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第18話:ヒステリーと偽聖女の爪痕 〜割れた鏡に映る醜態と、虐げられし侍女の復讐心〜

ガルディニア宮殿の奥深く、普段であれば薔薇の香油と豪奢な甘香が漂うはずの離宮の回廊に、絶え間なく不気味な地鳴りのような音が届いていた。

ゴオオオオ、と風に乗って響くのは、帝都大聖堂を取り囲んだ数万人の暴徒たちの怒号。

昼夜を問わず城壁を揺るがすその怨嗟の声は、どれほど重厚な防音結界を施した石壁であっても完全に遮断することは叶わず、床を伝い、窓枠を震わせ、宮殿内のすべての者の神経をヤスリで削るように苛み続けていた。


宮廷の空気は、完全に凍りついていた。

廊下を行き交う近衛兵たちの表情は青ざめ、互いに視線を合わせようともしない。

大階段の転落事故で鼻骨を粉砕された第一皇太子ユースティスは、激痛と顔面の醜い変形、そして民衆に無様な汚態を晒した恥辱から、寝室の奥深くに閉じこもって侍医たちを怒鳴り散らすばかり。

頼みの綱であったアルトハイム公爵ハインリヒも、神殿の裏帳簿が帝都中にばら撒かれたことで貴族院の緊急尋問に追われ、宮殿へ顔を出す余裕すら失っていた。


そして――何よりも宮殿内の者たちを恐れさせていたのは、離宮の最上階『白亜の乙女の間』から昼夜を問わず響き渡る、けたたましい破壊音と金切り声であった。


「嘘よ、嘘よ、嘘よ嘘よ嘘よぉぉぉぉぉっ!!」


ガシャァァァンッ!!


耳を劈く甲高い破裂音と共に、最高級のマイセン陶器の花瓶がオーク材の扉に激突し、粉々に砕け散った。

水と枯れ果てた薔薇の花弁、そして無数の鋭利な陶片が、絨毯の上に無残に撒き散らされる。


足の踏み場もないほど荒れ果てたその豪奢な私室の中央に、一人の女が立ち尽くしていた。

新聖女マリアベル・ローラン。

数日前まで、天上の光をその身に宿す奇跡の乙女と讃えられ、帝都の頂点に君臨していたはずの男爵令嬢。

だが、今の彼女の姿には、社交界を熱狂させた可憐な聖処女の面影など、どこを探しても見当たらなかった。


身に纏うのは、裾が引き裂かれ、泥と煤の染みが落ちきらない純白のシルクガウン。

自慢であった豊かな金色の巻き髪は、大聖堂前の爆破事故で半分がチリチリに縮れて異臭を放ち、寝乱れた藁屑のように乱雑に肩へと散らばっている。

そして――何よりも彼女を狂乱させていたのは、その顔面であった。


大階段の百段をゴロゴロと転落した際(第12話)、鋭利な大理石の角に打ち付けた左の頬には、ドス黒い青あざと無残な擦り傷が地図のように広がり、黄色い浸出液が固まって皮膚を引き攣らせていた。

さらに、神殿から持ち出させた高価な治癒軟膏を自らの顔面に過剰に塗りたくった結果、粗悪な霊薬の副作用によって肌全体が赤く腫れ上がり、痛々しい水泡が幾つも浮き出ている。


「あぎぃぃっ、痛い、痛いじゃないのよ……っ! なんで治らないのよ、この傷が! 私の顔が、私の綺麗な顔がああぁぁっ!」


マリアベルはドレッサーの前に置かれていた純銀の手鏡を掴むと、鏡面に映る自らの化け物じみた醜悪な貌を直視し、ヒステリックに絶叫した。

ドレッサーの台の上には、帝都中から宮殿宛てに押し寄せてきた無数の『抗議文』と『告発状』の複写が、雪崩のように山積みになっている。

井戸水に毒を撒いて自作自演の奇跡を演出していた証拠。

両膝を砕かれた近衛騎士長ボリスの治療に完全に失敗し、激痛で発狂させた公式カルテ。

帝都の十万の民衆がその目で確認し、怒りに燃え上がっている動かぬ真実の数々。


「全部、嘘よ! 誰が毒なんて撒いたっていうのよ!? 神殿のジジイ共が勝手にやったことに決まってるじゃない! 私は頼まれて光を出してあげただけよ! ボリスの足だって、あいつが勝手に階段から落ちたのが悪いんじゃないの! なんで私が責められなきゃいけないのよぉっ!」


バリンッ!!


