第10話 差額十二ゴルド
ジークベルトは扉のところで立ち止まったまま、動かなかった。夜通しの押収で外套の裾が焦げている。その姿で、彼は床の男を見た。
「ハインツ・ベルガー」
「……はい」
「顔を上げなさい」
ベルガーが、のろのろと顔を上げた。左の頬が腫れている。唇の端が切れて、乾いた血がこびりついていた。
「自白したと伺いました。何を、いつから、どのように盗んだのか、述べてください」
「金を、盗みました。三年、前から」
「金額は」
「……千二百、ゴルドです」
私の内側が、冷たくなった。
千二百。三年後、私に着せられた額と、寸分違わない。
この数字は、この家の誰かが「これを盗まれたことにする」と決めた数字なのだ。犯人が誰であれ、額だけは動かない。用意された器に、名前だけを入れ替えて放り込む。
三年後は、そこに私の名前が入った。
「どうやって盗みましたか」
「帳簿の、数字を」
「あなたは帳簿を書いていませんね」
ベルガーの喉が鳴った。
「……書き換え、ました。夜に。書斎に忍び込んで」
「帳簿は誰が保管していますか」
「……お嬢様が」
「では、伺います」
ジークベルトが一歩、前に出た。
「三年間、毎晩のように書斎に忍び込み、令嬢の筆跡を真似て数字を書き換え、一度も気づかれなかった。そういうことですか」
「……はい」
「筆跡を真似られるなら、なぜ蝋の値を市場価格に合わせなかったのですか」
ベルガーが、口を開いたまま止まった。
「盗むために数字を膨らませるなら、膨らませすぎては見つかります。あなたは月十一ゴルドと書いた。市場の値は月四ゴルド八十グロート。二・三倍です。帳簿を読める人間が一度でも市場を調べれば、即座に露見する。実際、令嬢は三日で露見させました」
彼は書類を持ち上げた。
「三年間ばれずに盗み続けられるほど巧妙な人物が、三日で見破られる稚拙な数字を書きますか」
継母の顔から、微笑みが消えた。
消えたのは一瞬で、すぐに戻った。でも、私はその一瞬を見た。
「アーレンス卿。この者は自ら罪を認めておりますのよ」
「認めた内容が事実と整合しません」
「盗人の言うことに整合を求めても」
「求めます」
ジークベルトの声が、初めて硬くなった。
「虚偽の自白は、真犯人を逃がします。監査局は、罪を誰かに置くために来たのではない。金がどこへ行ったかを追うために来ました」
彼は書記官を振り返った。
「経費帳を」
◇
ホールの中央に、椅子が一脚運ばれた。
その上に、ジークベルトはケラー商会の経費帳を開いて置いた。誰もが見える高さに。
「イレーネ嬢。ご説明を」
私は前に出た。
継母が私を見た。手を握ったときの、あの強い力を思い出す。
――大丈夫。
私は帳面の頁に指を置いた。
「ケラー商会の経費帳です。毎月十五日、同じ額が計上されています。特別紹介料、十二ゴルド」
私は指を横へ滑らせた。
「支払先の欄は、空白です。二年分、すべて」
「それが何だと」
「うちが商会に払っている薬代は、月四十八ゴルド。商会が実際に薬を作るのに使っているのは三十六ゴルド。差額は十二ゴルド」
私は顔を上げた。
「同じ十二です。うちから抜かれた額が、そのまま商会の帳簿を通って、支払先の書かれていない出口から出ていっています」
ホールが静まった。使用人たちが階段の上や柱の陰から見ているのが分かる。
「そして」
私は手形記録の冊子を開いた。
「その十二ゴルドの、実際の支払記録です。毎月十五日付、額面十二ゴルドの約束手形」
私は受取人の欄を、ホールの全員に見えるように掲げた。
「受取人、ハインツ・ベルガー」
床の男が、びくりと震えた。
「まあ」
継母が両手で口を覆った。
「やはりこの者が」
「お義母様」
私は言った。
「まだ終わっていません」
私は経費帳を閉じ、別の紙束を取り出した。監査局が銀行から取り寄せた、王都商業銀行の入出金記録。夜のうちにジークベルトが手配したものだ。
「ベルガーの口座の記録です。毎月十六日、十二ゴルドの入金があります。手形の翌日。ここまでは、彼が受け取ったことの証明です」
「ですから、この者が――」
「その、十七日を見てください」
