第11話 朱を入れる
伯爵夫人の印章が凍結されて、三日が経った。
屋敷は静かだった。不気味なほどに。
継母は部屋から出てこない。食事を運ばせ、扉を閉め、誰とも会わない。使用人たちは廊下で声をひそめ、私とすれ違うたびに、迷った顔で頭を下げるようになった。
この家の風向きが変わったことを、誰もが感じている。まだ、どちらに変わったのかを見極めかねている。
私は書斎にいた。
机の上には、監査局から戻された伯爵家の帳簿。そして、白紙の新しい綴じ帳。
「イレーネ嬢」
ジークベルトが向かいの椅子に座り、書類を広げていた。この三日、彼はこの部屋を離れていない。監査局から人が二人増え、東棟の空き部屋が作業場になっている。
「本日から、当家の支払は監査局の副署制になります。手順を確認します」
「はい」
「まず貴女が支払指図書を起こす。私が内容を確認し、副署する。銀行はその二つが揃わなければ払い出しません」
「私が不正を書いたら」
「私が止めます」
「あなたが見落としたら」
「貴女が指摘してください」
彼は書類から目を上げずに言った。
「二人が同時に間違える確率は、一人が間違える確率よりはるかに低い。それが副署の意味です」
私は少し笑った。
「信用ではなく、確率ですか」
「信用は確率の別名です」
彼は真顔で言った。冗談を言っているのかどうか、いまだに分からない。
私は羽ペンを取り、最初の支払指図書を書き始めた。
燭台の蝋、月六十ポンド。単価八グロート。合計四ゴルド八十グロート。
三年後、この数字を書けなかった。書いていたのは十一ゴルドという嘘の数字で、そこに私の筆跡が残り、それが私を殺した。
今、私は本当の数字を書いている。
指が、少しだけ震えた。
「イレーネ嬢」
「はい」
「震えるなら、書き終えてからにしてください。数字がぶれます」
「……厳しいのですね」
「帳簿は厳しいものです」
私は息を吸って、吐いた。
そして、はっきりとした線で、四ゴルド八十グロートと書いた。
◇
「さて、ケラー商会です」
午後、ジークベルトは押収した帳簿の山を机に積んだ。商会の二階から運び出した、二年分の記録すべて。
「現状で判明していることを整理します。ひとつ、商会は薬を規定の三分の一に薄めていた。ふたつ、増量剤として鉛白を混入していた。みっつ、差額十二ゴルドを毎月、支払先空白の紹介料として計上し、ベルガー宛の手形で外へ出していた」
「はい」
「この三点で、商会を潰せると思いますか」
私は考えた。
「……潰せないと思います」
「なぜ」
「どれも、商会が『知らなかった』と言える余地があるからです」
私は指を折った。
「薬を薄めたのは、職人が勝手にやったこと。鉛白は仕入先の粗悪品が混ざったもの。紹介料はベルガー個人との取引で、伯爵家とは無関係。番頭のモーゼルが全部かぶれば、商会本体は残ります」
「その通りです」
ジークベルトは頷いた。
「商会というのは、そういうふうに作られています。切り離せる部品を用意しておいて、危なくなれば切る。ベルガーと同じ構造です」
私は帳簿の山を見た。
「では、切り離せないものを探すしかありませんね」
「たとえば」
「――許認可です」
私は言った。
「薬を扱う商会は、王国薬事局の免許が要ります。免許は商会本体に紐づいていて、番頭個人には紐づかない」
「よくご存じですね」
「うちの御用商会ですから。毎年、免許の更新料をうちが立て替えています。帳簿に載っています」
私は該当の頁を開いた。
「毎年、第五の月。更新料十五ゴルド」
ジークベルトが身を乗り出した。
「イレーネ嬢。免許の更新には、何が必要かご存じですか」
「詳しくは」
「調剤の記録です」
彼は言った。
「薬事局に、一年分の調剤記録を提出する。何を、どれだけ、誰に納めたか。処方の内容と分量を含めて」
私は、思わず立ち上がった。
「――届け出た調剤記録と、実際に納めた薬の中身を突き合わせれば」
「商会本体の虚偽申告になります」
ジークベルトの目が、わずかに光った。
「番頭個人には逃げられない。免許を持っているのは商会だからです」
◇
薬事局への照会は、その日のうちに出された。
返答が来たのは、二日後の朝だった。
ジークベルトが封を切り、中を読み、そして――珍しく、少し長く沈黙した。
「どうでした」
彼は書類をこちらへ回した。