手鏡が壁のステンドグラス目掛けて投げつけられ、甲高い音を立てて砕け散った。

床にはすでに、何十本もの香水瓶、象牙の櫛、宝石箱の中身がぶちまけられ、部屋全体に濃厚すぎる香水の匂いと、腐敗した傷口の生臭さが混ざり合い、息をするのも苦しいほどの悪臭が充満していた。


「あの女よ……ッ! ヴァレリア・フォン・アルトハイム!!」


マリアベルは血走った青い瞳を吊り上げ、爪をギリギリと噛み締めながら、部屋の虚空を睨みつけた。

親指の爪は噛み割かれ、血が滲んでドレスの袖口を汚している。


「あんな薄汚いドブネズミの分際で! 十年間地下牢に引きこもって、泥水を啜っていただけの役立たずのくせに! あの女の呪いよ! あの女が死に際にかけた呪詛のせいで、私の奇跡が邪魔されてるのよ! 死んでからも私を妬んで足を引っ張るなんて、どこまで意地汚い女なのよぉぉっ!!」


責任のすべてを、すでに死んだはずのヴァレリアへと擦り付ける。

己がどれほど無能であったか、どれほど多くの人々を欺き、どれほど残酷に平民たちを踏み躙ってきたかなど、この女の脳髄には一瞬たりとも浮かばない。

自分は神に選ばれた無垢な被害者であり、思い通りにならない世界こそが悪である――その異常な自己愛と幼稚な全能感こそが、マリアベルという俗物の本質であった。


コト、と。

その狂乱の部屋の扉が、外側から恐る恐る、数センチだけ押し開かれた。


「……マ、マリアベル様……?」


掠れた、怯えた少女の声が、部屋の入り口から震えながら響いた。


扉の隙間から滑り込んできたのは、一人の小柄な下級侍女であった。

名前を、エマという。

年齢は十四か五歳。宮殿の最下層から雇われた孤児の少女であり、薄汚れた灰色のエプロンドレスを身に纏い、痩せこけた両手で銀のトレイを必死に抱え持っていた。

トレイの上には、陶器の器に入った温かい野菜スープと、薄く切られた白パンが載せられている。


「ち、昼食のスープをお持ちいたしました……。今朝から何も召し上がっておられないと伺いまして……」


エマの全身は、生まれたての小鹿のように小刻みに震えていた。

彼女が震えているのは、部屋の荒れ果てた惨状のせいだけではない。ここ数日、マリアベルの私室へ食事や着替えを運ぶよう命じられた下級侍女たちが、次々と顔や腕に酷い痣や火傷を負わされ、泣き叫びながら医務室へ運ばれていく光景を、彼女は毎日のように目撃していたからだ。

誰もがこの部屋へ入ることを嫌がり、貧民出身で身寄りのないエマに、貧乏くじのように役目が押し付けられたのだ。


マリアベルはゆっくりと首を巡らせた。

乱れた金髪の隙間から覗く、腫れ上がった青あざの顔。血走った瞳が、トレイを抱えて震えるエマの姿を捉えた瞬間、その瞳にサディスティックで残忍な光が宿った。


「……遅いわよ」

低く、地を這うような声音。


「も、申し訳ございません……! 厨房の火の回りが悪く、スープを温めるのに時間がかかってしまい……」


「言い訳をするなと言っているのよ、この無能が!!」


マリアベルの怒声が炸裂した。

ビクリと肩を跳ね上がらせたエマは、恐怖に足をもつれさせ、一歩前へ進み出ようとした。


だが――床には、先ほどマリアベルが投げつけて破壊した、尖った陶器やガラスの破片がびっしりと散乱していた。


ジャリッ、と破片を踏んだエマの薄い靴底が滑った。


「あっ――!?」


バランスを崩したエマの身体が、前方の絨毯へと大きく傾く。

エマは必死になってトレイを水平に保とうとした。スープをこぼせば何をされるか分からないという本能的な恐怖が、少女の細い腕を硬直させた。

だが、器の波打ったスープの表面から、ほんの数滴――熱い黄金色のブイヨンが跳ね飛び、豪奢な絨毯の縁、そしてマリアベルの純白のガウンの裾へと、ポタリと落ちた。


わずか一滴。

親指の先ほどの、小さな油の染み。


だが、その瞬間――マリアベルの脳内で、理性の最後の一線が完全にブチ切れた。


「……あ」


エマが息を呑み、青ざめた顔を上げた。


「……私の、ドレス」

マリアベルの声は、震えていた。怒りで喉が引き攣り、全身の血管が浮き上がる。

「カイザーライヒの最高級シルクで仕立てさせた……私の、特注のガウンに……泥水をこぼしたわね?」


「ち、違いますマリアベル様! わざとでは、わざとではございません! すぐに拭き取ります、どうかお許しを――!」


「黙りなさいッ!!」


ドカァッ!!


