第14話:背教者の手土産 〜血染めの法衣と、神を屠るための帳簿〜
黒曜宮の正面大門から本館へと続く白銀の砂利道の上に、重く、引きずるような足音が響いていた。
庭園を取り囲む針葉樹の影が夕暮れの朱に染まるなか、案内役を務める筆頭侍女長グレーテの数歩後ろを、一人の男がついてくる。
男の足取りは、極度の疲労と不眠によって鉛のように重かった。何日もの間、夜目を利かせて竜骨山脈の険路を単身で踏破し、追手を撒き、カイザーライヒの国境警備網の隙間を潜り抜けてきたのだ。常人であればとうに倒れて野垂れ死んでいてもおかしくない強行軍。
だが、その男の背骨を支えていたのは、肉体の限界を超越した異常なまでの精神的執着であった。
白銀の祭服は、見る影もなく無残に引き裂かれ、煤と泥、そして返り血で黒く変色していた。
大聖堂の金庫を爆破した際の火傷が首筋に赤黒く残り、乱れた銀髪の隙間から覗く肌には、小枝に裂かれた無数の切り傷が走っている。
かつてガルディニア帝国の大聖堂において、弱冠にして頂点へと登り詰め、貴族令嬢たちから「氷の美男子」と謳われた筆頭司教の気品など、どこを探しても見当たらない。
だが――その無残な姿とは裏腹に、男の端正な顔立ちの中央に据えられた双眸には、この世のいかなる狂信者すら戦慄させるほどの、どす黒く澄み渡った光が爛々と燃え盛っていた。
ギギ、と重厚な黒曜石の観音扉が内側へと押し開かれる。
通されたのは、黒曜宮の一階中央に位置する『黒曜の謁見の間』であった。
高い天頂を支えるのは、磨き抜かれた漆黒の大理石柱。壁面に埋め込まれた魔導灯が、青白い光を静かに落とし、床に敷かれた真紅の絨毯を浮き上がらせている。
その空間の最奥。
三段の石段の上に据えられた黒革と黄金の玉座に、彼女は腰掛けていた。
ヴァレリア・フォン・アルトハイム。
漆黒のベルベットに夜空を切り取ったかのような銀糸の刺繍が施されたドレスを優雅に着こなし、足を揃えて腰掛けている。その双眸は、地下牢で見ていた濁った澱みなど欠片もなく、透き通る夜明けの紫紺を湛え、冷徹な微笑みを浮かべていた。
彼女の全身から自然と立ち上る神気は、かつて帝国の神殿が祀っていたいかなる偶像の光よりも高貴で、圧倒的な神聖さを放っている。
玉座の左右を固めるのは、二頭の獰猛な獣。
右側には、腕を組んで金色の瞳から凶暴な殺気を放つ魔王ヴォルフラム。
左側には、壁の影に背をもたれかけ、波刃ダガーの切っ先を冷たく弄ぶ少年キリアン。
二人が放つ神話級の威圧感が、謁見の間の大気を呼吸すら困難なほどに重く押し潰していた。
だが――扉をくぐり、その場に足を踏み入れた男、元筆頭司教マティアスには、左右の怪物の殺気など一筋の風ほどにも感じられなかった。
彼の視界のすべては、玉座に座るただ一人の女性によって、完全に奪い去られていたからだ。
「…………あ」
マティアスの唇から、掠れた、震える吐息が零れ落ちた。
その瞬間、彼の膝から一切の力が抜け落ちた。
ドサリ。
激しい音を立てて、マティアスは真紅の絨毯の上に両膝を叩きつけた。
痛覚すら麻痺していた。彼は四つん這いになり、泥と血に汚れた指先を伸ばしながら、まるで聖地に辿り着いた巡礼者のように、這うようにして玉座の前へと進み出る。
そして、石段の最下段、ヴァレリアの黒革のハイヒールからわずか一歩手前の床に、額をゴツンと音を立てて擦り付けた。
「ああ……あああ……っ! ヴァレリア様……! 我が、我が唯一の神よ……!!」
マティアスの喉から、嗚咽混じりの絶叫が漏れ出した。
床に擦り付けられた額から、血と涙が混ざり合って絨毯を汚していく。
十年間。
十年間もの長きにわたり、あの暗黒の地下牢で、骨を軋ませ、血を吐きながら帝国のすべての穢れを引き受け続けていた少女。
