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第17話:暴かれた『奇跡』のからくり 〜夜風に舞う告発状と、暴動の足音〜

夜明け前のガルディニア帝都ルテティアは、死者が眠る墓地のように重苦しく静まり返っていた。

ここ数日、街の至る所から噴き出し続けている有毒な『黒瘴気』は、朝霧と混ざり合って粘り気のある紫灰色の帳となり、石畳の大通りを低く這い回っている。

大聖堂前広場での大爆発、そして大階段からの皇太子や聖女の無残な転落劇――立て続けに起きた不吉な大事故により、市民たちの間には拭い去れぬ恐怖と、息を潜めて嵐の通過を待つような陰鬱な空気が漂っていた。


だが、その死せる静寂のただ中で、闇に溶け込む無数の影が、音もなく街中を駆け巡っていた。


サッ、サッ、と。

風が小枝を揺らすかすかな摩擦音すら立てず、黒装束を纏った者たちが屋根から屋根へと跳躍する。

裏社会の頂点に君臨する暗殺ギルド『影の旅団』。

その頭領である銀髪の少年キリアンが、ヴァレリアから下された命令を果たすべく解き放った、数百名に及ぶ工作員たちであった。


彼らの手にあるのは、刃ではない。

特殊な粘着油を塗りたくられた、膨大な枚数の羊皮紙の束。

帝都ルテティアの中央大通り、貴族街を囲む白亜の防壁、商業地区のアーケード、職人街の掲示板、貧民街の広場、そして各省庁や各大貴族邸の豪奢な門扉に至るまで――工作員たちは驚異的な手際で、街のあらゆる垂直な平面へ、紙の束を貼り付けていく。


「急げ。日の出までに帝都の全区画、一枚の隙間もなく埋め尽くせ」

屋根の天頂で外套をひるがえし、キリアンが死人のように冷たい碧眼を光らせて低く囁く。

「ヴァレリア様が下さった極上の脚本だ。……あの豚どもに、朝一番の目覚ましを届けてやるんだよ」


夜明けを告げる鐘が鳴る頃には、帝都中に貼り出された紙の数は、優に十万枚を超えていた。

それは、夜の闇に紛れて蒔かれた、国家の喉笛を断ち割るための絶対の毒草であった。


***


東の空が白み始め、朝靄を切り裂いて朝日が差し込んだ時、ルテティアの街はかつてない異様な光景に目を疑うこととなった。


「な……なんだ、これは!?」


最初に声を上げたのは、朝一番のパンを仕入れようと通りへ出た職人街の男だった。

通りの壁一面、建物の柱という柱、果ては街灯の支柱にまで、びっしりと白い紙が貼り巡らされていたのだ。

一枚や二枚ではない。通りを埋め尽くすように、同じ文章が記された紙が壁一面を覆い尽くしている。


近隣の住民たちが、怪訝な顔をして次々と家から顔を出し、張り紙の前へと集まり始めた。

貴族街でも同様だった。屋敷の門扉を開けた執事や門番たちが、扉に直接糊付けされた書類の束を見て青ざめ、主人の寝室へと駆け込んでいく。


そこに大書されていたのは、帝都中の誰もが見知った紋章――大聖堂最高司教会の正式な刻印。

そして、その筆頭司教であったマティアスの直筆署名と血判が押された、衝撃的な見出しであった。


『大聖堂の欺瞞と、偽聖女マリアベル・ローランによる自作自演の全貌――真なる神の御名においてこれを告発す』


「な、なんだって……!?」

「マティアス様といえば、大聖堂の筆頭司教様じゃないか! その御方が、神殿を告発したのか!?」


人々の間に、ざわざわと波紋が広がる。

集まった群衆の一人が、震える指先で張り紙の本文を読み上げ始めた。

そこに記されていたのは、あまりにも醜悪で、あまりにも悪魔的な、神殿の「奇跡」の種明かしであった。


『――告発第一条。新聖女マリアベル・ローラン男爵令嬢がこれまで民衆の前で披露してきた「不治の病を癒やす奇跡の光」は、すべて大聖堂調剤部と結託して仕組まれた、完全なる自作自演の詐術である』


群衆が息を呑んだ。


『マリアベル嬢の魔力は、初歩的な治癒魔法と光の幻術に過ぎず、疫病や重篤な病を治癒する力は一切存在しない。神殿上層部は彼女を「奇跡の聖女」として祭り上げるため、帝都各区の共同井戸、並びにスラム街の給水塔へ、遅効性の霊的微毒草【紫斑茸(しはんだけ)】の抽出液を密かに混入させていた』


