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第20話:最高司教の禁忌呪詛 〜虚空を裂く必死の黒釘と、月下に傾く白ワイン〜

頭上から絶え間なく降り注ぐのは、千年の歴史を誇る大聖堂が崩落していく断末魔の地鳴りであった。

地上はすでに、怒れる数万の民衆と紅蓮の業火によって埋め尽くされている。天頂の黄金十字架がへし折れ(第19話)、白亜の回廊は黒煙の火薬庫と化し、逃げ遅れた高級神官たちが泥水を飲まされて逆さ吊りにされる阿鼻叫喚の地獄。

だが――その炎上する大聖堂の地下数百メートル、歴代教皇の遺骨すら届かぬ最深部の岩盤に、外光を完全に遮断された密室が存在していた。


名を『禁忌の秘儀室』。

表向きは「原初の神との対話の間」と偽られながら、その実態は、神殿が有史以来、邪魔な政敵や異端者を闇から闇へと葬るために血の生贄を捧げてきた、呪殺のための処刑場である。

天井からは黒く煤けた鉄の鎖が無数に垂れ下がり、部屋の中央には、何百人もの血を吸って赤黒く変色した八角形の黒曜石の祭壇。四方の壁には、光の教義とは真逆の、死と腐敗を司る太古の暗黒文字がびっしりと刻み込まれていた。


「ぐ、うぅ……っ、はぁ……っ、はぁ……っ!」


その祭壇の前に、一匹の老いた獣のように這いつくばっている男がいた。

最高司教ベネディクト。

金糸をふんだんに使った緋色の法衣は、煤と泥、そして自らの鼻血でドス黒く汚れ果て、破れた裾からは贅肉のたるんだ足が醜く覗いている。

首元には、かつてマティアスに絞め上げられた(第9話)鬱血の痕が生々しく黒ずみ、息を吸い込むたびにヒューヒューと喉が喘鳴を上げていた。


「嘘だ……こんなことがあってたまるか……! 我が神殿が……私の築き上げた富と権力が……あんな愚民どもの手で……っ!」


ベネディクトは床を爪で激しく掻きむしった。

爪が剥がれ、大理石の床に血の筋が引かれるが、その激痛すら今の彼には感じられなかった。

失ったのだ。すべてを。

大聖堂は炎上し、数百年かけて蓄財した裏金と機密帳簿はマティアスに奪われ(第14話)、新聖女マリアベルの自作自演の毒殺詐術は帝都中に暴露された(第17話)。

地上へ戻れば、待ち構えているのは怒り狂った民衆による私刑。絞首刑か、それとも手足を八つ裂きにされて豚の餌にされるか――いかなる慈悲も、彼には残されていない。


「すべて……すべてあの女のせいだッ!!」


ベネディクトの口から、血の泡混じりの絶叫が迸った。

濁りきった白目が血走り、額の青筋が破裂せんばかりに浮き上がる。

彼の脳裏に焼き付いて離れないのは、ただ一つの忌まわしき影。


――ヴァレリア・フォン・アルトハイム。


「あのドブネズミめ……! 十年間、地下牢で黙って呪詛を吸い続けていればよかったものを! 大人しく死の穴の底で肉片になっていればよかったものを……ッ! カイザーライヒへ逃げ延び、あまつさえマティアスを唆して我が神殿を陥れおったな……!!」


民衆を扇動したのも、裏帳簿をばら撒かせたのも、すべてあの女の差し金に違いない。

自分が無実の少女を生贄にし、私利私欲のために娘の血肉を売買していた事実など、この腐りきった老人の脳髄からは完全に消え去っていた。

己を追い詰めた世界への怨嗟。そして、自らの意のままにならなかったヴァレリアへの、狂気じみた殺意。それだけが、死に瀕したベネディクトの生命を醜悪に燃え上がらせていた。


「許さん……絶対に許さんぞ、ヴァレリア……ッ! お前さえ、お前さえ死ねば……! 元凶であるお前を呪い殺せば、カイザーライヒの企みも瓦解し、ガルディニアは再び我が掌に戻るのだ!!」


