁっ!!」
広場全体を震わせる、断末魔の絶叫。
因果反跳の絶対律――己が犯した加害の記録を、世界に対して自白せずにはいられない、魂の強制告白。
「私が……私が大聖堂の公金を横領し、諸外国の貴族を買収していました! 井戸水に毒を撒くことを命じたのも私です! マリアベルなどただの無能な男爵令嬢だと知っていながら、神輿に担いで民衆を騙しましたぁぁっ!!」
「な……ッ!?」
市民たちが息を呑む。
広場を取り囲んでいた何千人もの民衆の耳に、最高司教自身の口から、昼間の告発状の内容のすべてが寸分の狂いもなく肯定されたのだ。
だが、ベネディクトの絶叫は止まらなかった。
彼は自らの胸元を爪で掻きむしり、肉を引き裂きながら、最も重い大罪の真実を、天に向けて絶叫した。
「そして……ヴァレリア様です! 十年間、帝国のすべての呪詛を引き受けてくださっていた本物の聖女ヴァレリア様を……! アルトハイム公爵家と皇太子ユースティス殿下と結託して、『魔女』の冤罪を着せて深淵へ突き落としたのは私です! 全部、全部私がやりましたぁぁぁっ!!」
血を吐きながら、己の醜悪な悪行のすべてを、神殿の最高権力者が公衆の面前で叫び尽くす。
言い逃れなど一片もできない。
捏造でもテロでもない。
ガルディニア大聖堂という組織の犯した最大の国家反逆と集団虐殺の全容が、最高司教自身の断末魔の告白によって、完全に白日の下に晒された瞬間だった。
「助けてくれ! 痛い、熱い、神よ、神よおおおおっ!!」
ベネディクトの絶叫が、天頂へと突き抜けた。
次の瞬間――。
ボォォォォォォッッ!!
ベネディクトの体内の全細胞から、一斉に純黒の呪炎が噴き上がった。
絶叫はかき消され、老人の肉体は内側から完全に炭化していく。
骨が灰となり、皮膚が崩れ、血が蒸発し――わずか数秒の後。
サァァァ……。
夜風が、広場を吹き抜けた。
そこに残されていたのは、石畳の上に散らばる、一握りの黒い灰だけであった。
かつて帝国の頂点に君臨し、無実の少女を生贄にして肥え太っていた最高司教ベネディクト。
その存在は、自らが放った悪意の炎によって、公衆の面前で己の罪をすべて自白させられた末に、一欠片の肉塊すら残さず、完全に風に吹き散らされたのである。
「…………」
広場を埋め尽くす数千の市民の間に、完全なる沈黙が降りていた。
燃え盛る大聖堂の炎の爆ぜる音だけが、パチパチと夜空に響く。
誰もが、目の前で起きたあまりにも劇的で、あまりにも恐ろしい天罰の光景に、言葉を失っていた。
自白。
大聖堂のトップが、自らの命を燃やしながら絶叫した真実。
自分たちが信じ込まされていた「光の聖女」の嘘。
そして――自分たちが罵声を浴びせ、腐った果物を投げつけ、深淵へと見殺しにした、あの黒髪の少女。
十年間、自分たちを守り続けてくれていたのは、誰だったのか。
誰の血の上に、この国の平穏が成り立っていたのか。
そして、自分たちは何という恐ろしい取り返しのつかない大罪を、犯してしまったのか。
やがて――。
石畳の上に膝をついた一人の市民の喉から、震えるような、涙に濡れた叫びが漏れ出た。
「ヴァレリア様は……」
その声は、静寂を切り裂いて広がっていった。
「ヴァレリア様は……本物の聖女様だったんだ……!!」
『うわあああああああああっ!!』
次の瞬間、広場全体から、慟哭と絶叫の嵐が爆発した。
何千人もの民衆が石畳の上に次々と平伏し、頭を抱えて涙を流した。
無実の恩人を魔女と呼び、奈落へ突き落とした自らの愚行に対する、底知れぬ後悔と恐怖。
神殿への信仰は完全に死に絶え、帝都中の民衆の心に刻まれたのは――自らが裏切った本物の聖女に対する、消えることのない絶対の畏怖と、後悔の念だけであった。
***
――同じ時刻。
カイザーライヒ帝国、黒曜宮のバルコニー。
ヴァレリアは、手元の黄金に輝くワイングラスを静かに傾け、最後の一滴を喉へと流し込んだ。
彼女の魂の奥底で、天秤の針がカチリと音を立て、完璧な水平へと静止する。
ベネディクトの消滅。神殿という精神的支柱の完全なる破壊の完了を告げる音。
「……ふふ」
ヴァレリアは空になったグラスをグレーテへと預け、夜風に長い黒髪をなびかせながら、艶やかに唇を綻ばせた。
「今さら後悔しても、遅いというのに。……愚かな子羊たちだこと」
背後で、ヴォルフラムが恍惚と息を呑み、キリアンが頬を染めてすり寄ってくる。
夜空を見上げる女帝の瞳には、一切の憐憫もなく、ただ次なる獲物――実家アルトハイム公爵家の破滅を見据える、極上の残酷さが宿っていた。




