第19話:聖域の業火 〜虐げられし者たちの叛逆と、夜空を焦がす偽善の終焉〜
深夜の静寂を切り裂いていたのは、もはや遠雷などではなかった。
ガルディニア帝都ルテティアの中心、白亜の大聖堂を包囲する数千、数万の群衆の咆哮は、夜気が深まるにつれて密度を増し、地脈そのものを震わせる怒号の濁流となって石壁を打ち据えていた。
天を衝く大聖堂の周囲には、無数の松明の火が赤黒い帯となって揺らめいている。
昼間に帝都中の壁へ貼り出された告発状――井戸水への毒物混入、自作自演の奇跡、そして大階段転落事故における近衛騎士長ボリスの治療失敗(第17話)。それら動かぬ証拠の数々に火をつけられた民衆の怒りは、もはや軍靴や法衣の権威ごときで抑え込める領域をとうに超越していた。
大聖堂の正面大門は、樹齢数百年の巨木を鉄帯で補強した頑強なものだった。
内側からは何重もの鉄の閂が下ろされ、門前には瓦礫や砂袋が山積みにされている。外から暴徒たちがどれほど丸太を叩きつけようと、正面から突破するにはまだ数刻の時間を要するはずであった。
――しかし。
難攻不落を誇る聖域の檻は、外からではなく、その『内側』から音もなく腐り落ちようとしていた。
***
大聖堂の北側、生ゴミや汚水、古い燭台の燃え殻を運び出すために使われる、薄暗い地下通用口。
普段は神官たちから見向きもされないその狭隘な回廊の影に、十数名の影が息を潜めて集まっていた。
その先頭に立っていたのは、右の頬を血の滲む包帯で痛々しく覆った小柄な少女――エマであった。
昼間、新聖女マリアベルによって焼けた銀の燭台を押し当てられ、顔面を焼き爛れさせられた下級侍女(第18話)。包帯の隙間からは、今なお生々しい火傷の熱気と血の匂いが漂っていたが、その剥き出しになった左目には、昼間の怯えや涙は一片も残っていなかった。
宿っているのは、氷のように冷たく、昏く研ぎ澄まされた、絶対の復讐の光。
彼女の背後に控えていたのは、同じように薄汚れた灰色の貫頭衣やエプロンを纏った下級侍女たち、そして大聖堂の雑用を一手に押し付けられていた下級職員や見習い修道士たちであった。
彼らの顔にもまた、殴られた青あざ、鞭で打たれた傷痕、そして何年もの間、高級神官たちの理不尽な暴力と搾取に耐え続けてきた者特有の、深い怨嗟が刻み込まれていた。
「……本当に、やるのね、エマ」
隣に立つ年長の侍女が、震える声で囁いた。その手には、地下の倉庫から持ち出してきた錆びた鉄パイプが握られている。
「ええ」
エマは迷うことなく頷いた。その声には、十四歳の少女とは思えぬほどの鉄の冷徹さが宿っていた。
「あの女は……マリアベルは、私に火傷を負わせながら笑ったわ。自分が聖女で、私たちは踏み躙られて当然の虫けらだって。……あんな偽物のために、私たちの家族が毒を盛られ、飢えさせられ、神殿の豚どもに金を巻き上げられていたのよ。許せるはずがないわ」
エマの脳裏に、かつて地下牢で出会った本物の聖女――ヴァレリアの姿が鮮烈に蘇る。
骨を軋ませる苦痛に耐えながら、凍える孤児の指先を気遣ってくれた、あの気高き女性。
あの方を「魔女」と呼んで奈落へ突き落とし、あんな下劣な金髪の怪物を神輿に担いだ神殿。
その欺瞞のすべてを、灰燼に帰してやらねば気が済まなかった。
「もう二度と、あいつらの奴隷には戻らない。……門を開けましょう」
エマが合図を送ると、見習い修道士の青年が震える手で、通用口の巨大な鉄扉の鍵穴に油を差した。
本来であれば、この通用口には大聖堂の主結界から枝分かれした防護術式が組み込まれており、外部の者が触れれば雷撃が放たれる仕組みになっていた。
だが――。
――スッ……。
冷たい闇の奥から、一条の銀の閃光が走った。
音もなく天井の梁から舞い降りてきたのは、夜啼鳥の羽根色の外套を纏った、暗殺ギルド『影の旅団』の精鋭工作員たち。
キリアン直属の配下である彼らは、エマから事前に渡されていた合鍵と結界の識別符を受け取ると、手慣れた所作で術式の核石を短剣の切っ先で抉り取った。
チリ……と微かな火花が散り、通用口を守る魔導結界が完全に霧散する。
カチャリ、と重厚な鉄の閂が外される音が、暗がりに響いた。
「手はず通りだ」
暗殺者が冷笑を浮かべ、エマの肩をポンと叩いた。
「外の連中には、裏門が開いたと合図を送ってある。……あとは、お前たちの好きにするがいい」
ギギギ……と、錆びついた鉄扉が外側へと押し開かれた。
夜の冷気が、地下通路へと雪崩れ込んでくる。
扉の向こう――大聖堂の北側広場を埋め尽くしていた数千人の市民たちが、開かれた扉の影を認めた瞬間、息を呑み、そして次の瞬間には、地獄の底が抜けたかのような咆哮を爆発させた。
『開いたぞ! 裏門が開いたぁぁぁっ!!』
『なだれ込め! 偽聖女を出せぇぇぇっ!!』
ドォォォォォォッ!!
