第15話:怪物たちの茶会 〜四凶集う黄昏のテラスと、侍女長の鉄槌〜
夕陽が竜骨山脈の頂を赤銅色に染め上げ、迎賓離宮『黒曜宮』の広大な庭園に長い紫の影を落としていた。
庭園の白樺の葉が秋風に擦れ合い、かすかなざわめきを立てる。本来であれば、鳥のさえずりと噴水の水音だけが響くはずの穏やかな黄昏時。
だが、二階に張り出した広大なテラスの空気は、落雷の直前のような重苦しい静電磁気と、皮膚をちりちりと焦がす濃密な殺意によって、完全に飽和していた。
テラスの中央には、白大理石を贅沢に削り出して作られた巨大な円卓。
その上座に据えられた豪奢な黒革の肘掛け椅子に、ヴァレリア・フォン・アルトハイムは優雅に身を沈めていた。
身に纏うのは、夕暮れの空をそのまま織り上げたような、深い菫色のベルベットドレス。白磁の首筋には一切の装飾品はなく、ただ腰元まで流れる艶やかな漆黒の髪が、微風に撫でられてさらさらと絹擦れの音を立てている。
彼女の紫紺の双眸は、手元の白磁のソーサーに落ちる影を静かに見つめ、退屈そうに睫毛を伏せていた。
――そして。
そのヴァレリアを扇の要として囲むように、四つの常軌を逸した影が、円卓の周囲に陣取っていた。
皇帝コンラートが、黒曜宮の結界を抜けて直々に馬車で乗り込んできたのだ。
ガルディニア神殿の金庫を爆破して逃亡してきた元筆頭司教マティアスがこの離宮に合流したという報せを、カイザーライヒ帝国情報部が察知しないはずがなかった。
結果として――深淵の原初魔王、帝国の覇王、裏社会の暗殺者、そして神殿の背教者。
それぞれが大陸全土を一夜にして揺るがし得る絶対の怪物たちが、たった一人の女性の足元に、初めて一堂に会することとなったのである。
「……ふん」
沈黙を最初に破ったのは、円卓の左翼に立つ魔王ヴォルフラムであった。
黒銀の長髪を不機嫌そうに逆立て、黒の燕尾服の袖口から、鋭利な漆黒の爪をギリギリと伸ばしている。その金色の双眸は、常人であれば直視しただけで魂を焼き殺されるほどの凶暴な殺戮の光を放ち、周囲の男たちを睥睨していた。
「我が主の視界に、薄汚い人間風情が映るだけで不快極まりない。数百年ぶりに目覚めた世界がこれほど羽虫だらけとはな。……特に貴様だ、カイザーライヒの皇帝とやら。我が神の隣の席を分不相応に狙うなど、身の程を知れ。その傲慢な首を根元からへし折り、深淵の肥やしにしてやろうか?」
ヴォルフラムの足元から、黒炎の陽炎が立ち上る。
大理石の床がジュウと音を立てて白煙を吹き、空間そのものが熱量に耐えかねて歪み始めた。
だが、その神話級の威圧を真っ正面から浴びながら、対角に立つ皇帝コンラートは微動だにしなかった。
漆黒の軍服の胸を張り、琥珀色の瞳に歴戦の覇気を滾らせながら、腰の古代魔剣の柄に無骨な手をかける。
「口を慎めよ、古代の遺物め」
コンラートの低く太い声が、黒炎の熱気を切り裂いて響いた。
「主、主と子犬のように擦り寄るしか能のないトカゲ風情が偉そうに吠えるな。ヴァレリア殿が今、こうして優雅に茶を嗜んでいられるのは、この俺の領土、この俺の離宮、そしてこの俺が用意させた最高級の茶葉と防衛網があってこそだ。我が庇護下にあるという事実を弁えぬ怪物は、たとえ神話の魔王であろうと我が帝国の全軍をもって叩き潰すまで」
「ほう……? 我が黒炎の前に、貴様の玩具のような軍勢が何秒耐えられるか、今すぐここで試してみるか?」
「面白い。貴様を切り刻んで、黒鷲城の正門に剥製として吊るしてやろう」
魔王の黒炎と、皇帝の覇道が正面衝突する。
バチバチと大気が悲鳴を上げ、テラスの手すりに蜘蛛の巣状の亀裂が走り始めた。
だが、火花を散らしているのはこの二人だけではなかった。
「……五月蝿いな」
円卓の影、ヴァレリアの椅子のすぐ背後から、氷のように冷淡な声が滑り落ちた。
銀髪の少年暗殺者キリアンである。
彼は音もなく影から上半身を現すと、両手に構えた二本の波刃ダガーの切っ先を、コンラートとヴォルフラムの眉間目掛けて水平に掲げた。少年の碧眼には一切の感情がなく、ただ純粋な「標的を解体する手順」だけが計算されていた。
「皇帝だか魔王だか知らないけど、ヴァレリア様の半径二メートル以内に近づく奴は、全員等しく肉塊に変えるよ。お前たちの汚らわしい声が、ヴァレリア様の耳に届くだけで耳障りなんだ。……まずはお前の舌を切り落として、その後にそっちのトカゲの心臓を三十枚に下ろしてあげる」
「抜かせ、路地裏のネズミが」
「我が爪の前に塵芥と散るがいい、人間の小僧」
三方向からの殺気が交差し、テラス全体の重力が二倍、三倍へと跳ね上がっていく。
だが――そこに、さらにもう一つの異様な気配が、ぬらりと割り込んできた。
