↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
巻き戻った令嬢の帳簿には、私を殺した全員の名前が載っている  作者: やまご


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/50

第10話 差額十二ゴルド

 ジークベルトは扉のところで立ち止まったまま、動かなかった。夜通しの押収で外套の裾が焦げている。その姿で、彼は床の男を見た。


「ハインツ・ベルガー」


「……はい」


「顔を上げなさい」


 ベルガーが、のろのろと顔を上げた。左の頬が腫れている。唇の端が切れて、乾いた血がこびりついていた。


「自白したと伺いました。何を、いつから、どのように盗んだのか、述べてください」


「金を、盗みました。三年、前から」


「金額は」


「……千二百、ゴルドです」


 私の内側が、冷たくなった。


 千二百。三年後、私に着せられた額と、寸分違わない。


 この数字は、この家の誰かが「これを盗まれたことにする」と決めた数字なのだ。犯人が誰であれ、額だけは動かない。用意された器に、名前だけを入れ替えて放り込む。


 三年後は、そこに私の名前が入った。


「どうやって盗みましたか」


「帳簿の、数字を」


「あなたは帳簿を書いていませんね」


 ベルガーの喉が鳴った。


「……書き換え、ました。夜に。書斎に忍び込んで」


「帳簿は誰が保管していますか」


「……お嬢様が」


「では、伺います」


 ジークベルトが一歩、前に出た。


「三年間、毎晩のように書斎に忍び込み、令嬢の筆跡を真似て数字を書き換え、一度も気づかれなかった。そういうことですか」


「……はい」


「筆跡を真似られるなら、なぜ蝋の値を市場価格に合わせなかったのですか」


 ベルガーが、口を開いたまま止まった。


「盗むために数字を膨らませるなら、膨らませすぎては見つかります。あなたは月十一ゴルドと書いた。市場の値は月四ゴルド八十グロート。二・三倍です。帳簿を読める人間が一度でも市場を調べれば、即座に露見する。実際、令嬢は三日で露見させました」


