第9話 燃やされる前に
ケラー商会の倉庫から、煙が上がっていた。
川沿いの通りに馬を乗り入れた瞬間、私はそれを見た。二階の窓から、細い煙が夜空へ立ちのぼっている。火事ではない。火の勢いがない。何かを、少しずつ燃やしている煙だ。
「卿!」
「見えています」
ジークベルトが馬を降りた。私も外套の裾を掴んで飛び降りる。地面に足がついた瞬間、膝が笑った。乗馬は得意ではない。
彼は表の扉には向かわなかった。真っ直ぐ横手の路地へ入り、勝手口の前に立った。
「王国財務監査局である。開けなさい」
返事はない。中から、慌ただしく走る足音。
ジークベルトは腰の帯から一本の棒――杖のような黒い金属の棒を抜き、扉の錠に差し込んだ。二度、捻る。錠がひしゃげる音がした。
「監査局は、鍵を壊す権限を持っています」
彼は淡々と言って、扉を蹴り開けた。
◇
中は、紙の匂いと煙の匂いが混じっていた。
一階は荷置き場。木箱と麻袋が積まれ、そのあいだを男たちが走り回っている。私たちに気づいて、何人かが足を止めた。
「二階だ」
ジークベルトが階段へ向かう。私も続いた。
二階の帳場に、男が三人いた。
中央にいるのは、でっぷりとした四十がらみの男。ケラー商会の番頭、モーゼル。私は顔を知っている。何度か屋敷に来ていた。
その足元に、鉄の火鉢が置かれていた。中で、紙が燃えていた。
両脇の男が、帳簿を抱えている。今まさに火鉢へ放り込もうとしていた手が、止まっていた。
「その手を止めなさい」
ジークベルトの声は、大きくはなかった。でも、部屋を凍らせた。
「王国財務監査局。ジークベルト・アーレンス。この商会の全帳簿を押収します」
「な……なぜ、こんな夜中に」
モーゼルが唾を飲んだ。
「夜中に燃やしている者に、夜中に来た理由を問われる筋合いはありません」
ジークベルトは火鉢へ歩み寄り、外套の裾で炎を叩き消した。
煙が上がり、焦げた紙の塊が残った。
私は膝をついて、それを覗き込んだ。
半分以上が炭になっていた。でも、束の下のほうは芯が残っている。紙は厚く重ねると、意外と燃えにくい。
「卿。まだ読めます」
「触らないで」
彼は私の手を掴んで止めた。
初めて触れられた手は、思っていたより硬く、そして冷たかった。
「炭化した紙は、触れれば崩れます。板ごと持ち出します」
彼は火鉢を指した。
「モーゼル。この火鉢の中身は、あなたが燃やしたものですね」
「……ただの、古紙です」
「古紙を、夜中に、番頭自ら燃やす」
ジークベルトは書記官――いつのまにか階下から上がってきていた――に合図した。
「記録を。火鉢の位置、燃焼の状態、在室者の氏名。現況をすべて」
◇
押収は一時間続いた。
帳場の棚から、帳簿が次々と運び出される。私は床に座り込んで、運ばれる前の一冊一冊に目を通していた。
仕入帳。売上帳。得意先元帳。手形記録。
ジークベルトが横に立った。
「何を探していますか」
「うちの名前が載っている頁です」
私は頁をめくりながら答えた。
「でも、それだけでは足りません。うちへの請求は月四十八ゴルド、仕入証は三十六ゴルド。差額の十二ゴルドは、商会の帳簿の中では『何か』になっているはずです」
「なるほど」
「盗んだ金は、消えません。必ずどこかの行に書かれます。書かなければ、商会自身の帳尻が合わなくなる」
私は得意先元帳を引き寄せた。
フォークト伯爵家の頁。
月四十八ゴルドの入金が並んでいる。当然だ。うちは四十八払っている。
次に仕入帳を開いた。薬の仕入。ジギタリスの葉、乾燥品。数量と単価。
私は暗算した。
――うちに納めた分量から逆算した仕入額は、月三十六ゴルド。合っている。
では、十二ゴルドはどこへ。
私は手を止めた。
「卿。この商会の、経費の帳面はありますか」
書記官が一冊を差し出した。
経費帳。人件費、荷役賃、倉庫の維持費。
私はめくった。
そして、見つけた。
「……ここです」
私は指を置いた。
毎月、同じ日に、同じ額。
――『特別紹介料 十二ゴルド』
「紹介料」
ジークベルトが覗き込んだ。
「支払先は」
欄が空白だった。
