第16話:金貨による絞首刑 〜血を流さぬ経済の断頭台と、心酔せし女軍師〜
黄昏の狂騒が静まり返り、夜の帳が黒曜宮をすっぽりと包み込んだ頃、舞台は二階のテラスから地下の『作戦会議室』へと移されていた。
外光を完全に遮断したその部屋は、かつて軍事大国カイザーライヒの参謀本部が極秘作戦の立案のためだけに使用していた要塞区画である。
壁面は三層もの防音・対魔力障壁で覆われ、中央には大人が十人以上取り囲める長大な黒鉄の作戦机。机上には、先刻マティアスが命がけで大聖堂の金庫から奪い取ってきた『神殿最高機密の裏帳簿』の原本が、数十冊にわたって整然と並べられていた。
部屋に満ちていたのは、硝煙の匂いではなく、インクと古い羊皮紙、そして冷徹な計算が放つ張り詰めた静寂であった。
卓の奥、上座に優雅に腰掛けているのはヴァレリア。
長椅子に深く身を沈め、肘掛けに頬杖をつきながら、開かれた帳簿の数字を紫紺の双眸で淡々と追っている。その横には筆頭侍女長グレーテが無言で控え、銀のポットから注がれたばかりの澄んだハーブティーの湯気が、静かに立ち上っていた。
そして、ヴァレリアの正面には皇帝コンラート。
さらにその隣には、先刻合流したばかりのカイザーライヒ筆頭軍師兼筆頭宰相――ヒルデガルト・フォン・ベルリッヒが立っていた。
ヒルデガルトは、トレードマークである細身の金縁眼鏡を指先で押し上げながら、黒鉄の机上に自らが認めた軍事侵攻計画書をバサリと広げた。
白銀に近い薄氷色の髪を揺らし、その怜悧な美貌には、寸分の狂いもない軍事学の解答を導き出した参謀特有の自信が満ちていた。
「――ヴァレリア閣下、並びに陛下。結論から申し上げます」
ヒルデガルトの澄んだ、硬質な声が作戦室に響く。
「マティアス殿が持ち帰った大聖堂の内部構造図、および警備配置の機密文書を精査いたしました。ガルディニア大聖堂は、先日の爆破事故と大階段での転落事故によって、近衛兵団および神殿騎士団の指揮系統が完全に麻痺状態にあります。騎士長ボリスは両膝の粉砕によって人事不省、皇太子ユースティスは顔面骨折の治療にかまけて軍令を下すことすら叶わない。まさに、完全なる防衛力の空白です」
ヒルデガルトは細身の指揮棒を手に取ると、地図上のガルディニア大聖堂のシンボルをカツンと叩いた。
「我がカイザーライヒが誇る特殊強襲魔導部隊『黒梟』二個大隊を、竜骨山脈の抜け道から夜陰に乗じて潜入させます。大聖堂の地下遺構を制圧し、残る神殿幹部を全員拘束。神殿領に眠る資産と聖遺物を物理的に接収し、傀儡の臨時司教を据える。作戦所要時間はわずか三時間。我が軍の損害は軽微、即座にガルディニア帝国の精神的中枢を我が帝国の軍靴で踏み躙ることが可能です」
完璧な電撃戦のプラン。
無防備な急所へ最短距離で刃を突き刺し、敵の心臓を抉り出す――軍事国家カイザーライヒの筆頭軍師として、非の打ち所がない電撃作戦であった。
コンラートも腕を組み、琥珀色の瞳を細めて小さく頷く。
「悪くない手際だ、ヒルデガルト。神殿さえ物理的に制圧してしまえば、ガルディニアの皇室など手足をもがれた芋虫も同然だからな」
二人の軍事的天才が導き出した最善手。
だが――。
「……ふふ」
作戦机の奥から、低く、冷涼な嘲笑が漏れ落ちた。
ヴァレリアは頬杖をついたまま、視線すら上げずに羽ペンをくるりと指先で回した。
そして、白磁の指先で、ヒルデガルトが誇らしげに広げた軍事計画書の端を、まるで汚らわしい塵芥でも払うかのように、ツンと弾いたのである。
「やり直しね、軍師殿。……初等教育の兵棋演習から学び直してこられてはいかがかしら?」
「……なっ!?」
ヒルデガルトの眉が激しく跳ね上がり、眼鏡の奥の切れ長の瞳が冷たく見開かれた。
大陸全土でその知略を恐れられる自分が、初等教育レベルと切り捨てられたのだ。プライドを鋭利に逆撫でされ、女軍師の唇が引き攣る。
「……閣下。我が策のどこに不備がおありだと言うのですか? 電撃戦による大聖堂の物理的占領は、敵の戦力を最小の損害で無力化する定石。これ以上の迅速な制圧策など、軍事学の教本をいくら紐解いても存在しないはずですが」
「ええ、軍事学の教本には載っていないでしょうね。……なぜなら、貴女のその思考回路は、『剣を握ることしか能のない軍人』の枠組みから一歩も抜け出せていないのですから」
