第13話:黒曜宮の冷徹なる侍女長 〜氷の刃を秘めし忠義と、閉ざされし鉄壁の檻〜
ガルディニア帝都の大階段で繰り広げられた無様な転落劇から数日。
南東の空から届く風には、いまやはっきりと腐敗と動揺の気配が混ざり始めていたが、ここカイザーライヒ帝国の迎賓離宮『黒曜宮』の敷地内には、外界の狂騒とは完全に切り離された厳粛な静寂が広がっていた。
黒曜宮――その名の通り、深みのある黒曜石をふんだんに切り出して築かれたその離宮は、歴代のカイザーライヒ皇帝が、他国の王族や神話級の英雄を遇するためだけに遺した最高位の迎賓館である。
帝都の喧騒から馬車で半刻ほど離れた広大な森林地帯の奥深くに鎮座し、周囲を取り囲むのは太古の精霊樹の原生林。敷地全体には多重の古代魔導結界が張り巡らされ、一歩足を踏み入れれば、空気の温度すら一定に保たれるよう設計されていた。
庭園には清らかな泉が湧き、手入れの行き届いた白銀の砂利道が、白亜の彫像と調和して美しい幾何学模様を描いている。
その離宮の二階、庭園を見下ろす最も豪奢な主サロン。
天井にはシャンデリアの魔晶石が柔らかな乳白色の光を投げかけ、床には手織りのペルシャ絨毯が敷き詰められていた。
部屋の中央に置かれた長椅子に、ヴァレリア・フォン・アルトハイムは優雅に身体を沈めていた。
漆黒のシルクに金糸の刺繍を巡らせたデイドレスを身に纏い、白磁の指先でパラパラと羊皮紙の書状をめくっている。
書状に記されているのは、ガルディニア帝国からキリアンの情報網を通じてリアルタイムで送られてくる『戦況報告』――近衛騎士長ボリスが両膝の複雑粉砕骨折によって騎士団長を解任され、激痛に叫びながら地下の隔離病棟へ放り込まれたこと。第一皇太子ユースティスが鼻骨骨折の激痛と恥辱から寝室に閉じこもり、新聖女マリアベルが煤まみれになった肌の治療のために神殿の秘薬を乱用して副作用に苦しんでいることなど、自業自得の自滅の記録が克明に綴られていた。
「……ふふ。思った通り、ずいぶんと見苦しい踊りを見せてくれているようですわね」
ヴァレリアは唇の端を吊り上げ、冷涼な吐息を漏らした。
手を出さずとも、悪意を向けた者が勝手に破滅していく。因果の天秤がもたらす精算の快楽は、上質の酒よりも深く彼女の神経を潤していた。
だが、そんなヴァレリアの至福の時間を、わずかに騒がしく乱す気配が部屋の中に満ちていた。
「我が主、次のお茶は何がよろしいでしょうか! 深淵の底に自生する樹齢三千年の古木から採取した霊茶葉を取り寄せて参りました! 一口飲めば魂の器が十倍に拡張する至高の品でございます!」
長椅子のすぐ傍らで、大仰に銀のトレイを掲げているのは原初の魔王ヴォルフラムである。
黒銀の長髪を揺らし、金色の双眸をこれ以上ないほどキラキラと輝かせながら、ヴァレリアの前に膝をついている。神話の時代に世界を滅ぼしかけた絶対の怪物が、今は上等な黒い燕尾服を身に纏い、忠実な給仕として主の機嫌を伺うことに命を懸けていた。
それに対し、部屋の梁の上から音もなく逆さ吊りにぶら下がった銀髪の少年――暗殺ギルド頭領のキリアンが、舌打ち混じりに毒づく。
「……目障りだな、トカゲ野郎。ヴァレリア様が欲しているのはそんな仰々しい毒草じゃないよ。ヴァレリア様、僕がカイザーライヒ皇室専用の茶畑から最高級の春摘み茶葉を盗ん――じゃなくて、調達してきました。これを飲んでください。僕の手で一口ずつ、口移しで飲ませてあげてもいいですよ?」
「人間の小僧風情が、我が主に気安く口移しだと……!? 今すぐその生意気な首をへし折って茶葉の肥料にしてやろうか!」
「やってみなよ。お前の心臓にダガーを突き刺すほうがコンマ一秒早い」
バチバチと、部屋の空気が張り詰める。
ヴォルフラムの手のひらで黒炎が揺らめき、キリアンの指先が二本の波刃ダガーを回転させる。
二人の怪物が放つ殺気の余波で、サロンのガラス窓がビリビリと微細な音を立てて悲鳴を上げた。
ヴァレリアは書状から目を離すことなく、冷ややかな声音を落とした。
「……二人とも、庭の噴水に首まで浸かりたいのかしら?」
「ッ!? 滅相もございません、我が主!」
「ご、ごめんなさいヴァレリア様! 大人しくします!」