私は指を置いた。
「入金の翌日、同じ口座から、十一ゴルド八十グロートが引き出されています。二年間、毎月」
私は顔を上げた。
「受け取った額の、ほぼ全額。ベルガーの手元に残るのは二十グロート。銅貨で二十枚です」
誰かが、息を呑む音がした。
「三年で千二百ゴルドを盗んだ人間の取り分が、月に二十グロート。彼の給金は月に三ゴルド。盗んだ額より給金のほうが多い」
私はベルガーを見た。
痩せた男は、床を見つめていた。
「ベルガーさん」
私は言った。
声が、少し掠れた。
「あなたは、盗んでいません。運んでいたんです」
ベルガーの肩が、震え始めた。
「引き出したお金を、誰に渡していましたか」
彼は答えなかった。
「言えないのは、家族がいるからですね」
彼の頭が、跳ねるように上がった。
その目に浮かんでいたものを、私は一生忘れないと思う。恐怖と、驚きと、そして――赦されるかもしれない、という、ほとんど痛みに近い光。
「あなたには奥さんと、娘さんがいる。娘さんは去年、王都の縫製工房に勤めに出た。あなたの紹介で。紹介したのは、お義母様です」
私は継母を見なかった。ベルガーだけを見ていた。
「言えば、娘さんの職がなくなる。あるいは、もっと悪いことになる。だから、あなたは自分が盗んだことにした」
「……お嬢様」
男の声が崩れた。
「私は、私は、坊ちゃまの薬のことは、知らなかったのです」
彼は床に額をこすりつけた。
「金だけだと。金だけを運ぶのだと。薬の中身が薄められていると知ったのは、つい先月で、それで、それで私は――」
「先月、何をしましたか」
「……夫人に、やめてくださいと申し上げました」
ホールが、凍った。
「そうしたら、娘の工房に監督が変わったと」
私は目を閉じた。
開いた。
「アーレンス卿」
「はい」
「ベルガーさんの証言を、記録してください。監査局の保護のもとで」
「すでに書記が取っています」
ジークベルトが言った。
「そして、ハインツ・ベルガー」
「……はい」
「監査局は、あなたを金銭の授受における従犯として立件します。刑は軽くありません。ただし、指示者について正確な証言を行った場合、量刑において考慮されます」
彼は続けた。
「また、あなたの家族については、監査局の権限で王都治安隊に保護を要請します。今日中に」
ベルガーが、声を上げて泣き始めた。
◇
「――お待ちなさい」
継母の声が、鋭くなった。
もう微笑んでいなかった。
「アーレンス卿。あなた、この家の使用人ひとりの言葉で、伯爵夫人を疑うおつもり?」
「疑っておりません」
ジークベルトは静かに言った。
「現時点で、夫人を犯人と断定する証拠はありません」
継母の唇が、勝ち誇るように緩んだ。
「ですから」
彼は書類を一枚、掲げた。
「本日付で、フォークト伯爵家の財務執行権の一時停止を、監査局の名において通告します」
「……なんですって」
「王国財務規律法第二十二条。監査対象家において、支払承認者が不正の疑いの中心にある場合、監査局は当該家の印章使用を凍結できます」
彼は淡々と読み上げた。
「本日以降、フォークト伯爵家の一切の支払は、監査局の副署なしには執行できません。伯爵夫人の印章は、本日をもって効力を失います」
継母の顔が、白くなった。
「印章を、お預かりします」
ジークベルトが手を差し出した。
ホールの誰も、動かなかった。
長い、長い数秒があった。
やがて継母は、震える手で、腰の飾り袋から印章を取り出した。
金の握りのついた、伯爵夫人の印。
それが、ジークベルトの掌に落ちた。
乾いた音がした。
「ありがとうございます」
彼は言った。
「なお、会計係ハインツ・ベルガーは本日付で解任、身柄は監査局が預かります。後任の会計実務は、当面――」
彼は私を見た。
「イレーネ嬢に、監査局の監督下で担当していただきます」
私は継母を見た。
彼女も、私を見ていた。
その目には、もう悲しみも、優しさも、微笑みもなかった。
ただ、剥き出しの憎悪だけがあった。
私は、深く頭を下げた。
「お義母様。ご心配なく」
顔を上げて、私は言った。
「――家の帳簿は、私が責任をもってお預かりします」