ヴァレリアはゆっくりと身体を起こした。
その紫紺の双眸から放たれる圧倒的な知性の光が、ヒルデガルトの鋭い視線を正面から押し包み、圧殺する。
「よくお考えなさい、ヒルデガルト。剣を抜いて大聖堂へ押し入れば、いかに迅速であろうと『軍隊による神聖領域の侵犯』という外交的事実が残ります。神殿を信奉する無知な市民どもは、自らの信仰を侵された被害者として団結し、カイザーライヒに対するゲリラ戦の火種となるでしょう。何より――奪い取った資産を管理し、荒廃した神殿領を維持するために、貴国は莫大な維持軍費と統治コストを払い続ける羽目になるのよ?」
ヴァレリアは羽ペンの先を滑らせ、机上に積まれた黒革の裏帳簿の一冊――『第七巻・対外為替および信託担保目録』のページをピラリと開いてみせた。
「剣を使うなど、愚者のすることですわ。……なぜ、自分から血を流しに行く必要がありますの? 相手の首に最初から巻き付いている縄を、こちらが指一本でキュッと締め上げてやれば、それだけで自重で勝手に首を吊って死んでいくというのに」
「首に巻き付いている……縄?」
ヒルデガルトが息を呑み、ヴァレリアが指し示した帳簿のページへと視線を落とした。
そこに記されていたのは、おびただしい数の数字の羅列。
ガルディニア大聖堂が、過去数十年にわたり諸外国と結んできた『契約』の記録であった。
ヴァレリアは冷徹な声音で、その恐るべき欺瞞の構造を解剖し始めた。
「ガルディニア大聖堂という組織の生命線は、信仰などという曖昧なものではありませんわ。彼らを支えている真の背骨は――諸外国の豪商や銀行家たちから借り入れた、天文学的な額の『宗教債』です」
「宗教債……」コンラートが低く呟く。
「ええ。ガルディニア神殿は、『我が聖女の奇跡の光によって、あらゆる難病を平癒させる』という触れ込みを担保にして、国内外の富裕層から莫大な投資金を募り、債券を発行してきました。債券の金利は年五分、満期時には神殿特製の不老霊薬と免罪符を配当として支払うという約束でね。その額――実に金貨八千万枚」
「は、八千万枚……!?」
ヒルデガルトの唇が震えた。
カイザーライヒ帝国の一年分の国家予算に匹敵する、途方もない天文学的数字。
「そうです」
部屋の隅に控えていたマティアスが、背徳的な笑みを浮かべて補足した。
「神殿はその天文学的な資金を元手に、豪奢な大聖堂を改築し、貴族院へ賄賂をばら撒き、私腹を肥やし続けてきました。彼らの金庫は常に自転車操業……新しく集めた債権の金で、過去の債権の利払いを自転車のように漕ぎ続けることで、辛うじて破綻を免れていたのです」
「……ですが」
ヴァレリアは扇子をパチンと閉じ、極上の毒を含んだ笑みを浮かべた。
「その自転車操業の唯一の担保であった『聖女の奇跡』は、先日の大階段の転落事故、そして大聖堂前の爆破事故によって、完全にメッキが剥がれ落ちました。新聖女マリアベルには、怪我人を癒やす力など欠片もないという事実を、都中の市民と商人が目撃してしまったのですわ」
ヴァレリアは羽ペンの切っ先で、帳簿に記された債権者のリストをトントンと叩いた。
「担保割れ(デフォルト)ですわ、ヒルデガルト。……信用を失った銀行がどうなるか、経済の初歩を知る貴女ならお分かりでしょう?」
「あ……」
ヒルデガルトの眼鏡の奥の瞳が、驚愕に見開かれた。
女軍師の怜悧な脳細胞が、ヴァレリアの提示した盤面の全貌を一瞬で演算し、導き出された結末に背筋を凍りつかせたのだ。
「取り付け騒ぎ……! 武力による制圧などではなく、金融の信用収縮による完全なる即死……!」
「ええ、その通りよ」
ヴァレリアは艶やかに唇を吊り上げ、具体的な処刑の手順を宣告した。
「コンラート。貴方がなすべきことは、軍を進発させることではありません。――今夜未明、カイザーライヒ国内の全中央銀行、および御用商人たちへ、皇帝の勅令を密かに下しなさい」
ヴァレリアの指先が、流れるように空中に因果の包囲網を描き出す。
「第一段階。カイザーライヒ国内の銀行が保有しているガルディニア神殿の宗教債、および諸外国の小規模ギルドが抱える債権を、カイザーライヒ帝室の資金力をもって一夜にしてすべて『額面の七割』で一斉に買い取らせるのです。債権者たちは神殿の破綻を恐れていますから、二つ返事で投げ売りしてきますわ」