金額だけがあって、誰に払ったかが書かれていない。
私は前後の頁をめくった。二年分、同じだ。毎月十二ゴルド、支払先空白の紹介料。
「支払先を書かない経費は、経費ではありません」
私は言った。
「これは、抜いた金を商会の帳簿から外に出すための出口です。うちから四十八取って、三十六で薬を作って、余った十二を『紹介料』として誰かに戻している」
「戻し先が空白では、証明できません」
「いいえ」
私は顔を上げた。
「商会は、この十二ゴルドを現金で渡したりしません。額が大きすぎるし、毎月続きます。必ず、支払の記録が残ります」
私は手形記録の冊子を掴んだ。
「手形か、振替の記録があるはずです。日付を合わせれば」
紙をめくる音が、静かな帳場に響いた。
毎月十五日。紹介料の計上日。
同じ日の、手形記録。
あった。
毎月十五日付、額面十二ゴルドの約束手形。振出先は、ケラー商会。
受取人の欄に、名前があった。
私は、その名を読んだ。
読んで、しばらく動けなかった。
「イレーネ嬢」
「……フォークト伯爵家、会計係。ハインツ・ベルガー」
私は言った。
うちの会計係だ。父の代からいる、痩せた無口な男。私が帳簿を書き、彼が支払の実務を回す。私が数字を記し、彼が印章を持って銀行へ行く。
私は、彼を信用していた。
三年後の裁判で、私に不利な証言をした三人目の男。
「うちの人間です」
◇
馬車で屋敷へ戻る道すがら、私は押収した経費帳を膝に抱えていた。
窓の外はまだ暗い。夜明けまで、あと二刻ほどだろうか。
「イレーネ嬢」
向かいに座ったジークベルトが言った。
「その会計係は、伯爵夫人の指示で動いていると思いますか」
「思います」
「証明できますか」
「……今は、できません」
私は正直に答えた。
「手形の受取人はベルガーです。彼が受け取った十二ゴルドが、そのあと継母に渡ったという記録は、たぶんどこにもない。現金で手渡せば、紙は残らない」
「ええ」
「だから今のままなら、ベルガーが一人で盗んでいたことになります。彼が罪をかぶって終わる」
私は膝の上で拳を握った。
これだ。これが、三年後に起きたことの縮図だ。継母は決して自分の手を汚さない。誰かに、紙の上の役割を持たせる。そして必要になったときに、その紙ごと切り捨てる。
三年後は、それが私だった。
今は、ベルガーだ。
「卿」
「はい」
「今夜、継母が番頭を呼んだのは、帳簿を燃やすためだけではないと思います」
「では、何のために」
「ベルガーを、切る相談です」
私は言った。
「監査が入って、うちの数字がおかしいと分かった。ならば、誰かが盗んでいたことにしなければならない。継母は、ベルガーに罪をかぶらせるつもりです。おそらく明日か、明後日」
ジークベルトは黙って聞いていた。
「そして、その次に切るのが」
私は窓の外を見た。
東の空が、わずかに白み始めていた。
「私です」
◇
屋敷の門をくぐったのは、夜明け前だった。
馬車を降りると、玄関ホールに灯りがついていた。
こんな時間に。
私は嫌な予感がして、扉を押した。
ホールの中央に、継母アデーレが立っていた。
寝間着ではない。きちんと外出用のドレスを着て、髪を結い上げている。一晩中起きていた顔だ。
その隣に、会計係のハインツ・ベルガーがいた。
痩せた男は、床に膝をついていた。
両手を床につき、頭を下げている。私の目には、殴られた跡のような赤みが、頬に見えた。
「イレーネ」
継母が、こちらを見て微笑んだ。
美しい、悲しげな微笑だった。
「見つかりましたわ。犯人が」
彼女は、床の男を指した。
「ベルガーが、白状しましたの。ずっと家の金を盗んでいたと。ああ、恐ろしい。先代からいる者を、私、信じきっておりましたのに」
ベルガーは顔を上げなかった。
継母は私に歩み寄り、両手で私の手を取った。
温かい手だった。
「もういいのよ、イレーネ。あなたが疑われることは、もうないわ」
彼女の指が、私の手を強く握った。
その力の強さだけが、彼女の本音だった。
「――これで、監査は終わりですわね? アーレンス卿」