「毒……!? 井戸に毒を撒いていたのか!?」

パン屋の主人が叫び、周囲の主婦たちが悲鳴を上げて口元を押さえた。


『この微毒を摂取した者は、三日から五日の後に、激しい悪寒、高熱、全身の関節痛、および皮膚の紫斑といった症状を発症する。命に別状はないが、常人には原因不明の難病に見えるよう精密に調合された毒である。神殿は、この毒に苦しむ市民の元へマリアベル嬢を派遣し、初歩的な解毒魔法を注ぎ込ませることで、あたかも「祈りによって神の奇跡が起きた」かのように見せかけていた』


文章の横には、信じがたいほど詳細な裏付け資料の複写が並んでいた。

大聖堂調剤部が毒草を仕入れた日付と購入金額。毒物を井戸へ投入した実行犯たる下級神官たちの実名リスト。

そして――何よりも決定的な証拠として、マリアベル自身の流麗な署名が入った『宣伝計画合意書』の原本の写しが、鮮明に印刷されていたのだ。


『我が光の威光を高めるため、各区における発症者数を月間五十名規模に維持することを承認する――マリアベル・ローラン』


「あ……あぁ……っ!」

群衆の中にいた中年の母親が、その場にへたり込んで泣き崩れた。

「先月、うちのあの子が高熱を出して……神殿に銀貨五枚の献金を納めて、聖女様に頭を撫でてもらって、ようやく治ったのよ……! あの子が苦しんでいたのは、神殿が井戸に撒いた毒のせいだったっていうの!? あいつら、自分たちで毒を盛っておいて、治療費を巻き上げていたの!?」


「俺の親父もそうだ! 全財産を寄進して免罪符を買わされたんだぞ!」

「ふざけるな! 俺たちをモルモットにして、金儲けの道具にしていたのか!!」


怒りの炎が、人々の胸の中で爆発的に燃え広がっていく。

だが、告発状に記された暴露は、それだけに留まらなかった。

二枚目の張り紙には、さらに直近の、帝都中の誰もが目撃したあの事件の「裏の真実」が暴露されていたのだ。


『――告発第二条。近衛騎士長ボリスの負傷に対する治療の完全なる失敗、および事実の隠蔽について』


「ボリス様……! あの大階段から転落した騎士長か!」

「そうだ、あのパレードの時の……!」


市民たちが身を乗り出し、食い入るように文字を追う。


『過日、大聖堂の大階段より転落し、両膝を複雑骨折した近衛騎士長ボリス閣下に対し、皇室および神殿は「聖女マリアベルの光によって完治間近」と虚偽の発表を行っているが、現実は正反対である。マリアベル嬢は宮殿の地下病棟において、数十回にわたり光魔法を注ぎ込んだが、骨のかけら一つ接合できず、病変部は腐敗を始めている』


そこに添付されていたのは、皇室専属軍医が記録した公式カルテの複写であった。

そこには、マリアベルが放った無秩序な熱光線が、ボリスの傷口をかえって焼き爛れさせ、激痛に狂乱したボリスがベッドの上で失禁し、暴れ回って自らの髪をむしり取っているという、生々しすぎる医療記録が克明に記されていた。


『ボリス閣下は現在、「膝が万力で砕かれている」「あの魔女の呪いだ、助けてくれ」と譫言を叫び続け、精神錯乱に陥っている。マリアベル嬢の魔法は、神聖な奇跡などではなく、ただの目眩ましの光に過ぎず、現実の重傷の前には何一つ効果を発揮し得ないことが、完全に実証された』