マリアベルの履いていたサテンのミュールが、土下座しようとしたエマの胸元を容赦なく蹴り上げた。

ドンと鈍い衝撃が響き、エマの身体が後ろの壁へと吹き飛ぶ。

手から離れた銀のトレイが激しい金属音を立てて床を転がり、熱々のスープがエマの腕や足元へと派手にぶちまけられた。


「熱っ……! 痛い……っ!」

火傷の痛みに涙を浮かべるエマ。


だが、マリアベルの狂乱は止まらなかった。

女は鬼のような形相で大股に歩み寄ると、床に倒れ伏すエマの細い胸ぐらではなく――その頭髪を、鷲掴みにした。


ブチブチッ、と音を立てて髪が引きちぎれる激痛に、エマの喉から悲鳴が上がる。


「ぎゃあああっ!? 痛い、痛いです、マリアベル様ぁっ!」


「痛い!? 痛いのは私のほうよ!!」

マリアベルはエマの髪を力任せに引っ張り上げ、その顔を至近距離で睨みつけた。

唾を撒き散らしながら、腫れ上がった醜い顔を歪めて喚き散らす。


「私を誰だと思っているのよ!? 神に選ばれし光の聖女よ! 帝国の皇后になる女よ! あんたみたいなスラム出身の薄汚いドブネズミが、私の服を汚してただで済むと思っているの!? あんたもあいつの手先ね!? あのヴァレリアとかいう魔女の残党に金を貰って、私を毒殺しようとしたんでしょう!?」


「ち、違います……! 私、そんなこと……何も知りません……っ!」

エマは必死に首を振って涙を流す。

だが、被害妄想に狂い切ったマリアベルの耳には、いかなる弁明も届かなかった。


「嘘をおっしゃい! その汚らわしい目で私を見てるじゃない! 『聖女のくせに顔に傷があって醜い』って、心の中で笑っていたんでしょう!? 許さない……絶対に許さないわ!」


マリアベルの視線が、壁の燭台へと向いた。

部屋を照らすために灯されていた、純銀製の三つ又の燭台。

何時間も燃え盛る蝋燭の炎によって、銀の金属部分は触れれば肉が張り付くほどの高熱を帯び、赤黒く鈍い光を放っていた。


マリアベルは左手でエマの髪を床に縫い留めたまま、右手でその焼けた銀の燭台の柄を、狂気の笑みを浮かべて引き抜いた。


「ひ……っ!?」

エマの瞳が、恐怖に極限まで見開かれた。

熱波が、少女の顔面をジリジリと炙る。


「私の顔に傷がついたんだから……あんたのその生意気な顔にも、同じ傷をつけてあげるわ!」

マリアベルの甲高い哄笑が響く。

「聖女の慈悲よ! あんたのその醜い平民の顔に、一生消えない聖女の焼印を刻んであげる!!」


「嫌……嫌ぁぁぁっ! 助けて、誰か助けてぇぇぇっ!!」


エマは必死に両手で顔を庇おうとした。

だが、マリアベルは容赦なく、焼けた銀の燭台の底面を、エマの右の頬目掛けて力任せに押し当てた。


ジュウウウウウウッッ!!!!