「……ふふ、実に浅ましい。滑稽の極みですね」
円卓の端、新調された黒の祭服を着崩した青年――元筆頭司教マティアスが、皮肉めいた笑みを浮かべながら、手にした禁忌の魔導書をパラパラとめくっていた。
その首元には、大聖堂の金庫を爆破した際の火傷が生々しく残り、端正な顔立ちの奥底で、背教者特有の濁りなき狂信が妖しく爛々と輝いている。
「権力だの、暴力だの、肉体的な独占欲だの……貴方たちの向けるその浅ましい矢印は、所詮は現世の俗物が抱く下劣な我欲に過ぎません。ヴァレリア様は、地獄の底から這い上がられた生ける唯一神。神を自らの私物のように囲い込もうなどという発想そのものが、万死に値する不敬であると理解できないのですか?」
マティアスは胸元に手を当て、陶酔しきった眼差しでヴァレリアを見つめながら、男たちに向けて冷たく吐き捨てた。
「貴方たちの泥臭い独占欲など、我が純粋なる信仰の足元にも及ばない。神に捧げるべきは、己の魂をすり潰して敷物となる絶対の隷属のみ。……ヴァレリア様の御心を乱す俗物どもには、私が神殿禁忌の絶滅呪詛を撃ち込んで差し上げましょう」
「神殿の犬が、神を語るか」
「貴様が一番気持ち悪いんだよ、狂信者」
「我が主の御前で経典などを開くな、灰にするぞ」
四人の視線が、円卓の中心で激突した。
魔王の殺戮、皇帝の覇気、暗殺者の虚無、背教者の狂信。
大陸の頂点に立つ四つの規格外のエネルギーが、一歩も引かずに渦を巻き、テラスの石畳がミシミシと激しい破壊音を立てて軋み始める。
一触即発。
誰か一人でも指先を動かせば、この迎賓離宮はおろか、周囲の森林地帯ごと半径数キロメートルが一瞬で消滅するであろう、極限の修羅場。
――だが。
その破滅の秒読みのただ中に、カツン、カツンと、あまりにも無機質で、平坦な足音が割り込んできた。
銀のワゴンを押しながら、テラスの扉を抜けて歩み出てきたのは、筆頭侍女長グレーテであった。
乱れのない漆黒の髪を後ろに束ね、感情の欠片も宿さない陶器の仮面のような美貌。
彼女は、空間を歪めるほどの四人の殺気の嵐の中を、まるでただの春風の中を散歩するかのように平然と通り抜けると、ヴァレリアの長椅子の横へとワゴンをピタリと滑り込ませた。
そして――。
コトリ。
白磁のティーカップが、ソーサーの上に寸分の狂いもなく置かれた。
立ち上るのは、湯気と共に広がる最高級ダージリンの芳醇な香り。
「…………」
グレーテは一度たりとも男たちの顔を見ることなく、エプロンのポケットから、白銀の細いトングを取り出して角砂糖を摘み上げた。
そして、カップの縁を汚さぬよう静かにそれを沈めると、前方を睨み合う四人の怪物たちに向けて、氷のように冷涼な声音を放った。
「――我が主のティータイムを乱す羽虫共は、どなたであれ解体いたします」
背筋が凍るような、完全なるゼロの温度。
言葉と同時に、グレーテの指先から、目に見えぬほど極細の鋼糸が十数本、蜘蛛の巣のようにテラス全体へと音もなく射出された。
コンラートの頸動脈、ヴォルフラムの爪の付け根、キリアンのダガーの柄、マティアスの魔導書の喉元――四人の急所という急所に、寸分の狂いもなく張り巡らされた絶対の暗殺針のテンション。
「皇帝閣下。ここは貴方のお城の演習場ではありません。軍靴で敷石を削るのはおやめください。弁償代をご請求いたします。
魔王様。黒炎の煤で我が主のドレスの裾が汚れましたら、その首を落として灰掃除の箒に加工いたします。
キリアン。刃物を人に向けたまま主の背後に立つなと先ほど教えたはずです。指の骨を二本ほど外して差し上げましょうか。
元司教様。主の御前でブツブツと気味の悪い妄言を垂れ流さないでいただけますか。耳障りです、舌を引き抜いて瓶詰めにいたしますよ」
容赦のない、全方位への辛辣極まる鉄槌。
世界の頂点に立つ四人の男たちが、一介の侍女から「羽虫」「害虫」として完全に同列に扱われた瞬間であった。
「な……ッ!?」
「ぐ……ぬぅ……ッ」
四人の眉間が同時に引き攣る。
だが、グレーテの背後に立つ女性――ヴァレリアの存在が、彼らの反撃の意志を完全に粉砕していた。
グレーテの言葉は、すなわちヴァレリア自身の不快感の代弁であると、四人は本能で理解していたからだ。
ヴァレリアは、グレーテが淹れたばかりの紅茶に口をつけなかった。
彼女は手元のカップを見つめることもせず、ただ、ゆっくりと――その紫紺の双眸を持ち上げた。
「…………」
冷ややかな、一瞥。
声は発せられない。魔力すら解放されない。
ただ、チェス盤の上で勝手に騒ぎ立てる無能な駒たちを見下ろすような、絶対の上位捕食者としての氷の眼差し。
ヒュンッ、と。
その視線が四人の男たちの顔を順番に撫でた、コンマ一秒の後のことだった。
ザッ!!