静寂。

そして、冷たい戦慄が、張り紙を取り囲む群衆を貫いた。


嘘ではなかった。

先日の大聖堂前広場での爆発事故(第8話)――聖女が祈りを捧げた瞬間に火薬庫のように吹き飛んだ祭壇。

そして、大階段での無様な転落劇(第12話)――泥水を啜り、白目を剥いて倒れた聖女と皇太子。

民衆が心の中で抱いていた「何かがおかしい」「本当にあれが聖女なのか」という燻るような疑念のすべてが、この告発状と公式記録によって、一本の線として繋がったのだ。


「奇跡なんて……最初からなかったんだ」

誰かが、震える声で呟いた。


「毒を撒いて治ったフリをしていただけだ。大男の足の骨一つ治せない小娘が、都を満たすあの黒い瘴気を祓えるわけがなかったんだ!」

「だから爆発したんだ! あいつの光は、ただの火種だったんだ!」


不信は確信へ。

そして、確信は凄まじい怒濤の怨嗟へと変貌を遂げた。


「騙されていたんだ……俺たちは、あんな偽物に!」

「本物の聖女様は……ヴァレリア様だったんじゃないか!」


群衆の奥から上がったその叫びが、広場全体を震わせた。


「そうだ! ヴァレリア様が地下牢にいらっしゃった十年間、井戸に毒が混ざったことなんて一度もなかった!」

「大聖堂が爆発したことも、噴水から泥水が出たこともなかったぞ!」

「あの方を『魔女』だと嘘をついて深淵へ突き落とし、自分たちの利権のためにあの偽聖女を祭り上げたんだ!」

「人殺し! 詐欺師どもめ!!」


怒号は連鎖し、雷鳴のような地響きとなって帝都の街々を揺るがし始めた。

職人街から、商業地区から、そして疫病で家族を奪われかけたスラム街から、棍棒や農具、松明を手にした市民たちが、濁流のように大通りへと雪崩れ込んでくる。

その数は、千人、五千人、一万人――。


「大聖堂へ行け!」

「金と健康を返せ!」

「偽聖女と神官どもを引きずり出せ!!」


民衆の巨大な波が、ただ一つの目的地――白亜の大聖堂目掛けて、猛烈な勢いで押し寄せ始めた。


***


一方、その頃。

大聖堂の内部、最高司教執務室。


最高司教ベネディクトは、首元に巻かれた分厚い包帯を手で押さえながら、脂汗を滝のように流して執務机の前に立ち尽くしていた。

第9話でマティアスに首を絞め上げられ、金庫を爆破された際の傷がまだ激しく痛む。

だが、肉体の痛みなど吹き飛ぶほどの凶報が、青ざめた下級神官によって次々と執務室へもたらされていた。


「き、猊下! 大変でございます!」

扉を蹴破るようにして飛び込んできた神官が、床に膝から滑り込んだ。

「帝都中の壁に、マティアス元司教の告発文が貼り出されました! 裏帳簿の写しから、毒草の仕入れ記録、マリアベル様の契約書に至るまで、すべて公衆の面前に晒されております!」


「な……な、何だとぉぉぉっ!?」

ベネディクトの贅肉に埋もれた顎が、ガタガタと激しく震えた。

「あ、あの裏切り者めが……! 金庫から盗み出した書類を、民衆にばら撒きおったのか!? 衛兵は何をしておる! 今すぐ回収しろ! 一枚残らず剥ぎ取って燃やしてしまえ!」


「む、無理です! 数が多すぎます!」

別の神官が血相を変えて叫ぶ。

「十万枚以上が帝都中に貼り巡らされており、すでに大半の市民が内容を読んでしまっています! しかも……カイザーライヒの御用商人や、諸外国の銀行家たちもこの文書を手に入れ、神殿の金融破綻を嗅ぎつけて大聖堂へ向かっているとの情報が……!」


「ひ、ひぃぃぃっ……!?」


ベネディクトの視界が、真っ暗に明滅した。

宗教債の破綻。自作自演の毒殺未遂。

数百年かけて築き上げてきた神殿の権威が、たった一夜にして、塵芥のように瓦解しようとしていた。


その時だった。


――ズズズズズズ……ッ!


地響きが、大聖堂の分厚い石壁を揺らした。

地震ではない。何万本もの足が石畳を踏み鳴らし、何万もの人間の喉から絞り出される、怒気を含んだ地鳴りのような咆哮。


『偽聖女を出せぇぇぇっ!!』

『俺たちの金を返せ! 人殺しどもめ!!』

『門を開けろ! 神殿を焼き払え!!』


執務室のステンドグラスが、ビリビリと激しく振動する。

窓から外を見下ろした神官の一人が、恐怖のあまり悲鳴を上げてその場にへたり込んだ。


「あ……あああ……っ! ぐ、群衆が……広場を埋め尽くすほどの市民が、大聖堂を取り囲んでいます……ッ!」


ドォォォォンッ!!

ドガァァァァンッ!!


大聖堂の正面、樹齢数百年の大木を組んで作られた重厚な大門扉が、激しい音を立てて内側へと軋んだ。

数千人の暴徒たちが、角材や鉄パイプを打ち付け、門を叩き割ろうとしているのだ。

門扉の閂がメリメリと音を立て、蝶番の鉄が悲鳴を上げる。


「ひっ、閉めろ! 閂を二重にかけろ!」

ベネディクトは贅肉を揺らしながら、狂乱して叫び散らした。

「神殿騎士団は何をしておる! 愚民どもを追い払え! 弓を射かけろ、皆殺しにしろぉぉっ!」


「だ、駄目です猊下! 騎士たちの多くも家族が帝都に住んでおり、命令を拒否して逃亡し始めています! 防衛線が保ちません!」


ドォォォォンッ!!

外から響く怒号と、扉を打ち破る激しい衝撃。

逃げ場を失った白亜の大聖堂の中で、高級神官たちは抱き合い、ただ青ざめて震えることしかできなかった。


かつて無実の聖女を地下牢へ閉じ込め、泥水を啜らせていた偽善の聖域。

その鉄壁の檻が今、民衆自身の復讐の手によって、粉々に打ち砕かれようとしていた。

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