一瞬で黒炎が掻き消え、キリアンが床に静かに着地して直立不動になる。
二人の猛獣を言葉一つで手綱に収めたヴァレリアだったが、わずかに眉間に小さなシワを寄せていた。
忠誠が重いのは結構だが、男たちの身の回りの世話は、どうしても粗野で大雑把になりがちだった。茶葉の淹れ方一つ、ドレスの皺の伸ばし方一つにしても、繊細な気配りというものが決定的に欠けている。
何より、皇帝コンラートがこの黒曜宮の各所に配置している『監視の目』――庭園の木陰や回廊の物陰に潜むカイザーライヒ帝国情報部の隠密たちの視線が、不快な虫のようにチクチクと肌に触れていた。ヴォルフラムやキリアンに命じれば一瞬で皆殺しにしてしまうだろうが、それでは同盟相手としての体裁が崩れてしまう。
もっと、冷徹で、完璧に主の意図を汲み取り、あらゆる雑音を無言で排除できる『手足』が必要だった。
その時であった。
――スッ……。
音もなく。
大気の揺らぎすら起こさず。
サロンの重厚なオーク材の扉が、外側の鍵を解除される音すら響かせることなく、わずかに数センチだけ内側へと開かれた。
「ッ!?」
「何者だ――ッ!」
ヴォルフラムの金色の瞳が鋭く細まり、キリアンが即座にダガーを逆手に構えて跳躍しかけた。
深淵の魔王と裏社会の頂点に立つ暗殺者、その二人の感知網を完全にすり抜け、サロンの扉の真裏まで何者かが接近していたのだ。異常事態。常人であれば気配を察知することすら叶わぬ神業の隠密。
だが、キリアンがその侵入者の輪郭を捉えた瞬間、少年の碧眼が驚愕に見開かれ、ダガーの切っ先がピタリと空中で静止した。
「……あ、れ? お前……まさか、本当に国境を越えてきたのか……?」
「当然です。我が主のいらっしゃる場所へ馳せ参じるのに、国境などというただの線が何の障害になりましょうか」
低く、抑揚のない、氷のように澄んだ女性の声が響いた。
開かれた扉の隙間から、滑り込むようにして一人の女性が姿を現した。
年齢は二十代半ば。
梳き油で乱れなく後ろへと束ねられた、艶のない漆黒の髪。感情というものを母親の胎内に置き忘れてきたかのような、陶器の仮面めいた無表情な美貌。
身に纏っているのは、一切の華美な装飾を削ぎ落とした、動きやすさを極限まで追求した濃紺の侍女服。その足元には、床を踏む摩擦音すら完全に消去する特殊な皮靴が履かれていた。
そして――エプロンのポケットの奥、袖口の裏側には、触れただけで内臓を切り裂く極細の鋼線と、数十本の暗殺針が寸分の狂いもなく仕込まれているのを、ヴァレリアの研ぎ澄まされた感覚は容易に看破していた。
グレーテ。
かつてアルトハイム公爵家において、ヴァレリアが十歳で地下牢へ連行される直前まで、彼女の身の回りの一切を取り仕切っていた専属侍女。
その正体は、かつて大陸全土を震撼させ、一族全員が処刑されたとされる伝説の暗殺一族『夜哭鳥』の最後の生き残り。幼い頃にヴァレリアの実母に拾われ、主家ではなく「ヴァレリア個人」に絶対の忠誠を誓っていた女であった。
十年前、ヴァレリアが地下牢へ隔離された際、公爵家からの理不尽な追放処分を受け、忽然と姿を消していたはずの影。
「……グレーテ」
ヴァレリアの唇から、懐かしさと確信に満ちた呟きが零れた。
キリアンが以前、「裏ルートを使って、昔ヴァレリア様に仕えていた腕利きの女に生存の符牒を送っておいた」と口にしていたが、これほど早く、しかも単身でカイザーライヒの厳重な防衛線を突破してくるとは思っていなかった。
グレーテは、ヴァレリアの姿を視界に収めた瞬間、その凍てついた双眸の奥に、ほんのわずかな――だが狂気にも似た深い光を宿した。
彼女はヴォルフラムやキリアンの殺気など意にも介さず、滑らかな足取りで絨毯の上を進むと、ヴァレリアの座る長椅子の前、三歩手前で足を止めた。
そして、流れるような完璧な所作で膝を折り、両手を床について、深く、深く頭を垂れた。
「――お迎えが遅れました、我が主」
一切の震えのない、静謐なる声。
「十年もの長きにわたり、薄暗き汚泥の底で貴女様をお一人にしてしまいましたこと……万死に値する我が怠惰、いかなる処罰もお受けいたします。……ですが、まずは」
