第13話 数えるという仕事
箱は、二百七十四あった。
夜が明けるまでに数え終えたのは、そのうち百六十だった。手燭の油が切れかけ、指はささくれ、腰は感覚がなくなっていた。それでも私は数え続けた。
数えるという行為には、不思議な力がある。
怒りは、数えているあいだは暴れない。悲しみも、数えているあいだは待ってくれる。ただ手を動かして、瓶を数えて、行き先を書き写す。その繰り返しの中でだけ、私は正気でいられた。
「イレーネ嬢」
ジークベルトが、私の手元に紙を置いた。
「交代します。少し眠ってください」
「あと百十四箱です」
「三日かかっても構いません。これは逃げません」
「逃げます」
私は顔を上げた。
「この小屋の場所は、向こうも知っています。私たちが来たことに気づけば、今夜のうちに全部運び出されます」
「見張りは置いています」
「見張りを買収されたら」
ジークベルトが、わずかに眉を寄せた。
「……買収されたら、次の手を考えます。今の貴女は、三日後に倒れる可能性のほうが高い」
「倒れません」
「イレーネ嬢」
彼は膝をついて、私と目の高さを合わせた。
こんなに近くで顔を見たのは初めてだった。灰色の目の中に、灯りの点が小さく映っている。
「なぜ、そんなに急ぐのですか」
私は答えられなかった。
急いでいる理由は、はっきりしている。私には期限があるからだ。四百三十二年、第三の月。私が処刑された日。あと二年と七か月。
それまでに全部を終わらせなければ、また同じことが起きる。
でも、それは言えない。
「……時間が」
「時間が、なんですか」
「時間が、足りないんです」
私はそう言うのが精一杯だった。
ジークベルトは、しばらく私を見ていた。
それから立ち上がり、外套を脱いで、私の肩にかけた。
「では、こうしましょう」
彼は言った。
「箱は、私と書記が数えます。貴女は別の仕事をしてください。もっと急ぐ必要のある仕事です」
「なんでしょう」
「この二百七十四箱を、証拠として使えるようにする仕事です」
彼は小屋の中を見渡した。
「数を数えただけでは、法廷では意味がありません。この箱が、いつ、どこから来て、どこへ行くはずだったのか。それを商会の帳簿と突き合わせて、一本の線にする」
私は、外套の襟を掴んだ。
彼の言葉が、正しく響いた。
そうだ。私にしかできないのは、こっちだ。数を数えるのは誰でもできる。押収した二年分の商会帳簿を、この小屋の現物と結びつけられるのは、両方を見た人間だけ。
「……はい」
「それと」
「はい」
「眠ってから始めてください。これは監査官としての指示です」
◇
三日後の朝、私は書斎の机に、一枚の表を広げた。
ジークベルトが覗き込む。
「これは」
「照合表です」
私は言った。
縦に、隠匿されていた木箱の行き先。救貧院、孤児院、治療院、そのほか。
横に、ケラー商会の帳簿上の記録。
「ご覧ください。商会の売上帳には、救貧院向けの取引が一件も載っていません」
「一件も」
「はい。孤児院も、治療院も。二年分、ゼロです」
私は指を滑らせた。
「でも小屋には、それらの宛先の箱が二百七十四ありました。合計、薬瓶で四千二百十本」
「帳簿に載らない商売」
「もうひとつあります」
私は別の表を出した。
「商会の仕入帳です。ジギタリスの葉、二年分の仕入総量。これを、規定濃度で調剤した場合に作れる瓶の数に換算しました」
「換算値は」
「およそ二千五百本」
私は顔を上げた。
「でも、実際に商会が納めた瓶は、帳簿に載っている分だけで二千四百本。そこに、帳簿に載っていない四千二百十本が加わります。合計六千六百十本」
ジークベルトの目が、細くなった。
「二千五百本ぶんの葉で、六千六百十本を作った」
「およそ二・六倍です」
私は言った。
「三分の一に薄めていた、というハルデン翁の鑑定と、ほぼ一致します。数字の裏が取れました」
部屋が静かになった。
ジークベルトは表を手に取り、しばらく見つめていた。
「イレーネ嬢」
「はい」
「これは、決定的です」
彼は言った。
「商会は、これを職人の独断だと言い逃れできません。仕入量そのものが足りていない。足りない量で足りない薬を作り続けるには、仕入を決裁する立場の人間が、そう決めていなければ不可能です」
「代表のヨハン・ケラー」
「そして、それを見逃した薬事局の審査官」
彼は表を置いた。
「本日、薬事局へ正式に照会を出します。ヴァイマー審査官に対して」
◇
照会の返答は、来なかった。
三日待って、五日待って、来なかった。