ベネディクトは狂乱の笑みを浮かべ、よろめきながら立ち上がった。

彼が向かったのは、祭壇の脇に並べられた頑強な鉄格子。

そこには、神殿が秘密裏に飼育していた三十頭を超える『白銀の神聖鹿』――大地の清らかな魔力を宿す神聖獣たちが、狭い檻の中に押し込められていた。本来ならば儀式の供物として数年に一度、一頭ずつ捧げられるはずの霊獣たち。


「神よ、我が祈りを聞き届けよ……! いや、悪魔よ! 深淵の亡霊どもよ! 誰でもいい、我が願いを叶えろぉぉぉっ!!」


ベネディクトは祭壇から引き抜いた儀式用の短剣を両手に握りしめると、檻の中へと狂乱のまま踏み込んだ。

ギャァッ、と獣たちの悲鳴が地下室に木霊する。

老人は自らの贅肉を揺らし、目についた神聖獣の喉笛を、片っ端から滅茶苦茶に切り裂いていった。


プシューッ!!と温かい鮮血が噴水のように吹き上がり、ベネディクトの顔面を、法衣を、そして祭壇の八角形の溝を真っ赤に染め上げていく。

一頭、二頭、十頭、三十頭――。

断末魔の痙攣と、内臓を掻き回される生臭い血煙が密室を満たす。黒曜石の溝を伝って流れる三十頭分の神聖獣の血は、本来の清らかな輝きを失い、ベネディクトのどす黒い殺意によって濁った毒血へと変貌していった。


だが、それだけでは足りない。

神殿が誇る最上位の暗殺呪詛を起動するには、獣の血などただの前菜に過ぎなかった。


「我が命を喰らえ……! 我が肉を、我が残された時を削り取れぇぇぇっ!!」


ベネディクトは自らの左腕の動脈目掛けて短剣を突き立て、深く切り裂いた。

ボタボタと滴り落ちる最高司教自身の濃密な血。

生贄の契約。

神殿禁忌の等価交換――術者の『寿命三十年分』の生命エネルギーを、不可逆の対価として祭壇の炉へと一気に注ぎ込んだのだ。


ズズズズズズ……ッ!!


部屋全体が、激しい寒気と共に振動を始めた。

祭壇の溝に満ちた血の海がボコボコと沸騰し、赤から漆黒へと変色していく。

ベネディクトの肉体に、瞬時にして代償の嵐が吹き荒れた。

豊かな白髪はバサバサと抜け落ちて枯草のようになり、脂ぎっていた皮膚は急激に水分を失って縮み、老木の樹皮のように干からびていく。歯が三本、四本と抜け落ちて血反吐と共に床へ転がり、肥満していた巨体は、わずか数十秒のうちにミイラのような骸骨へと痩せ衰えていった。


三十年の寿命の強制剥奪。

だが、その激痛と引き換えに、祭壇の上空の虚空に現出したのは――この世のあらゆる生命を絶対の死へと叩き落とす、神話級の質量を持った暗黒の特異点であった。


バチバチッ! ドス黒い紫の稲妻が空間を切り裂く。

沸騰する血の海から立ち昇ったのは、長さ二メートルを超える、一本の禍々しい槍。

物質としての鉄ではない。数千人分の怨嗟と、神聖獣の無念の血、そして最高司教の執念の命を圧縮して鍛造された――霊的絶対毒の結晶体。


――神殿秘匿禁忌術式・最高位暗殺呪詛【魂喰らいの黒釘(タナトス・ニードル)】。


かつて初代教皇が、神殿の意に従わぬ隣国の賢王や大魔導士を暗殺するために開発し、あまりの凶悪さゆえに封印したとされる即死呪術。

その特性は二つ。

第一に、物質的な障壁、防壁結界、距離を完全に無視する『絶対空間転移』。対象が何千キロ離れた城塞の奥深くにいようと、因果の糸を手繰り寄せてその頭上へと直接出現する。

第二に、肉体ではなく『魂の核』を直接穿つ『絶対死の浸食』。かすり傷一つでも魂の霊体に触れれば、対象の魔力回路を瞬時に壊死させ、内臓を裏返しにして即死させる。


「ヒ……ヒヒッ、ヒハハハハッ!!」


干からびた唇から、歯の抜けた狂気の哄笑が漏れた。

ベネディクトはミイラのように骨張った両手を天へと掲げ、血走った眼窩の奥を爛々と光らせた。


「行け……! 我が怨念の槍よ! ヴァレリア・フォン・アルトハイムの眉間を撃ち抜け!! あの女の魂を八つ裂きにし、内臓を腐らせ、地獄の底へと叩き落とせぇぇぇっ!!」


キィィィィィィンッ――!!