「ふむ……ガルディニア神殿に対する債権を、我が帝国が一手に掌握するということだな」
コンラートの琥珀色の瞳に、獰猛な理解の光が宿る。
「ええ。そして第二段階――明日正午、買い取った債権のすべてを机上に叩きつけ、カイザーライヒ皇帝の名において、ガルディニア大聖堂へ『即時の一括全額償還』を公式に要求するのです」
「一括償還……! 八千万枚の金貨を、即座に支払えと!?」
ヒルデガルトが息を呑んだ。
「払えるはずがありませんわ。彼らの金庫には、十日分の利払い金すら残っていないのですから」
ヴァレリアは喉を鳴らして冷酷に笑った。
「返済期日は三日後。もし一分でも遅れれば、債務不履行を宣言し、神殿が担保として差し出していた全直轄領、鉱山、そして大聖堂そのものの所有権が、合法的に我がカイザーライヒ帝室へと移管されます」
さらに、ヴァレリアはヒルデガルトへと鋭い視線を向けた。
「そして第三段階――ここからが貴女の腕の見せ所よ、女軍師殿」
「私の……?」
「ええ。貴女が持つ諸外国の大商工ギルドとの外交人脈を使い、他国の豪商たちへこの情報をリークなさい。『カイザーライヒがガルディニア神殿の債権を一斉回収し始めた。今すぐ回収に向かわねば、神殿の資産はすべてカイザーライヒに差し押さえられ、貴方方の貸付金は紙屑になる』……とね」
「……ッ!!」
ヒルデガルトの全身を、雷に打たれたような戦慄が駆け抜けた。
悪魔の連鎖。
焦った諸外国の商人や銀行家たちが、我先にと大聖堂へ押し寄せ、金貨の返還を求めて門扉を叩き割る地獄絵図。
他国からの圧力、国内の債権者からの怒号、そして空っぽの金庫。
大聖堂の上層部は、兵士の一人も見ることなく、ただ金貨の請求書の山に埋もれて窒息死するしかない。
「兵を一人も危険に晒さず……一滴の血も流さず……国際金融の法と契約の枠組みだけで、大聖堂を完全なる破産へと追い込む……!」
ヒルデガルトは震える手で、自らの眼鏡を外した。
その瞳には、先ほどまでの反発心など微塵も残っていなかった。
あるのはただ、自らが生涯をかけて磨き上げてきた軍事戦略のすべてが、赤子の児戯に見えてしまうほどの、暴力的で、美しすぎる絶対の知謀に対する――底知れぬ畏怖と、魂の芯からの心酔。
「剣で首を刎ねれば、彼らは死の恐怖を一瞬味わうだけで終わります。……ですが、金で首を絞め上げれば、彼らは三日三晩、自らの富が崩壊していく激痛に悶え苦しみ、仲間割れを起こし、醜く罵り合いながら破滅していくのよ」
ヴァレリアはハーブティーのカップを静かに傾け、最後の一滴を喉へと流し込んだ。
そして、冷たく微笑みながら、女軍師を見据えた。
「どうかしら、ヒルデガルト? これでもまだ、貴女の兵隊さんたちを泥だらけにして山越えさせたいかしら?」
「…………いいえ」
ヒルデガルトは静かに首を横に振った。
彼女は手にした指揮棒を作戦机の上に置き、軍務服の膝を折ると――カイザーライヒの皇帝以外の何者にも決して頭を下げたことのなかった帝国筆頭軍師が、床に両膝をつき、ヴァレリアの足元へと深く頭を垂れたのである。
「我が浅慮、万死に値いたします……ヴァレリア閣下。軍事学の教本など、貴女の御足元に敷く紙屑にすら劣る。……貴女のその冷酷無比なる知性こそ、世界をチェス盤として動かす、真の覇王の頭脳でございます」
ヒルデガルトは顔を上げ、その双眸に恍惚とした熱い光を宿して誓った。
「大陸中の全商工ギルド、全銀行のネットワークを、今夜のうちに我が手で完璧に掌握してみせましょう。明日の正午――ガルディニア神殿の首に、金貨で編み上げた絶対の絞首縄をかけてご覧に入れます!」
「よく言ってくれたわ、ヒルデガルト」
ヴァレリアは満足げに目を細め、玉座のように肘掛けに身を預けた。
皇帝コンラートもまた、獰猛な笑みを浮かべて頷き、即座に近衛伝令を呼び出すために踵を返した。
背後でマティアスが背徳の祈りを捧げ、グレーテが無言のまま完璧な二杯目の茶を注ぐ。
血を流さぬ断頭台。
金貨の重みで首を吊るされる哀れな豚たちの断末魔を、特等席から眺めるための準備は、ここに完璧に完了したのだった。




