第14話 比べるという武器
比較対象は、四つ見つかった。
王都とその近郊で、救貧院と治療院を運営している施設のうち、ケラー商会が薬を納めていないところ。聖ヨハネ救貧院、西門治療院、修道会付属の療養所が二つ。
私は五日かけて、四か所すべてを回った。
どこでも、同じことを言った。埋葬記録を見せてください、と。
断られたのは一か所だけだった。その一か所も、ジークベルトが監査局の名で正式に文書を出すと、翌日には応じた。
書き写した数字を、私は書斎の机に並べた。
「――整いました」
ジークベルトが向かいに座る。ヴェルナーがその横で、写しを取る用意をしている。
「聖アグネス救貧院。ケラー商会の納入先です」
私は表を指した。
「三年前、埋葬十一名。二年前、十四名。昨年、三十二名」
「二・九倍」
「そして、比較対象の四施設です」
私は隣の列を示した。
「聖ヨハネ救貧院。十三名、十五名、十六名。西門治療院。二十名、十八名、二十二名。修道会療養所、二か所。いずれも、三年でほぼ横ばいです」
ジークベルトが、表の上で指を止めた。
「聖アグネスだけが、跳ねている」
「はい」
「入所者数は」
「聖アグネス、三年前が九十四名、昨年が八十九名。減っています」
私は言った。
「人が減っているのに、死者が三倍近い」
「年齢の分布は」
「変わっていません。むしろ、昨年は七十歳以上の入所者が減っています」
「季節は」
「これが、いちばん大事な点です」
私は別の表を出した。
「四施設では、死者の六割から七割が冬に集中しています。寒さと肺の病です。これは例年どおり」
私は指を移した。
「聖アグネスは、昨年、冬の死者が十名。残る二十二名は、春から秋です」
部屋が、静かになった。
「冬に死んでいないのですか」
「冬にも死んでいます。例年並みに。そのうえで、暖かい季節に、二十二名が余分に死んでいます」
私は顔を上げた。
「心の臓の薬が効かない人が死ぬのは、季節を選びません」
ジークベルトは、長いあいだ表を見ていた。
やがて、彼はペンを取り、表の余白に何かを書き込んだ。
覗き込むと、それは日付だった。
――王暦四百二十七年、第九の月。
「これは」
「ケラー商会が、隠匿在庫の小屋を借りた時期です。押収した帳簿の中に、借地料の支払記録がありました」
彼は日付を指した。
「聖アグネスで死者が跳ね上がり始めるのは」
私は自分の表を確かめた。
「……四百二十七年の、第十の月からです」
翌月。
「イレーネ嬢」
ジークベルトの声が、低くなった。
「これは、統計です。証明ではない。個別の死について、薬が原因だと医学的に断定することは、我々にはできません」
「はい」
「ですが」
彼は表を持ち上げた。
「これを見た人間が『調査の必要はない』と言うのは、不可能です」
◇
問題は、誰に見せるかだった。
「薬事局は、内部調査を理由に門を閉じています。財務局の次官は、王子の縁者。監査局から上げれば、また止められます」
ジークベルトは机に肘をつき、指を組んだ。
「正面の道は、ふさがっています」
「では、横から入りましょう」
私は言った。
「卿。この国で、薬事局の予算を承認しているのはどこですか」
彼の指が、止まった。
「……王国財務局です」
「予算の執行状況を監査するのは」
「監査局です」
「では、薬事局の審査業務が正しく行われているかどうかは、監査局の管轄ではありませんか」
「――イレーネ嬢」
彼は顔を上げた。
「今、貴女は、薬事局を薬事の観点からではなく、予算執行の観点から監査せよと言っていますね」
「はい」
「薬の中身は問わない。審査官が、審査という業務を、支払われた予算に見合って遂行したかどうかだけを問う」
「ヴァイマー審査官は、五年間、ケラー商会の申請をすべて一人で担当しました」
私は言った。
「審査手当が支給されているはずです。一件いくら、あるいは年額で。彼は手当を受け取り、そして、仕入量で作れない量の調剤記録に副署しました」