鼓膜を破壊するような超高周波の金属音が響き渡った。

祭壇の上の空間が、ガラスのようにピキリと割れる。

黒い稲妻を纏った【魂喰らいの黒釘】は、音速を遥かに超越した速度で虚空の裂け目へと突入し、大聖堂の地下から、何千キロも離れた北西の彼方――カイザーライヒ帝国の空へと向けて、空間転移を果たした。


***


――同じ時刻。

カイザーライヒ帝国、帝都郊外の迎賓離宮『黒曜宮』。


秋の夜気は澄み渡り、雲一つない満天の星空が、黒曜石のバルコニーを銀色の月光で優しく照らしていた。

ガルディニアの地獄のような喧騒とは対照的な、完璧なる静寂と安寧。

地上十数メートルの高さに張り出した広大なバルコニーの欄干に、ヴァレリア・フォン・アルトハイムは優雅に身を預けていた。


身に纏うのは、夜の帳をそのまま切り取ったような、深い群青色のシルクドレス。

胸元と背中が緩やかに開いたそのデザインは、彼女の白磁の肌の滑らかさと、完璧な鎖骨のラインを月光の下で妖艶に際立たせていた。

十日前の薄汚れた地下牢の生贄の姿など、もはや一片の痕跡すら残っていない。艶やかな黒髪が夜風にさらさらと揺れ、紫紺の双眸は、遠く南東の空――祖国ガルディニアが燃えているはずの方角を、愛おしむように見つめていた。


ヴァレリアの細い指先には、薄氷のように繊細なクリスタルグラスが握られていた。

グラスの中で揺れているのは、皇帝コンラートが自らの個人的な地下酒庫から直々に運ばせた、半世紀物の最高級ヴィンテージ白ワイン。

黄金色に透き通るその液体は、柑橘と白い花、そして微かな鉱物の香りを漂わせ、月光を反射してキラキラと煌めいている。


「……良い夜風ですわね」


ヴァレリアは唇をグラスの縁に寄せ、上品に一口含んだ。

芳醇な果実味と、引き締まった心地よい酸味が喉を潤していく。


彼女のすぐ背後には、二つの長身の影が控えていた。

右側には、黒銀の長髪を夜風になびかせ、黒の燕尾服を着崩した原初の魔王ヴォルフラム。

左側には、壁の影に片足をかけ、銀髪の隙間から冷たい碧眼を光らせる暗殺者キリアン。

さらにバルコニーの入り口には、筆頭侍女長グレーテが無言のまま直立し、銀のトレイの上に氷で冷やされたワインクーラーを完璧な姿勢で保持している。


「我が主、ワインのお味はいかがでしょうか」

ヴォルフラムが金色の双眸を細め、恭しく囁いた。

「人間の皇帝が寄越した酒ゆえ、毒見は念入りに済ませてございます。微塵でも濁りがあれば、今すぐあの皇帝の首を刎ねて参りますが」


「ふふ、過保護ね、ヴォルフラム。とても素晴らしい味わいよ。あのコンラートという男、口先だけでなく、贈り物を選ぶ審美眼だけは確かなようですわ」


「ヴァレリア様がそう仰るなら、生かしておいてあげます」

キリアンがダガーの切っ先を指先で弄びながら、平然と不敬な台詞を口にする。

「でも、あの皇帝、さっきから黒曜宮の結界の外側を馬でウロウロしていますよ。『ヴァレリアの顔を見に来た』とか言って。……追い払ってきましょうか?」


「放っておきなさい。敷地内に入ってこない限りは、ただの徘徊する夜警と同じですもの」


ヴァレリアは小さく喉を鳴らして笑った。

世界最高峰の男たちを飼い慣らし、特等席で美酒を傾ける時間。

地下牢で十年間にわたり味わった飢えと寒さ、そして毒の激痛は、今やこの至上の優雅さを際立たせるための、最高の前菜に過ぎなかった。


――だが。

その穏やかな歓談の空気が、唐突に、前触れもなく断ち切られた。


――ピキィンッッ!!