神話の魔王の手から黒炎が一瞬で掻き消え、皇帝コンラートが魔剣から手を離し、暗殺者キリアンがダガーを素早く袖口へと隠し、元司教マティアスが魔導書を胸元へ抱え込んで口を閉ざした。
先ほどまで大地を揺るがす殺気を放ち合っていた四人の怪物が、示し合わせたかのように同時に背筋をピンと伸ばし、ヴァレリアの前で寸分の隙もなく、直立不動の姿勢を取ったのである。
「あ、あの……我が主、我はただ、貴女の尊厳を……」
「ヴァレリア、俺は軍事的な観点から規律をだな……」
「ヴァレリア様、僕、何もしてないよ……?」
「主よ、私はただ貴女への祈りを捧げていただけです……」
口々に視線を泳がせながら、言い訳を呟く男たち。
先ほどの神話級の威厳などどこへやら、完全に主人の不興を買って怯える飼い犬そのものの情けない姿であった。
「座りなさい」
ヴァレリアの短い、冷涼な一言。
ガタタッ!と音を立てて、四人は慌てて円卓の椅子へと腰を下ろした。
誰が隣に座るかという小競り合いすらもはや起きない。全員がヴァレリアの視界の端で粗相をすまいと、背筋を異常なほど真っ直ぐに伸ばし、膝の上に両手を置いて大人しく着席している。
グレーテが無言のまま、男たちの前へ機械的な動作で冷めた茶を乱暴に事も無げに配膳していく。男たちは文句一つ言えず、居心地悪そうに身を縮めていた。
「……ふふ」
その滑稽極まる光景を見届けて、ヴァレリアはようやく、満足げに喉を鳴らした。
彼女は白磁のカップを持ち上げ、完璧な温度に保たれたダージリンを上品に一口啜る。
カチャリ、とソーサーに戻される澄んだ音。
「くだらない意地の張り合いは、そのくらいにしていただきましょうか」
ヴァレリアの紫紺の瞳が、妖艶な黄金の光を帯びて細められた。
彼女は手元をわずかに動かし、グレーテに顎で合図を送る。
グレーテが一礼し、ワゴンの中から一抱えもある分厚い黒革の手帳の山――第14話でマティアスが大聖堂の金庫から命がけで奪い取ってきた『神殿最高機密の裏帳簿』の原本を、円卓の中央へとドサリと広げた。
バサリ、と開かれたページ。
そこに並んでいたのは、ガルディニア大聖堂が数百年秘匿してきた、諸外国からの借入金、買収した貴族の実名、そしてマネーロンダリングの全ルートを示す、国家を即死させるだけの膨大な数字の羅列。
「な……これは!?」
コンラートの琥珀色の瞳が見開かれた。皇帝としての冷徹な政治的直感が、その帳簿の持つ天文学的な破壊力を一瞬で理解したのだ。
「ガルディニア神殿が国内外に抱える、すべての『宗教債』の原本ですわ」
ヴァレリアは扇子の先で帳簿の数字をトントンと叩き、四人の男たちを見渡した。
「男同士の縄張り争いなど、何の生産性もありませんわ。……わたくしが貴方たちに求めているのは、我が足元で醜く唸り合うことではなく、このチェス盤の上で完璧に機能する手足となることだけです」
ヴァレリアの唇が、極上の毒を含んだ弧を描く。
「役者は揃いました。手土産も、舞台も、完璧に整いましたわ。――さて、皆様。ガルディニアの豚どもを、合法的に解体する手順を始めましょうか」
絶対の女帝のその冷酷な宣告に、先ほどまでいがみ合っていた四人の怪物の瞳に、一斉に獰猛で、狂信的な歓喜の炎が灯ったのだった。




