第12話 北へ行く馬車
夜の街道に、馬の蹄の音が響いていた。
私たちは充分に距離を取っている。前方の闇に、黒い馬車の後尾灯がひとつ、揺れながら遠ざかっていく。
「近づきすぎです」
御者台のジークベルトが、手綱を引いた。
私は幌の下から身を乗り出していた。
「見失います」
「見失いません。この街道は、次の分岐まで四里ありません」
彼は前を見たまま言った。
「イレーネ嬢。中に戻ってください。顔を出せば、向こうの御者に見られます」
私は渋々、幌の下に引っ込んだ。
馬車といっても、監査局が使う荷馬車だ。座席はなく、床に麻布が敷いてあるだけ。揺れがそのまま尻に来る。
書記官のヴェルナーが、私の向かいで膝を抱えていた。この若い書記官は、ここ数日でようやく私の顔を見て話すようになった。
「お嬢様。……本当によろしいのですか」
「何が」
「その、伯爵夫人は、お嬢様のお義母上でしょう」
「ええ」
「跡をつけているのが知れたら、家の中がどうなるか」
私は少し考えた。
「もう、どうにもならないところまで来ているわ」
◇
馬車は北の街道を進み、二刻ほどで街道を外れた。
脇道の先に、灯りが見えた。
石造りの、大きな建物。街道沿いの宿場ではない。もっと古い、もっと重い建物だった。私は幌の隙間から目を凝らした。
屋根の上に、風見のような細長い塔。壁に彫られた紋章。
二つの剣と、月桂樹。
「ローゼンタール侯爵家の狩猟館です」
ジークベルトが馬を止めた。
「本邸ではありません。人目を避けたい会合に使う場所です」
「よくご存じですね」
「監査局は、貴族の別邸の位置を全部把握しています。金の動く場所ですので」
彼は荷馬車を木立の陰に入れた。
黒い馬車が、館の前で停まった。継母が降りる。館の扉が開き、灯りが漏れた。
その光の中に、人影が立っていた。
ヴィルヘルムだ。
継母が階段を上がる。二人が言葉を交わす。距離があって声は聞こえない。
でも、私は見た。
ヴィルヘルムが、継母に向かって深く頭を下げた。
貴族の子息が、他家の夫人に。しかも人目のない場所で。
あれは、礼儀ではない。
――謝罪だ。
扉が閉まった。
「イレーネ嬢」
ジークベルトが小声で言った。
「あの二人は、今、仲が良くありません」
「分かりますか」
「ええ。あの頭の下げ方は、失点を認めた者の下げ方です」
彼は木立の奥へ荷馬車を進めた。
「先日、私はローゼンタール子息に三日以内の書面提出を通告しました。彼は融資額を九分の一に偽り、それが露見した。伯爵夫人にとっては、味方が下手を打った形になります」
「共同戦線に、ひびが」
「入っています」
私の頭が、急に冴えた。
三年後、この二人は最後まで手を組んでいた。裁判で継母が泣き、ヴィルヘルムが証言し、二人の言葉は一度も食い違わなかった。完璧に噛み合っていた。
なぜか。
――時間があったからだ。三年かけて、二人は擦り合わせを終えていた。
今は違う。今の二人は、まだ揉めている最中だ。
「卿。今のうちに、どちらかを崩せませんか」
「どちらを」
「ヴィルヘルム様です」
私は言った。
「お義母様は崩れません。あの人は、追い詰められても自分の非を認めない。でもヴィルヘルム様は、爵位を惜しむ人です。惜しむものがある人は、取引に応じます」
ジークベルトが、ちらりと私を見た。
「貴女は、婚約者を売るつもりですか」
「はい」
私は即答した。
自分の声の平坦さに、少しだけ驚いた。
三年後、この人は私を売った。私が牢の壁に爪を立てて泣いていたあいだ、彼はどこかで爵位の相続手続きを進めていた。
同じことを返すだけだ。それだけのことに、私はもう、何も感じない。
「……イレーネ嬢」
「はい」
「今の返事は、早すぎます」
ジークベルトが手綱を引いて、馬車を止めた。
木立の中は暗かった。彼の顔は影になって見えない。
「人が婚約者を売ると決めるまでには、普通、迷いがあります。何日か眠れずに、何度か考え直して、それでも決める。貴女には、それがない」
私は黙った。
「貴女は、決めるのが早すぎる」
彼の声は、責めているようには聞こえなかった。
だからこそ、逃げ場がなかった。
「もう終わった話を、二度目に決めているように見えます」
息が、止まった。