肉が焦げる、生々しくおぞましい音が部屋に響き渡った。

白煙が立ち上り、皮膚が瞬時に炭化して収縮する凄まじい激痛。


「ぎゃあああああああああああああああああっっっ!!!!」


エマの喉から、人間の発するものとは思えない絶叫が迸った。

痛い、熱い、皮膚が溶ける、骨まで焼ける――激痛のあまり視界が真っ赤に染まり、少女の手足が激しく痙攣する。

マリアベルは恍惚とした瞳でその断末魔を見下ろし、さらに体重をかけて燭台を皮膚へと押し付けた。


「あははははっ! いい気味よ! 泣きなさい、喚きなさい! これが私に逆らったゴミ屑の末路よぉっ!!」


数秒間の地獄。

マリアベルが満足して燭台を引き離した時、エマの右頬には、銀の円形の底面そのままの形をした、赤黒く爛れた醜悪な火傷の痕が深く焼き付けられていた。

皮膚は剥がれ落ち、血と黄色い浸出液が混ざり合って顎を伝い、床を汚す。


激痛と酸欠で白目を剥きかけたエマの脳裏に――ふと、遠い記憶が過った。


***


――それは、ほんの数ヶ月前のこと。


大聖堂の地下最深部、『封呪の石牢』。

光の届かない冷たい暗闇の底へ、重い食事のトレイを運ばされていた日々の記憶。


当時、下級侍女たちの間で「魔女の地下牢への配膳」は、誰もが死ぬほど嫌がる最も過酷な罰ゲームであった。

漂う悪臭、漏れ出る黒瘴気の毒気。

身寄りのないエマは、先輩の侍女たちから脅され、泣きながら一人で地下の階段を降りていた。


そこにいたのは、全身を太い鉄の鎖で縛り付けられ、骨と皮ばかりに痩せ衰えた一人の少女――ヴァレリア・フォン・アルトハイム。


帝国全土の呪詛と瘴気を一身に引き受け、骨を万力で砕かれるような激痛に、二十四時間耐え続けていた人柱。

最初、エマは恐怖で震え、トレイを持つ手を取り落としそうになっていた。

だが――。


『……怯えなくて、よろしくてよ』


暗闇の奥から響いたのは、掠れてはいたが、驚くほど澄み渡った優しい声だった。


ヴァレリアは、全身の血管を黒く脈打たせ、血を吐くような苦痛のただ中にありながらも、運ばれてきた粗末なパンと冷めたスープを、決して粗略に扱わなかった。

八つ当たりなど、一度たりともしなかった。

使用人を蹴り飛ばすことも、罵倒の言葉を投げつけることもなかった。


震えるエマがトレイを置くと、ヴァレリアはひび割れた唇に微かな笑みを浮かべ、静かに言葉をかけてくれたのだ。


『冷たい地下まで、運んでくださってありがとう。……外は、もう寒くなってきたかしら?』


『は、はい……昨夜から、冷たい木枯らしが……』


『そう。……貴女の手、冷え切っているわね。冷たい風が吹いているから、暖かくしてお休みなさい。風邪を引いては、つまらないでしょう?』


理不尽の極みのような地獄の底で、骨を軋ませながら。

誰からも顧みられず、泥水を啜りながら国を支え続けていた本物の聖女は――下級侍女の一介の孤児の冷えた指先を、気遣ってくれたのだ。

その紫紺の瞳に宿っていたのは、気高き誇りと、一片の澱みもない真実の慈愛であった。


***


「……それに、引き換え」


エマの口から、血の泡混じりの掠れた呟きが漏れた。


目の前に立つ、豪華なドレスを着て、自らの顔を焼いて哄笑するこの女は何だ。

愛嬌を振りまき、光の聖女と称えられ、豪奢な部屋で贅沢三昧を貪りながら――自分の思い通りにならないというだけで、無力な子供の顔を焼き爛れさせる、この醜悪極まる怪物は一体何なのだ。


「出て行きなさいッ!」


ドカッ!と、マリアベルの足がエマの脇腹を蹴りつけた。


「二度とその汚い顔を私の前に見せるんじゃないわよ! 衛兵! 衛兵を呼びなさい! このゴミを廊下に放り出しなさい!!」


扉が荒々しく開け放たれ、駆け込んできた屈強な近衛兵たちの手によって、エマの身体は襟首を掴まれ、冷たい大理石の廊下へと無造作に放り出された。


バタンッ!!


重厚な扉が固く閉ざされ、内側から激しい鍵の掛かる音が響く。

後には、ただ静まり返った薄暗い廊下と、床に広がる鮮血の染みだけが残された。


「…………っ」


エマは、冷たい石畳の上に倒れ伏していた。

右頬は焼け爛れ、肉が焦げた激痛が頭蓋骨を殴りつけるように脈打っている。

だが――。


ポタリ、と石畳に落ちた涙を最後に。

エマの瞳から、涙が完全に枯れ果てた。


少女は震える手で、焼け爛れた自らの右頬に触れた。

指先に付着する、焼け焦げた皮膚と生温かい血の感触。

その痛みの中で、彼女の胸の奥底に巣食っていた恐怖と絶望は、一瞬にして――ドス黒く、冷徹な「殺意」へと反転した。


(……許さない)


エマはゆっくりと、折れそうな腕で上体を起こした。

その瞳に宿っていたのは、もはや怯える無力な孤児の光ではなかった。

神殿の欺瞞に気付き、自らの顔を焼かれた少女の瞳に宿ったのは、かつて地下牢で見たあの黒髪の女帝の如き、氷の復讐の光。


(許さない……絶対に許さない! あんな偽物……あんな醜い化け物、絶対に生かしておかない……!!)


エマの脳裏に、帝都中の壁に貼り出されていた告発状の文字が蘇る。

大聖堂を取り囲む数万人の怒れる民衆の地鳴り。

そして――大聖堂の通用口の鍵。

下級侍女たちだけが知っている、夜間にゴミを運び出すための、結界の死角にある裏門の通用口。


「ヴァレリア様……」


エマは血塗れの唇を噛み締め、立ち上がった。

壁に手をつき、足を引きずりながら、少女は薄暗い宮殿の裏階段へと向かって歩み出す。


偽聖女マリアベルが自らの手で刻みつけたその火傷の痕こそが――やがて大聖堂を灰燼に帰す、破滅の猛火の導火線となることを、宮殿の愚者たちはまだ誰も知る由もなかった。

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