何千、何万という足音が、石畳を叩き割らんばかりの勢いで鳴り響いた。
松明を掲げ、棍棒や斧、鉄パイプを手にした怒れる民衆の濁流が、押し開かれた通用口から大聖堂の内部へと、一気に雪崩れ込んだのである。
***
「な、何事だ!? 何の音だ!?」
大聖堂の一階、大礼拝堂。
白亜の大理石の柱が立ち並び、純金のレリーフが施された神聖なる聖域の回廊に、階下から響く怒号と足音が木霊した。
緋色の祭服を着込んだ高級神官たちが、青ざめて執務室から飛び出してくる。
「正面の門は閉まっているはずだぞ! なぜ暴徒の声が近づいてくるのだ!?」
「ひ、北の通用口です! 下級の侍女どもが裏門を開け放ちました!」
「何だとぉぉぉっ!? あの卑しい平民どもめ、裏切りおったか!!」
神官たちの罵声は、瞬く間に押し寄せてきた現実の暴力にかき消された。
ドガァァァァンッ!!
大礼拝堂の豪奢な扉が叩き割られ、煙と火の粉と共に、数千人の市民たちが雪崩れ込んできた。
先頭を走るのは、疫病で子供を奪われかけた下町の父親たち、全財産を騙し取られた商人たち、そしてスラム街の飢えた男たち。
彼らの眼差しの前には、神への畏怖など欠片も存在しなかった。あるのはただ、十年間騙され、搾取され続けたことに対する、純粋にして圧倒的な復讐の意志。
「偽聖女を出せぇぇぇっ!!」
「俺たちの金を返せ! 子供の命を弄んだ悪魔どもめ!!」
「ひ、ひぃぃっ! 立ち去れ、ここは神聖なる大聖堂であるぞ! 神罰が下るぞ――ぎゃっ!?」
威張り散らそうとした高級司教の一人の顔面に、振り抜かれた鉄パイプが直撃した。
バキリと鼻骨が砕ける音が響き、司教は血飛沫を撒き散らして大理石の床へと転倒する。
それを合図に、聖域は瞬く間に略奪と破壊の戦場へと叩き落とされた。
群衆は、神殿が民衆から巻き上げた献金で築き上げた豪奢な祭壇へと群がった。
純金で鋳造された巨大な聖杯、ルビーやサファイアが散りばめられた燭台、初代教皇の彫像――それらの贅沢品が、鉄斧で叩き壊され、金箔が剥ぎ取られ、床へと無残に叩きつけられて粉微塵に粉砕されていく。
歴代教皇の肖像画は引き裂かれて松明の火をつけられ、絨毯の上を炎が這い回り始めた。
だが、真の破滅の火種は、大聖堂のさらに深奥――『聖遺物保管庫』において放たれようとしていた。
***
「急いで! 全部、ここに撒くのよ!」
エマの鋭い指示が、聖遺物保管庫の重厚な前室に響いた。
集まった下級侍女や職員たちが、大聖堂の地下油脂庫から運び出してきたのは、冬場の暖房と儀式用の巨大な黒油の樽――引火性の極めて高い精製鉱油が入った樽、数十個であった。
ドガッ、バキッ!