 彼は書類を持ち上げた。


「三年間ばれずに盗み続けられるほど巧妙な人物が、三日で見破られる稚拙な数字を書きますか」


 継母の顔から、微笑みが消えた。


 消えたのは一瞬で、すぐに戻った。でも、私はその一瞬を見た。


「アーレンス卿。この者は自ら罪を認めておりますのよ」


「認めた内容が事実と整合しません」


「盗人の言うことに整合を求めても」


「求めます」


 ジークベルトの声が、初めて硬くなった。


「虚偽の自白は、真犯人を逃がします。監査局は、罪を誰かに置くために来たのではない。金がどこへ行ったかを追うために来ました」


 彼は書記官を振り返った。


「経費帳を」


    ◇


 ホールの中央に、椅子が一脚運ばれた。


 その上に、ジークベルトはケラー商会の経費帳を開いて置いた。誰もが見える高さに。


「イレーネ嬢。ご説明を」


 私は前に出た。


 継母が私を見た。手を握ったときの、あの強い力を思い出す。


 ――大丈夫。


 私は帳面の頁に指を置いた。


「ケラー商会の経費帳です。毎月十五日、同じ額が計上されています。特別紹介料、十二ゴルド」


 私は指を横へ滑らせた。


「支払先の欄は、空白です。二年分、すべて」


「それが何だと」


「うちが商会に払っている薬代は、月四十八ゴルド。商会が実際に薬を作るのに使っているのは三十六ゴルド。差額は十二ゴルド」


 私は顔を上げた。


「同じ十二です。うちから抜かれた額が、そのまま商会の帳簿を通って、支払先の書かれていない出口から出ていっています」


 ホールが静まった。使用人たちが階段の上や柱の陰から見ているのが分かる。


「そして」


 私は手形記録の冊子を開いた。


「その十二ゴルドの、実際の支払記録です。毎月十五日付、額面十二ゴルドの約束手形」


 私は受取人の欄を、ホールの全員に見えるように掲げた。


「受取人、ハインツ・ベルガー」


 床の男が、びくりと震えた。


「まあ」


 継母が両手で口を覆った。


「やはりこの者が」


「お義母様」


 私は言った。


「まだ終わっていません」


 私は経費帳を閉じ、別の紙束を取り出した。監査局が銀行から取り寄せた、王都商業銀行の入出金記録。夜のうちにジークベルトが手配したものだ。


「ベルガーの口座の記録です。毎月十六日、十二ゴルドの入金があります。手形の翌日。ここまでは、彼が受け取ったことの証明です」


「ですから、この者が――」


「その、十七日を見てください」


 私は指を置いた。


「入金の翌日、同じ口座から、十一ゴルド八十グロートが引き出されています。二年間、毎月」


 私は顔を上げた。


「受け取った額の、ほぼ全額。ベルガーの手元に残るのは二十グロート。銅貨で二十枚です」


 誰かが、息を呑む音がした。


「三年で千二百ゴルドを盗んだ人間の取り分が、月に二十グロート。彼の給金は月に三ゴルド。盗んだ額より給金のほうが多い」


 私はベルガーを見た。


 痩せた男は、床を見つめていた。


「ベルガーさん」


 私は言った。


 声が、少し掠れた。


「あなたは、盗んでいません。運んでいたんです」


 ベルガーの肩が、震え始めた。


「引き出したお金を、誰に渡していましたか」


 彼は答えなかった。


「言えないのは、家族がいるからですね」


 彼の頭が、跳ねるように上がった。


 その目に浮かんでいたものを、私は一生忘れないと思う。恐怖と、驚きと、そして――赦されるかもしれない、という、ほとんど痛みに近い光。


「あなたには奥さんと、娘さんがいる。娘さんは去年、王都の縫製工房に勤めに出た。あなたの紹介で。紹介したのは、お義母様です」


 私は継母を見なかった。ベルガーだけを見ていた。


「言えば、娘さんの職がなくなる。あるいは、もっと悪いことになる。だから、あなたは自分が盗んだことにした」


「……お嬢様」


 男の声が崩れた。


「私は、私は、坊ちゃまの薬のことは、知らなかったのです」


 彼は床に額をこすりつけた。


「金だけだと。金だけを運ぶのだと。薬の中身が薄められていると知ったのは、つい先月で、それで、それで私は――」


「先月、何をしましたか」


「……夫人に、やめてくださいと申し上げました」


 ホールが、凍った。


「そうしたら、娘の工房に監督が変わったと」


 私は目を閉じた。


 開いた。


「アーレンス卿」


「はい」


「ベルガーさんの証言を、記録してください。監査局の保護のもとで」


「すでに書記が取っています」


 ジークベルトが言った。


「そして、ハインツ・ベルガー」


「……はい」


「監査局は、あなたを金銭の授受における従犯として立件します。刑は軽くありません。ただし、指示者について正確な証言を行った場合、量刑において考慮されます」


 彼は続けた。


「また、あなたの家族については、監査局の権限で王都治安隊に保護を要請します。今日中に」


 ベルガーが、声を上げて泣き始めた。


    ◇


「――お待ちなさい」


 継母の声が、鋭くなった。


 もう微笑んでいなかった。


「アーレンス卿。あなた、この家の使用人ひとりの言葉で、伯爵夫人を疑うおつもり?」


「疑っておりません」


 ジークベルトは静かに言った。


「現時点で、夫人を犯人と断定する証拠はありません」


 継母の唇が、勝ち誇るように緩んだ。


「ですから」


 彼は書類を一枚、掲げた。


「本日付で、フォークト伯爵家の財務執行権の一時停止を、監査局の名において通告します」


「……なんですって」


「王国財務規律法第二十二条。監査対象家において、支払承認者が不正の疑いの中心にある場合、監査局は当該家の印章使用を凍結できます」


 彼は淡々と読み上げた。


「本日以降、フォークト伯爵家の一切の支払は、監査局の副署なしには執行できません。伯爵夫人の印章は、本日をもって効力を失います」


 継母の顔が、白くなった。


「印章を、お預かりします」


 ジークベルトが手を差し出した。


 ホールの誰も、動かなかった。


 長い、長い数秒があった。


 やがて継母は、震える手で、腰の飾り袋から印章を取り出した。


 金の握りのついた、伯爵夫人の印。


 それが、ジークベルトの掌に落ちた。


 乾いた音がした。


「ありがとうございます」


 彼は言った。


「なお、会計係ハインツ・ベルガーは本日付で解任、身柄は監査局が預かります。後任の会計実務は、当面――」


 彼は私を見た。


「イレーネ嬢に、監査局の監督下で担当していただきます」


 私は継母を見た。


 彼女も、私を見ていた。


 その目には、もう悲しみも、優しさも、微笑みもなかった。


 ただ、剥き出しの憎悪だけがあった。


 私は、深く頭を下げた。


「お義母様。ご心配なく」


 顔を上げて、私は言った。


「――家の帳簿は、私が責任をもってお預かりします」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。