硬質なガラスが粉々に粉砕されるような破裂音が、バルコニーの頭上で炸裂した。

夜風が止んだ。

月光が凍りついた。

大気中の温度が一瞬にして氷点下まで叩き落とされ、バルコニーの大理石の手すりに、黒い霜が一気に張り詰めていく。


「ッ!?」

「な……何だ――ッ!?」


ヴォルフラムとキリアンが、同時に弾かれたように身構えた。

グレーテの指先から、目に見えぬ鋼糸が一瞬で十数本射出される。


黒曜宮を取り囲む、皇帝コンラートの直轄魔導部隊が展開した『帝国最上位多重防護結界』。

さらにグレーテが独自に張り巡らせた『不可視の暗殺遮断網』。

その二重の絶対防御を――いかなる警報も鳴らさず、物理的な空間そのものを「紙のように突き破って」、虚空に巨大な亀裂が口を開けたのだ。


バリバリバリッ!!と、空間の裂け目から噴き出したのは、常人を視認しただけで狂死させる、禍々しい漆黒の霊的稲妻。

そして、その暗黒の雷雲の中心から、音速を遥かに超える超猛スピードで射出されたのは――。


血と怨嗟に塗れ、三十年の寿命を燃料にして放たれた、絶対死の凶器。

神殿禁忌の最高位暗殺呪詛――【魂喰らいの黒釘(タナトス・ニードル)】。


標的はただ一つ。

バルコニーの中央に立つ、ヴァレリア・フォン・アルトハイムの眉間。


「我が主に近づくなァァッ!!」

ヴォルフラムが吼えた。

魔王の巨躯が一瞬で黒龍の影を纏い、数千度の原初の黒炎が、迎撃のために空間を焼き焦がしながら噴き上がる。


「死ねッ!!」

キリアンが叫んだ。

少年の肉体が音速の領域へと突入し、二本の波刃ダガーが、黒い槍の軌道を逸らすべく全力で投擲される。


だが――届かない。

【魂喰らいの黒釘】は、物理攻撃でも通常の魔法でもない。

因果の糸を手繰り寄せて対象の魂へ直接ダイブする『概念の必中呪詛』。

ヴォルフラムの黒炎をすり抜け、キリアンのダガーの切っ先を透過し、黒い槍は寸分の狂いもなく、不可避の直撃軌道を描いてヴァレリアの額へと肉薄する。


距離、わずか三十センチ。

二十センチ。

十センチ――。


槍の先端から漏れ出る絶対死の黒毒が、ヴァレリアの艶やかな黒髪の毛先を揺らし、その冷涼な夜気を焦がした。

常人であれば、恐怖に心臓を破裂させ、悲鳴を上げることすら許されずに魂を消滅させられるであろう、神話級の滅びの瞬間。


だが。


「…………」


ヴァレリア・フォン・アルトハイムは、一歩たりとも退かなかった。

瞳を逸らすことすらしない。

彼女は右手に持った白ワインのグラスを優雅に傾けたまま、微動だにせず、迫り来る死の切っ先を、その紫紺の双眸で真っ直ぐに見据えていた。


恐怖? 焦燥?

そんな下品な感情は、彼女の美貌のどこを探しても存在しなかった。

あるのはただ――十年間待ち焦がれていた極上の馳走を前にした、絶対捕食者の底知れぬ歓喜。


眉間に切っ先が触れる、コンマ一秒前。

世界の因果の天秤が、カチリと重厚な音を立てて傾きかけたその刹那。


ヴァレリアは、月光の下で、氷のように冷たく、極上に艶然と微笑んだ。


「あら……。飛び切り極上の悪意が、届いたわね」


死の槍を前にして紡がれた、あまりにも優雅なその一言。

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