グレーテはゆっくりと顔を上げた。
その氷の表情には涙の一滴すら浮かんでいなかったが、ヴァレリアを見つめる黒い瞳には、絶対の信仰と執着が宿っていた。
「以前にも増して、神々しく、冷酷にあらせられるその御姿を拝見できましたこと……このグレーテ、我が命が神に赦されたかのような無上の喜びに震えております。――我が主。髪の毛一本、爪の先、ドレスの襞一つに至るまで、以前以上の完璧なる美しさへと整えさせていただきます」
「……うふふ」
ヴァレリアは喉を小さく鳴らし、扇子を畳んで膝の上に置いた。
十年間、誰の助けも借りずに生き抜いてきたヴァレリアだったが、この女の放つ絶対の『実務能力』と揺るぎない忠誠だけは、何者にも代え難い心地よさを持っていた。
「良いわ、グレーテ。面をお上げなさい。……よくここまで辿り着いてくれましたね」
「勿体なきお言葉でございます」
グレーテは音もなく立ち上がると、視線をスッと部屋の隅の男たち――ヴォルフラムとキリアンへと向けた。
その眼差しは、先ほどまでの敬愛とは打って変わり、生ゴミを見るかのように冷淡極まるものだった。
「キリアン。連絡の手配だけは褒めてあげますが、相変わらず主の身の回りの管理が杜撰ですね。主の足元にそんな不潔な刃物を転がしておくなど、侍従として落第です。爪の間に血が残っていますよ、今すぐ洗ってきなさい」
「なっ……! これはお前の手引きのためにガルディニアの国境警備兵を間引いてきた時の血痕だぞ! 偉そうに指図するな!」
キリアンが青筋を立てて抗議するが、グレーテは完全に無視した。
続いて、彼女の視線は魔王ヴォルフラムへと向けられる。
「それから、そこの人外の方。我が主の前に湯気の立ちすぎた茶器を差し出すのはおやめください。蒸気で我が主の艶やかな御髪のキューティクルが乱れます。それに、主の視界にその下品な筋骨隆々の胸元を晒すのも不敬です。ネクタイをあと三センチ締め上げなさい」
「な……な、何だと貴様ァッ!?」
ヴォルフラムの金色の瞳が憤怒に燃え上がり、牙が剥き出しになる。
「我を誰と心得る! 数百年深淵を統べた原初の魔王ヴォルフラムなるぞ! 人間風情がこの我に指図するなど、灰にして骨すら残さぬぞ!!」
神話級の威圧感が部屋を圧殺しようとした、その瞬間。
――ヒュッ。
目に見えぬほどの速度で、グレーテの指先が動いた。
ヴォルフラムの喉元、左右の頸動脈、そして眉間のわずか数ミリの空間に、極細の三本の鋼糸がピシリと張り巡らされていた。
糸の端はグレーテの指先に巻かれ、わずかでもヴォルフラムが動けば、魔力障壁を展開するよりも早く肉を裂く絶妙なテンションが保たれている。
「魔王であろうと、路傍の野良犬であろうと、我が主の平穏を乱す者はすべて等しく『害虫』です」
グレーテは眉一つ動かさず、淡々と告げた。
「我が主のティータイムを乱す羽虫共は、どなたであれ解体いたします。――お分かりいただけましたか、人外の方?」
「ぐ……ぬ、ぬぅ……ッ!?」
ヴォルフラムは喉元に触れる冷たい殺気に、思わず言葉を詰まらせた。
魔王の力をもってすれば、この程度の鋼糸など力任せに引きちぎることは容易い。だが、この女の放つ殺気には、一切の躊躇も、生命への執着もなかった。主のためであれば魔王の喉笛を掻っ切ることに一秒の迷いもない――その異常な精神性に、百戦錬磨の魔王すら毒気を抜かれたのだ。
暴走しがちな怪物たちの間に、完璧な『冷徹なるストッパー』が打ち込まれた瞬間であった。
「……ふふ、あははは!」
ヴァレリアは声を上げて笑った。
男たちが互いに牽制し合い、そこに氷の侍女長が容赦のないダメ出しを食らわせる。
地下牢の泥水の中では決して味わうことのできなかった、歪で、だが完璧に機能する配下たちの構図。
「そこまでになさい、グレーテ。彼らも彼らなりに、私を楽しませてくれているのですから」
「……我が主がそう仰るのであれば、今回は見逃しましょう」
グレーテはスッと鋼糸を巻き取り、何事もなかったかのように一礼した。
「さて、我が主。再会の喜びに浸る前に、まずはこの館の『大掃除』を済ませてまいります」
「大掃除?」
「ええ。ネズミが少々、多すぎるようですので」