私は読んだ。
ケラー商会が薬事局へ提出した、直近一年分の調剤記録。フォークト伯爵家向け、強心薬。処方はジギタリス葉の煎剤。規定濃度。月一瓶。
規定濃度、と書かれていた。
実際は三分の一だった。
「虚偽です」
私は言った。
「はっきりと」
「ええ。ただ」
ジークベルトが、指で書類の下部を示した。
「提出者の署名を見てください」
私は目を落とした。
そこにあったのは、番頭モーゼルの名ではなかった。
――ケラー商会代表、ヨハン・ケラー。
その下に、もうひとつ。
――監修、王立薬事局主席審査官 エルンスト・ヴァイマー
「……審査官の署名?」
「調剤記録は、薬事局の審査官が内容を確認して、副署します。形式上の手続きです」
ジークベルトは静かに言った。
「つまり、この虚偽記録は、薬事局の審査官が目を通したうえで受理されています」
私の背が冷えた。
「見落としでしょうか」
「そうかもしれません」
彼は書類を戻した。
「ですが、ヴァイマー審査官は、過去五年でケラー商会の申請をすべて担当しています。他の審査官が一度も入っていない」
「……偶然ではない」
「偶然かもしれません。まだ分かりません」
彼は書類を封筒に戻した。
「ですが、これで話が家の外へ出ました」
彼は私を見た。
「イレーネ嬢。ここから先は、伯爵家の内輪の不正ではありません。王国の官吏が関わっている可能性がある。危険になります」
私は、彼の顔を見返した。
三年後、私を殺した仕掛けの全体像。継母がいて、ヴィルヘルムがいて、その先に第二王子がいた。私はずっと、それが一直線に繋がっていると思っていた。
違った。
繋がっていたのではない。網だったのだ。薬事局にも、監査を止める手が伸びていた。だから三年後、私の訴えはどこにも届かなかった。
「卿」
「はい」
「私は、降りません」
「理由を伺っても」
私は少し迷って、答えた。
「弟が、まだ生きているからです」
ジークベルトの手が、止まった。
「まだ、というのは」
しまった、と思った。
言葉を選び損ねた。まだ生きている、なんて、普通の姉は言わない。
「……病が重いので。いつまで持つか分からないという意味です」
嘘ではない。でも、本当でもない。
ジークベルトは、しばらく私を見ていた。
灰色の目が、私の表情をひとつずつ確かめるように動いた。
そして、彼は何も言わずに、書類に戻った。
――追及しなかった。
いつも、そうだ。この人は、私が答えたくない場所を正確に見つけて、そして、そこで止まる。
止まったまま、忘れない。私はそれを知っている。
「イレーネ嬢」
「はい」
「ヴァイマー審査官の照会は、私が局を通して行います。貴女は薬事局に近づかないでください」
「なぜです」
「貴女が近づけば、貴女が狙われるからです」
彼は顔を上げなかった。
「貴女には、まだやることがあります。この家の三年分の帳簿を、正しい形に直すこと。それは貴女にしかできない」
「……卿」
「なんでしょう」
「私を、守ろうとしていますか」
ペンの音が、止まった。
ジークベルトは、顔を上げた。
「守っていません」
彼は言った。
「役割を分けているだけです。貴女が倒れれば、この監査は成立しません。代わりがいない」
その言い方が、あまりにもこの人らしくて。
私は、思わず笑ってしまった。
笑ってから、自分が笑ったことに驚いた。
三年ぶりだった。声を出して笑ったのは。
ジークベルトが、少し不思議そうに私を見ていた。
「何かおかしいことを言いましたか」
「いいえ」
私は首を振った。
「――代わりがいない、と言われたのが、初めてだったので」
◇
その夜。
私は弟の部屋にいた。
レオは寝台の上で、木彫りの馬を握って眠っていた。私が昨日、市場で買ってやったものだ。薬を替えて十日。今日、この子は初めて自分で寝台を降りて、窓辺まで歩いた。
私は弟の額に触れた。
熱はない。
窓の外で、馬の蹄の音がした。
私は顔を上げ、カーテンの隙間から外を見た。
裏門に、馬車が停まっていた。あの黒い、紋章のない馬車。
降りてきたのは、女だった。
黒いドレスに、黒いショール。頭を布で覆っている。それでも、私にはすぐに分かった。
継母だ。
部屋から一歩も出ないはずの、伯爵夫人。
彼女は馬車に乗り込み、扉が閉まった。
馬車は、北へ向かった。