どれほど罵倒されても、どれほど飢えさせられても、決して信仰を失わず、誰にも弱音を吐かなかった孤高の聖女。
その彼女が――今、地獄の底から這い上がり、傷一つない白磁の肌と、天上の光をその身に纏って、世界の支配者として君臨している。
「生きて……おられた……! 無事で、いや、以前にも増して……なんと神々しく、なんと美しくあらせられることか……っ!」
マティアスは床を掻きむしり、肩を激しく痙攣させながら、熱狂に瞳を濡らして顔を上げた。
その眼差しに浮かんでいたのは、かつての敬虔な神官の理性ではない。
神を自らの手で殺し、目の前の悪女を唯一の偶像として祀り上げた、背教者特有の濁りなき狂気だった。
「神など、ただの欺瞞でした! 数千の祈りを捧げようと、あの腐敗した大聖堂には一片の奇跡すら宿っていなかった! 貴女様が地獄の底で血を流している間、天上の神とやらは何一つ手を差し伸べなかった! 神など初めからこの世のどこにも存在しなかったのだ……! 私の信仰は、私の魂の救済は……地獄の奈落から舞い戻られた、貴女様ただ一人だ!!」
背徳の告白。
神殿の頂点にいた男が、自らの信仰のすべてを投げ捨て、一人の女の靴底に自らの魂を差し出した瞬間であった。
「……ケッ、反吐が出るな」
壁際でキリアンが吐き捨てるように呟き、ダガーを鞘に納めた。
「神殿の犬が、どの面下げてヴァレリア様にすがりついてるんだか。……首を刎ねていいですか、ヴァレリア様? あいつ、十年間地下牢の鍵を管理していた見張り番ですよ」
「我も同感だ」
ヴォルフラムが金色の瞳を眇め、低く唸るような声を漏らす。
「偽善の匂いをプンプンと撒き散らす薄汚い人間め。主の御前をその濁った涙で汚す気か? 我が黒炎で消し炭にしてやろう」
二人の怪物が放つ殺気が、平伏するマティアスの頭上に降り注ぐ。
だが、マティアスは二人の脅迫に眉一つ動かさなかった。死など恐れていない。自らの命など、ヴァレリアの視界に入ることの喜びに比べれば、塵芥ほどの価値もないと知っているからだ。
「……控えなさい、二人とも」
凛とした、氷のように透き通る声が、謁見の間の空気を一瞬で静まり返らせた。
ヴァレリアが、玉座の肘掛けからゆっくりと右手を持ち上げる。
彼女は石段の下で額を擦り付けるマティアスを見下ろし、紫紺の瞳を細めた。
「随分と無様な姿ね、マティアス。……十年間、冷徹な仮面を貼り付けて私の牢の前に立っていたあの筆頭司教様が、泥水に塗れて這いずり回る狂信者になり果てるとは。ガルディニアの大聖堂が見たら、卒倒してしまいますわ」
「狂信者……ええ、何とでもお呼びください!」
マティアスは嘲笑すらも甘美な褒美であるかのように受け止め、歓喜に顔を歪めた。
「貴女様という真の神を知ってしまった今、以前の私こそが盲目の狂人でした! 貴女様の足拭きマットになれるのであれば、狂人と呼ばれることすら至上の名誉でございます!」
「ふふ……口先だけは達者なこと」
ヴァレリアは小さく喉を鳴らして笑うと、冷ややかな視線をマティアスの肩口へと落とした。
「それで? 大聖堂を裏切り、国境を越えてまで私の元へ這いずってきた理由はそれだけかしら? ただ愛の告白をしに来ただけだと言うのなら……今すぐヴォルフラムの炎に放り込んで、灰にして差し上げますけれど」
「滅相もございません!」
マティアスは弾かれたように身を起こすと、背負っていた泥だらけの革鞄――空間拡張の魔導具『異空間鞄』を両手で恭しく前へと差し出した。
「手ぶらで貴女様の御前に侍るなど、万死に値する無礼! ……持参いたしました、我が主。貴女様を虐げ、欺き、奈落へ突き落としたあの偽善の神殿を、根底から叩き潰すための『絶対の毒』のすべてを!」
マティアスが鞄の口を解き、魔力を注ぎ込む。
パッと淡い燐光が走り、鞄の中から三つの極めて異様な手土産が、絨毯の上へと滑り出た。