闇の中で、私は自分の心臓の音を聞いていた。
この人は、気づいている。何に気づいているのかは分かっていない。でも、私が何かを「知っている」ことには、とっくに気づいている。
言えるはずがない。私は一度処刑された、三年後から戻ってきた、なんて。
言えば、この人は私を病人として扱う。監査から外す。そうしたら、弟は。
「……卿」
私は声を出した。
「いつか、話します」
ジークベルトが、こちらを向いた。
「いつか、とは」
「全部が終わったら」
私は言った。
「今は言えません。言えば、あなたは私を信じられなくなる。信じられなくなった監査官は、私の数字を採用できなくなる。それは、この監査にとって損です」
沈黙。
やがて、ジークベルトが小さく息を吐いた。
「――損得で説得されたのは、初めてです」
「効きましたか」
「効きました」
彼は手綱を握り直した。
「ですが、覚えておいてください。イレーネ嬢」
「はい」
「私は、貴女を信じられなくなることを、恐れていません」
彼は前を向いた。
「恐れているのは、貴女が誰にも言えないまま、ひとりで終わることです」
◇
館から馬車が出てきたのは、一刻ほど後だった。
継母を乗せた馬車は、来た道を戻っていった。
私たちは追わなかった。ジークベルトが、そのまま木立の中で待ったからだ。
「なぜ追わないのですか」
「もう一台、出てくるからです」
その言葉どおり、四半刻後、館の裏手から二台目の馬車が出た。
小さな、荷馬車のような車だ。灯りもつけずに、街道とは反対の方向――東へ向かって走り出した。
「あちらを追います」
ジークベルトが手綱を鳴らした。
「なぜ、あちらを」
「灯りをつけていないからです」
彼は言った。
「貴族は夜、灯りをつけて走ります。事故を避けるためと、身分を示すためです。灯りを消して走る馬車は、二種類しかない」
「二種類」
「盗人と、運び屋です」
◇
馬車は東へ一里ほど走り、川べりの小屋の前で停まった。
降りてきたのは、男が二人。荷を運び出している。木箱だ。二人がかりで持つ、それなりの重さ。
私は目を凝らした。
月明かりに、木箱の側面が見えた。
焼き印。天秤と、麦の穂。
「ケラー商会」
私は呟いた。
「押収されたはずでは」
「押収したのは帳簿と、店にあった在庫です」
ジークベルトが低い声で言った。
「別の場所に、別の在庫があった」
男たちは木箱を小屋へ運び入れ、扉を閉めた。しばらくして、二人は馬車で去っていった。
小屋には灯りがない。
「行きます」
ジークベルトが荷馬車を降りた。
「卿、危険では」
「これは押収財の隠匿です。現行犯なら、令状は要りません」
私も降りた。ヴェルナーが慌てて続く。
小屋の扉に錠はなかった。押すと、軋みながら開いた。
中は、埃と、薬草の匂いがした。
ジークベルトが手燭を掲げた。
――木箱が、積まれていた。
小屋の奥まで、天井近くまで。数えられないほど。
私は近づいて、一番上の箱の蓋に手をかけた。釘は打たれていない。持ち上がった。
中に、薬瓶が並んでいた。
褐色のガラス瓶。首に蝋の封。天秤と麦の穂の紋章。
弟が飲んでいたのと、同じ瓶。
私は一本を手に取った。
そして、箱の内側に貼られた荷札を見た。
行き先が書いてある。
――王都南部、聖アグネス救貧院。
私は次の箱を開けた。
――王都東部、聖マルタ孤児院。
次。
――北部治療院。
私の手が、震え始めた。
弟ひとりではなかった。
薄められた薬は、金を払える伯爵家だけでなく、金を払えない者たちのところへ、もっと大量に流れていた。
救貧院。孤児院。治療院。
誰も帳簿を確かめない場所へ。誰も声を上げられない人たちのところへ。
「イレーネ嬢」
ジークベルトの声が、遠くに聞こえた。
「箱の数を数えてください」
私は顔を上げた。
彼は手燭を掲げたまま、微動だにせず立っていた。
その顔から、いつもの無表情が消えていた。
怒っている。
この人が怒るところを、私は初めて見た。
「――数えて、記録します」
私は言った。
声が震えていた。震えたまま、私は続けた。
「一箱ずつ、全部です。行き先も、瓶の数も、封の状態も」
私は箱に手をかけた。
「朝までかかっても、終わらせます」