グレーテは踵を返すと、窓の外――広大な庭園の木立へと視線を向けた。
その瞳の奥で、暗殺者の冷徹な光がギラリと瞬く。
それからのグレーテの行動は、まさに神速にして完璧であった。
彼女はサロンを出るや否や、黒曜宮の敷地内を単身で巡回した。
皇帝コンラートが「護衛兼監視」として配置していたカイザーライヒ帝国軍最高峰の隠密部隊『黒鷲の影』――彼らが潜んでいた庭園の樹上、屋根裏の通気口、地下室の配管の影に至るまで、グレーテは音もなく背後へ回り込んだ。
殺しはしない。だが、首筋への的確な打撃、経穴を突く麻痺針、そして呼吸を奪う締め技によって、わずか半刻のうちに二十名を超える熟練の隠密たちを全員昏睡させ、離宮の敷地外の街道沿いへと綺麗に並べて放り出したのだ。
さらに、離宮に張り巡らされていた魔導結界の周波数を独自に書き換え、外部からの遠隔盗聴魔導具をすべて粉砕。
カイザーライヒ帝室から派遣されていた一般の給仕や料理人たちも、その身辺調査を一瞬で完了させ、少しでも不審な動きを見せた者を冷徹に本宮へと送り返した。
結果――黒曜宮は、皇帝コンラートの監視の目すら一切届かない、ヴァレリアのためだけの「完全なる絶対不可侵の鉄壁の要塞」へと作り変えられたのである。
***
夕暮れ時。
すべての『掃除』を終えたグレーテは、サロンへと戻ってきた。
そのエプロンには埃一つついておらず、息一つ乱れていない。
彼女はワゴンを押してヴァレリアの前へと進み出ると、銀のティーポットから、澄み渡る琥珀色の液体を白磁のカップへと注ぎ落とした。
トポトポと心地よい音が響き、サロンを満たしたのは、完璧な温度で抽出された最高級ダージリンの芳醇な香り。
「お待たせいたしました、我が主。茶葉の蒸らし時間は三分十五秒、お湯の温度は九十二度。貴女様が十年前にお好きだった、最も渋みの少ない黄金比でございます」
恭しく差し出されたカップ。
ヴァレリアは細い指先で取っ手を持ち上げ、唇を寄せた。
「…………」
一口含んだ瞬間、上品な渋みと甘みが口いっぱいに広がり、喉を心地よく温めていく。
十年前、公爵邸のテラスで飲んでいたあの味と、寸分の狂いもない完璧な仕上がり。
「……ええ。素晴らしいわ、グレーテ。やはり私のお茶は、お前でなくては務まりませんね」
「ありがたき幸せに存じます」
グレーテは深々と頭を下げ、その氷の口元を、わずかに誇らしげに緩めた。
ヴァレリアは深く背もたれに寄りかかり、窓の外を見つめた。
男たちの過剰な熱気はグレーテによって適度に制御され、外部からの監視の目は完全に遮断された。
最高級の紅茶、完璧な防衛網、そして足元に侍る忠実なる怪物たち。
復讐のための盤面を動かすための、最も強固で、最も快適な「生活基盤」が、ここに完全に完成したのだ。
満ち足りた静寂。
ヴァレリアが満足げに目を細め、二口目の紅茶を口に運ぼうとした――その時であった。
――ゴォォォォォン……。
重厚な金属の鐘の音が、黒曜宮の正面門から響き渡った。
それは、外敵の襲撃を告げる警報ではなかった。
グレーテが張り巡らせた絶対の結界を破ろうとする魔力反応も、敵意の気配も一切ない。
ただ――黒曜宮の正面大門の真ん前に立ち、正当な来訪者として、堂々と呼び鈴の鐘を打ち鳴らした者の存在を告げる音だった。
「……チッ、またカイザーライヒの使いか? 今度こそ首を刎ねてくる」
キリアンが眉をひそめて窓の外を睨む。
「待ちなさい」
グレーテが冷ややかに制止した。
「カイザーライヒの者ではありませんね。……結界の識別盤に触れている魔力の波形が、酷く歪んでいます。聖職者の神聖魔力と……血と煤、そして神への呪詛が混ざり合った、酷く不快で背徳的な波長です」
「あら……?」
ヴァレリアはカップをソーサーに戻し、紫紺の瞳を細めた。
ガルディニアの神聖魔力。
大聖堂の金庫を破り、数日前に帝都から姿を消したはずの、あの男の顔が脳裏に浮かび上がる。
「招かれざる客……いえ、飛び切り極上の手土産を持った『迷い犬』が、ようやく辿り着いたようね」
ヴァレリアの唇が、妖艶な笑みを刻む。
黒曜宮の正面門の向こう側――神を捨てた背教の大神官が、自らの魂を捧げるために、すぐそこまで迫っていた。