斧で樽の蓋が次々と叩き割られる。
粘り気のある黒い油が、ドバドバと音を立てて豪奢な保管庫の床一面にぶちまけられた。
羊皮紙の教典、歴代聖女の儀式服、木製の祈祷台――数百年分の神殿の歴史が、黒い油の海に浸されていく。
そこへ、逃げ惑う高級神官の一人――ベネディクトの側近である財務司教が、息を切らせて駆け込んできた。
足元の油の海と、松明を掲げるエマたちの姿を見た瞬間、男の顔は絶望に凍りついた。
「き、貴様ら……正気か!? 聖遺物庫に油を撒くだと!? そこには神殿の宝が、神聖なる遺物が収められているのだぞ! やめろ、やめるんだぁぁっ!」
財務司教が悲鳴を上げて駆け寄ろうとした。
だが、エマは振り返りすらしなかった。
少女は右頬の火傷の包帯にそっと手を触れ、かつてマリアベルから受けた激痛を思い起こしながら、手にした燃え盛る松明を、足元の油溜まり目掛けて静かに手放した。
「――燃えなさい。偽善の檻ごと、すべて」
ボッ――!!!!
一瞬の閃光。
油の海に触れた瞬間、紅蓮の火柱が爆発的な勢いで天井目掛けて噴き上がった。
炎は飢えた獣のように保管庫の壁を駆け上がり、乾いた木製の書架や絹の垂れ幕を瞬く間に呑み込んでいく。
猛烈な熱波が財務司教を吹き飛ばし、男は眉毛と髪を焦がしながら、悲鳴を上げて後方へと這いずり逃げた。
「ひ、火事だぁぁぁっ! 火を消せ! 大聖堂が燃えるぞぉぉぉっ!!」
だが、消火活動などできるはずもなかった。
火の手は保管庫から回廊へ、回廊から大礼拝堂へ、そして地下水路から漏れ出る可燃性の黒瘴気(第7話)を燃料にして、火薬に導火線を引いたかのような猛猛たる速度で大聖堂全体へと燃え広がっていったのだ。
ゴオオオオオオオオッ!!
白亜の大聖堂の美しいステンドグラスが、内側からの熱圧に耐えかねて次々と炸裂した。
色鮮やかなガラスの破片が夜空に降り注ぎ、割れた窓枠のすべてから、巨大な火炎の舌が噴き出す。
夜の帳に包まれていた帝都ルテティアの空が、真昼のように真っ赤に染め上げられていった。
***
火災の混乱の中、燃え盛る大聖堂の正面広場では、逃げ惑う高級神官たちに対する、民衆による容赦のない断罪劇が繰り広げられていた。
「助けてくれ! 私は最高司教の補佐官だぞ! 金ならやる、助けてくれぇっ!」
「誰が貴様らの汚らわしい金など受け取るか!!」
金糸の祭服を引き裂かれ、煤まみれになって広場へ這い出してきた神官たちが、待ち構えていた市民たちによって次々と地面へ組み伏せられた。
群衆は彼らを殴りつけ、足蹴にし、広場の片隅に溜まっていた――地下水路から噴き出したドブ色の泥水(第7話)を、手桶に汲んで神官たちの口の中へと無理やり流し込んだ。
「飲め! 貴様らが『安全だ』と嘘をついて俺たちに飲ませていた泥水だ!」
「ゲホッ、ゴホッ……! ぶはっ、や、やめ……泥が、汚水がぁぁっ!」
泥水を吐き出し、泡を吹いて悶絶する神官たち。
さらに市民たちは、大聖堂の門前に立つ巨大な街灯の支柱にロープをかけ、逃げ遅れた高級幹部たちを逆さ吊りにしていった。
かつて神の代理人として民衆を見下ろし、贅沢三昧を貪っていた豚どもが、今や泥まみれになり、夜空の下で無様に揺れるただの汚物へと変わり果てていた。
そこへ――けたたましい蹄の音と共に、騎馬の集団が広場の端へと駆け込んできた。
「退け! 道をあけろ! 皇太子の御前であるぞ!!」
現れたのは、第一皇太子ユースティスであった。
しかし、その姿はあまりにも無様で、威厳の欠片もなかった。
大階段の転落事故(第12話)で粉砕された鼻には、これでもかと分厚い白い包帯が幾重にも巻き付けられ、腫れ上がった両目の周囲には紫色の痣が浮き出ている。軍服の肩章は歪み、恐怖と怒りで引き攣った顔は、まるで道化師の仮面のようであった。