一つ目は――黒革で装丁された、分厚い手帳の山。
表紙にはガルディニア神殿の最高機密印が刻まれ、鍵穴には何重もの防護魔導が施されていた痕跡がある。
「これは……?」
控えていた筆頭侍女長グレーテが、手袋を嵌めた手で手帳の一冊を拾い上げ、素早く内容を検分した。
無表情を崩さないグレーテの眉が、わずかにピクリと跳ね上がる。
「……我が主。これは、ガルディニア大聖堂が数百年秘匿してきた『最高機密の裏帳簿』、および『汚職の全記録』でございます」
「ほう……?」ヴァレリアが片眉を上げる。
マティアスは熱のこもった声音で、その価値を解説し始めた。
「そうです! 神殿が『病気平癒の奇跡』を担保に、カイザーライヒをはじめとする諸外国の大商人や貴族たちから借り入れていた天文学的な額の『宗教債』の全記録! さらに、帝国貴族院の議員たちを買収し、免税特権を維持するためにばら撒いていた賄賂の金額、受け取り手の署名、マネーロンダリングの全ルートが、この帳簿の中にすべて記載されております!」
マティアスは獰猛な笑みを浮かべ、床を叩いた。
「これさえあれば、ガルディニア神殿が抱える莫大な負債の全貌が白日の下に晒されます! カイザーライヒ国内の銀行から一斉に債権回収を迫れば、神殿の金庫は一瞬で空になり、国際的な信用はゼロに堕ちる! 武力など使わずとも、あいつらを経済的に即死させることが可能です!」
ヴァレリアの瞳の奥で、冷徹な知性が光を宿す。
第11話で女軍師ヒルデガルトと共に策定した「経済封鎖による神殿の兵糧攻め」――その計画において、唯一の不確定要素であった「正確な負債額と買収ルート」が、今、完璧な現物として手元に転がり込んできたのだ。
「そして、二つ目はこれです」
マティアスが絨毯の上に広げたのは、何十枚もの羊皮紙に記された、詳細な儀式の手順書と薬品の配合表であった。
「新聖女マリアベルの『自作自演の奇跡』の全容でございます」
マティアスの声音に、侮蔑と嗜虐の色が混ざる。
「マリアベルの初歩的な解毒魔法を『不治の病を癒やす神の奇跡』に見せかけるため、神殿の調剤部が帝都の井戸水に密かに混入させていた微毒の配合記録、毒を撒いた神官たちの実名、そしてマリアベル自身がそれに合意していた誓約書の原本です。……これを帝都にばら撒けば、あの小娘の聖女としてのメッキは木っ端微塵に吹き飛びます!」
大階段から転落し、泥水を啜ってなお聖女の地位にしがみつこうとするマリアベル。
彼女の息の根を社会的に完全に止めるための、これ以上ない決定的な証拠。
そして――。
マティアスが最後に差し出したのは、紫がかった禍々しい魔力を放つ、一冊の古びた羊皮紙の魔導書であった。
表紙には血のような赤い塗料で、古代の天秤の紋章が刻まれている。
「……初代教皇が、その危険性ゆえに神殿の最深部に封印したとされる禁忌の古代魔導書――【因果反跳の術式原典】でございます」
その本が現れた瞬間、ヴァレリアの胸元で、覚醒した【因果の天秤】が小さく共鳴し、カチリと音を立てた。
ヴァレリアの魂に宿る固有チートのルーツとも言える、古代の因果操作理論。十年間、彼女にすべての穢れを押し付けるために神殿が歪めて使っていた、呪縛の基本設計図そのもの。
「神殿の富、秘密、そして過去の罪状……すべて、大聖堂の金庫を爆破して奪い取ってまいりました」
マティアスは再び額を床に擦り付け、震える声で懇願した。
「我が命、我が魂のすべてを貴女様に捧げます。どうか……どうかこの背教者を、貴女様の復讐のための手駒としてお使いください……!」
静寂が、謁見の間を支配した。
床に並べられた三つの手土産。
国家を一つ、内側から完璧に解体し、滅亡へと追いやるだけの致死量の猛毒。
神殿の筆頭司教という最高の地位を自ら投げ捨て、大聖堂を爆破し、すべてを奪って主の元へと這いずってきた男の狂気。