六日目の午後、監査局から使いが来た。ジークベルトは封を切り、読み、そして――紙を握りつぶさなかった。ただ、静かに机に置いた。
「どうしました」
「照会が、止められました」
「止められた、とは」
「王立薬事局から、監査局へ回答。当該案件については、薬事局内部で調査中であるため、外部からの照会には応じられない」
私は、頭が冷えていくのを感じた。
「……内部調査を理由に、外に出さない」
「はい」
「調査は、いつ終わるのですか」
「終わりません」
ジークベルトは言った。
「この種の内部調査は、終わらせないために始めます」
私は椅子に座り込んだ。
これだ。
三年後、私の訴えが届かなかった理由。壁は一枚ではない。役所の壁は、たがいに「あちらが調査中ですので」と言い合うだけで、永遠に誰にも届かない。
私は、あのとき、この壁の前で死んだ。
「卿。上に掛け合えませんか」
「掛け合いました」
彼は淡々と言った。
「私が監査卿になってから、初めて上申書を突き返されました」
「……誰にです」
「財務局の次官です」
「その方は」
「第二王子殿下の、母方の従兄です」
私は目を閉じた。
繋がっている。やはり、繋がっている。
この国の役所は、上のほうで一本の血に結ばれている。だから私は勝てなかった。
「――卿」
私は言った。
「役所を通さない道は、ありませんか」
「といいますと」
「薬事局が動かないなら、動かざるを得なくすればいい」
私は立ち上がった。
「聖アグネス救貧院に、行かせてください」
ジークベルトが顔を上げた。
「なぜ」
「薄い薬を飲まされていた人たちがいます。二年間」
私は言った。
「その人たちが、どうなっているかを、私はまだ知りません」
◇
救貧院は、王都南部の、城壁のすぐ内側にあった。
石造りの、長い平屋。窓が小さく、壁は煤で黒ずんでいる。中庭に洗濯物が干してあり、痩せた子どもが二人、走っていた。
迎えてくれたのは、初老の修道女だった。
「監査局の方が、こんなところへ」
「シスター。ケラー商会から納入されている薬について、伺いたいことがあります」
ジークベルトの言葉に、修道女の表情が変わった。
怯えではなかった。
――疲れた顔だった。
「……ようやく、聞いてくださる方が来ましたか」
彼女は言った。
「三度、薬事局に文を出しました。二年で三度。返事は一度も」
私の胸が、締めつけられた。
「効かないのです」
修道女は、私たちを廊下へ導きながら言った。
「同じ処方のはずなのに、去年から、まるで効かない。心の臓の弱い者に飲ませても、息切れが治まらない。前は治まったのです。同じ薬で」
彼女は扉を開けた。
大部屋だった。
寝台が二列、二十床ほど並んでいる。そのほとんどに、人が横たわっていた。老人が多い。何人かは、子どもだった。
空気が、重かった。
「シスター」
私は言った。
「――ここで、この二年に亡くなった方は、何人ですか」
修道女が、私を見た。
「なぜ、そんなことを」
「記録が、ありますか」
「……あります。埋葬の記録が」
「見せてください」
私は言った。
声が、震えていた。
「お願いします。数えさせてください」
◇
帰りの馬車の中で、私は帳面を膝に置いていた。
書き写してきた数字が並んでいる。
聖アグネス救貧院、埋葬記録。
三年前、年間十一名。
二年前、年間十四名。
昨年、年間三十二名。
私は指で、その三つの数字をなぞった。
二・八倍。
「イレーネ嬢」
ジークベルトが言った。
「それは、まだ薬のせいだと断定できません。冬の寒さ、流行り病、入所者の増加。ほかの理由がありえます」
「分かっています」
私は言った。
「だから、ほかを潰します」
私は帳面をめくった。
「入所者の総数は、三年で大きく変わっていません。埋葬された方の年齢の分布も、書き写してきました。冬の死亡が突出しているかも見ます。近隣の別の救貧院――ケラー商会が納めていない救貧院の記録を取り寄せて、比べます」
私は顔を上げた。
「そこで差が出れば、それは偶然ではなくなります」
ジークベルトは、私を見ていた。
「……イレーネ嬢」
「はい」
「泣かないのですね」
私は、自分の頬に触れた。
乾いていた。
「泣いたら」
私は言った。
「この数字が、ただの可哀想な話になってしまいます」
私は帳面を閉じ、胸に抱えた。
「可哀想な話は、役所を動かせません。三度出した文が返ってこなかったのが、その証拠です」
馬車が、揺れた。
「動かせるのは、数字だけです」
私は窓の外を見た。
王都の屋根が、夕日に染まっていた。
「――だから私は、泣くのを後回しにします」