ユースティスは抜刀し、燃え盛る大聖堂を指差して絶叫した。
「神聖なる大聖堂に火を放つとは、言語道断の大逆罪だ! 近衛兵団、出撃せよ! あの愚民どもを一人残らず斬り捨てろ! 反逆者を皆殺しにして火を消し止めよ!!」
皇太子のヒステリックな命令が夜空に木霊した。
――だが。
シーン……と。
ユースティスの背後に控えていた数百名の近衛兵たちから、誰一人として前へ踏み出す者はいなかった。
「……何をしている!? 聞こえぬのか、斬り捨てろと言っているのだ!!」
ユースティスが振り返り、血走った目で兵士たちを怒鳴りつけた。
だが、馬上の近衛兵たちは、抜刀することすら拒否し、軽蔑と冷え切った眼差しを皇太子へと向けていた。
兵士たちの多くは、帝都の平民の家系や、スラム街に親族を持つ者たちであった。彼らの家族もまた、大聖堂が井戸に撒いた微毒に苦しみ、黒瘴気の疫病に脅かされていたのだ。
さらに、騎士団長ボリスの無残な末路を見せつけられた今、無能極まる皇太子と偽聖女のために命を捨てる義理など、誰一人として持ち合わせていなかった。
「……やってられん」
最前列にいた一人の騎兵隊長が、吐き捨てるように呟いた。
男は腰の長剣を地面へと投げ捨て、兜を脱ぎ捨てた。
「俺の妹も、神殿の毒水で寝込んでるんだ。……あんな偽物と人殺しのために、同胞を斬れるかよ」
「な……貴様、反逆罪だぞ! 軍法会議で死刑にしてやる!」
ユースティスが喚き散らす。
だが、隊長の行動に呼応するように、次々と兵士たちが武器を床へと投げ捨て始めた。
チャリン、ガシャンと、鋼鉄の剣や槍が石畳の上に転がっていく。
「逃げるぞ」「こんな国、もう終わりだ」「家族を連れて都を出るぞ」
「ま、待て! 持ち場に戻れ! 命令だ、皇太子である私の命令だぞぉぉぉっ!!」
ユースティスの悲痛な叫びを無視し、近衛兵たちは蜘蛛の子を散らすように馬首を巡らせ、夜の闇の中へと逃亡していった。
残されたのは、包帯まみれの顔で剣を振り回し、地団駄を踏む皇太子と、数名の取り巻きの側近たちだけであった。
群衆の冷酷な視線が、孤立したユースティスへと向けられる。
皇太子は震え上がり、情けない悲鳴を上げて馬を反転させ、宮殿の奥深くへと逃げ帰るしかなかった。
***
そして――真夜中を過ぎた頃。
大聖堂の炎上劇は、その最大の破滅のクライマックスを迎えた。
ギギギ……メキメキメキッ!!
千年の歴史を支えてきた大聖堂の主梁が、業火の熱量に耐えかねて真っ二つにへし折れた。
大聖堂の天頂――地上百メートルの夜空に燦然と輝いていた、純金で覆われた巨大な『神聖十字架』。
ガルディニア帝国の信仰の象徴であり、民衆を縛り付け、ヴァレリアを生贄として搾取し続けてきた偽善の塔の切っ先。
その巨大な黄金の十字架が、炎に包まれながら、ゆっくりと傾ぎ始めた。
――ドォォォォォォォォォンッ!!!!
天地を揺るがす轟音と共に、天頂の十字架が地上へと崩落した。
燃え盛る白亜の屋根を突き破り、礼拝堂の瓦礫へと叩きつけられ、粉々に砕け散って火の粉の嵐を夜空へと巻き上げる。
それは、ガルディニア帝国における神殿の権威が、完全にして不可逆の死を迎えた瞬間であった。
熱風が吹き荒れる広場の隅。
右頬に火傷の包帯を巻いた少女エマは、崩落する十字架を見つめながら、静かに佇んでいた。
その瞳に映る業火は、彼女の失われた尊厳を取り戻すための、祝福の光のようにも見えていた。
――ヴァレリア様。
少女は胸中で、地獄から戻った絶対の女帝へ向けて、熱い祈りを捧げた。
ヴァレリア自身は、指一本動かしていない。
ただ、敵の放った残虐性と悪意が、巡り巡って己の足元へ火を放っただけの、完璧なる因果の結末。
夜空を焦がす聖域の業火を、黒曜宮の特等席に座る女王は、美酒を傾けながら冷ややかに見つめているはずであった。