キリアンが舌打ちを漏らし、ヴォルフラムが忌々しそうに腕を組む中、グレーテが無言のまま帳簿の束をまとめ、恭しくヴァレリアの足元へと運んだ。
ヴァレリアは、ゆっくりと玉座から立ち上がった。
カツン、カツン、と。
黒革のハイヒールが石段を降りていく澄んだ音が響く。
ドレスの裾を優雅に引きずりながら、彼女は床に平伏するマティアスの眼前へと歩み寄った。
マティアスは息を呑み、自らの首筋に落ちる影を見つめていた。
殺されるのか。それとも、拾われるのか。
そのどちらであったとしても、この女性の指先によって下される結末であるならば、至上の歓喜であると信じて疑わない瞳。
ヴァレリアは、右手に持っていた黒骨の扇子をスッと前へ伸ばした。
そして――その閉ざされた扇子の先端を、平伏するマティアスの顎の下へと滑り込ませた。
クイッ、と。
わずかな力で、マティアスの顔が上へと持ち上げられる。
至近距離で交錯する、二人の視線。
泥と煤に汚れ、熱狂に瞳を潤ませる背教の神官と、白磁の肌に極上の冷酷さを湛えた絶対の女帝。
「…………」
ヴァレリアは、マティアスの瞳の奥底に巣食う、濁りなき狂気と執着を冷徹に見据えた。
そこにあるのは、情愛などという生ぬるいものではない。
自らの信じた神が目の前で裏切られ、地獄の底で血を流したことによって生まれた、世界そのものへの復讐心。そして、その絶望を暴力的な全能性へと昇華させたヴァレリア個人に対する、狂信的な崇拝。
――使える。
泥臭い復讐など不要。だが、盤面の上で自ら進んで泥を被り、敵の喉笛に合法的な毒を流し込むための「有能な駒」として、これ以上の素材は存在しなかった。
ヴァレリアの艶やかな唇が、ふわりと、この世で最も残酷で美しい弧を描いた。
「よく持ってきてくれたわ、マティアス」
氷のように冷涼で、甘美な声音が、マティアスの鼓膜を震わせる。
「信仰を捨て、自らの神殿を焼き払い、同胞の首を絞めて奪い取ってきた手土産……ええ、とても気に入りましたわ。神を捨てた元司教ほど、役に立つ道具はこの世にありませんものね」
「道具……ッ!」
マティアスの喉から、歓喜の嗚咽が漏れた。
人間として扱われることなど望んでいなかった。
愛されることすら望んでいない。
ただ、この冷酷無比な女帝のチェス盤の上で、敵を切り刻むための鋭利な切っ先として使われること――それこそが、彼が求めた唯一の救済だった。
「お使いください……! 我が主、我が神よ! 貴女様の御心のままに、この命を骨の髄まで使い潰してくださいませ……!」
「ええ、存分に使ってあげますわ」
ヴァレリアは扇子をパチンと閉じ、マティアスの顎から離した。
そして、床に散らばる帳簿の山を一瞥し、背後のグレーテへと命じた。
「グレーテ、この男に客室と新しい服を与えなさい。それから、帳簿の数字の精査を。……明日には、女軍師ヒルデガルトを交えて、ガルディニア神殿の首を絞め上げる手順を確定させます」
「畏まりました、我が主」
グレーテが一礼し、冷たい手際でマティアスを立たせにかかる。
ヴァレリアは身を翻し、再び玉座へと優雅に歩み戻った。
深淵の魔王ヴォルフラム。
裏社会の暗殺者キリアン。
そして今、神殿の最高機密を携えた背教の大神官マティアス。
四人の狂愛者のうち、三人がすでに彼女の足元へと揃った。
手元に集まったのは、世界を滅ぼす武力と、裏社会の刃、そして国家の首根っこをへし折る経済の爆弾。
「さて……」
玉座に深く腰掛けたヴァレリアは、窓の外――夕闇に沈みゆくガルディニアの方角を見据え、妖艶に目を細めた。
「舞台装置は、完璧に整いましたわね。――次は、あの大聖堂の豚どもが、金貨の山に埋もれて窒息死する様を眺めるといたしましょうか」
絶対の女帝の冷酷な宣告が、星の瞬き始めた黒曜宮の夜空へと静かに溶け込んでいった。