私は言葉を選んだ。
「薬の話をすれば、薬事局は『調査中』と言えます。でも、予算の話になれば、それは監査局の仕事です。『調査中』では逃げられません」
ジークベルトは、しばらく黙っていた。
それから、彼は珍しく、椅子の背に深くもたれた。
「……イレーネ嬢」
「はい」
「貴女は、どこでそれを学んだのですか」
私は答えられなかった。
牢の中で、と言えるはずがない。
三年間、私はあの石の部屋で、なぜ自分の声がどこにも届かなかったのかを考え続けた。届かなかったのは、私が正しい門を叩かなかったからだ。私は「不正がある」と叫んだ。役所には、不正を受け取る窓口がなかった。あるのは、予算の窓口と、許認可の窓口と、税の窓口だけ。
叫ぶのではなく、窓口の名前で語らなければならない。
それを学ぶのに、私は三年と、自分の首を要した。
「……本を読みました」
私は言った。
「たくさん」
ジークベルトは、それ以上聞かなかった。
彼は立ち上がり、書棚から法令集を引き出した。
「王国会計監査法、第七条」
彼は頁を開いた。
「監査局は、王国予算を執行する全機関に対し、執行の適正について照会および立入監査を行うことができる。当該機関の内部調査の有無は、これを妨げない」
彼は本を閉じた。
「妨げない、と条文に書いてあります」
私は思わず、机を叩きそうになった。
「では」
「明日、薬事局に立入監査を通告します」
ジークベルトは言った。
「照会ではなく、監査です。断られません」
◇
その夜、私は久しぶりに早く床に就いた。
眠れなかった。
天井を見ていると、あの日のことばかりが浮かんでくる。処刑台の石の冷たさ。継母の唇の端。落ちてくる刃。
私は寝返りを打った。
――順調すぎる。
そう思った。
三年後には届かなかったものが、今は届いている。薬瓶の証拠が揃い、統計が揃い、監査局が動く。ジークベルトという、あの日の私にはいなかった味方がいる。
なのに、胸の奥がずっと騒いでいる。
なぜだろう。
私は起き上がり、燭台に火を入れた。
机の上に、聖アグネスの埋葬記録の写しがある。
私はもう一度、その紙を開いた。
三十二名。名前が並んでいる。年齢と、埋葬の日付と、簡単な死因。
私は指で名前をなぞっていった。
ヨナス、六十三歳。ミリアム、七十一歳。ペーター、四十四歳。エルナ、八歳。
――八歳。
私の指が、止まった。
エルナ。八歳。埋葬、第六の月十二日。死因、心の臓の衰弱。
私は、その名前を見つめた。
弟と、一つ違いだ。
私は、この子を助けられなかった。この子が死んだのは、私が巻き戻る前だ。私がどれだけ早く動いても、この子はもう死んでいた。
私が救えるのは、これから先の人だけ。
過去は、変えられない。
――変えられない?
私は自分の手を見た。
変えたはずだ。私は三年、巻き戻った。それは過去を変えたということではないのか。
いや、違う。
私は「私にとっての未来」を変えている。エルナが死んだのは、私が巻き戻った時点より前だ。この子は、どの世界線でも死んでいる。
私の胸が、冷たくなった。
――私は、どこまで戻ってきたのだろう。
四百二十九年、第八の月十四日。あの日の夕方、書斎で。
もし、もう一年早ければ。もう二年早ければ。エルナは助かったのかもしれない。
なぜ、あの日だったのか。
誰が、私をあの日に戻したのか。
私は燭台の火を見つめた。
考えても、答えは出ない。出ないと分かっていて、それでも考えてしまう。
窓の外で、風が鳴った。
そのとき、扉が叩かれた。
私は飛び上がった。真夜中だ。
「お嬢様」
グレーテルの声。しかし、いつもの落ち着きがない。
私は扉を開けた。
老執事の顔は、蒼白だった。
「――坊ちゃまが」
私の心臓が、止まった。
「レオが、どうしたの」
「お部屋に、おられません」
私は、廊下へ飛び出した。




