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巻き戻った令嬢の帳簿には、私を殺した全員の名前が載っている  作者: やまご


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15/50

第15話 いない

 レオの部屋は、空だった。


 寝台の掛布が、まくられたままになっている。枕にはまだ窪みがある。私は掛布に触れた。


 温い。


 ついさっきまで、ここにいた。


「グレーテル、最後に見たのは」


「二刻ほど前でございます。私が寝る前に、お顔を見に参りました。眠っておられました」


 私は部屋を見回した。


 木彫りの馬が、床に落ちていた。


 私はそれを拾い上げた。この子は、これを握って寝る。手から落ちるのは、深く眠ったときだけだ。あるいは――


 窓を見た。


 閉まっている。内側から掛金がかかっている。


「窓ではないわ」


 私は扉へ戻った。


「廊下から出ている。誰にも見られずに」


 私は屋敷の造りを頭に浮かべた。レオの部屋は本棟の一階、南側。廊下を東へ行けば厨房、西へ行けば玄関ホール。夜も人がいるのは厨房の裏だけ。


「グレーテル。厨房の者は起きている?」


「夜番が一人。何も見ていないと申しております」


「では、西よ」


 私は駆け出した。


    ◇


 玄関ホールに、灯りがついていた。


 誰かがいる。


 私は足を止めた。


 柱の陰から覗くと、ホールの中央に人影があった。二人。


 ひとりは、女中頭のマルタ。この家に十五年いる、無口な中年女。


 もうひとりは、継母アデーレだった。


 伯爵夫人は、外套を羽織っていた。夜の外出の支度だ。


 そして、その足元に――


 レオが、立っていた。


 寝間着のまま、裸足で。ぼんやりとした顔で、継母の手を握っている。


 私の視界が、赤くなった。


「レオ!」


 声が出た。


 三人が、いっせいにこちらを見た。


 レオが振り向いた。私を見て、少し遅れて笑った。あの、遅れる笑い方だ。薬を替えてから、ほとんど見なくなっていた。


「あね、うえ」


 舌が回っていない。


 私は駆け寄った。弟の前で膝をつき、肩を掴んだ。


 瞳孔が、開いている。


「レオ。何か飲んだ? 誰かに、何か飲まされた?」


「……あまいの、のんだ」


 私は顔を上げた。


 継母は、微笑んでいた。


「まあ、イレーネ。起きていたの」


「お義母様。この子に、何を」


「寝つけないと申しますから、蜂蜜湯を」


 彼女は言った。


 嘘だ。蜂蜜湯で瞳孔は開かない。


「どこへ連れて行くつもりですか」


「連れて行く?」


 継母は目を丸くしてみせた。


「何をおっしゃるの。この子が廊下をふらふら歩いていたから、部屋へ戻そうとしていたのですよ。ねえ、マルタ」


「……はい」


 女中頭は、床を見たまま答えた。


「では、なぜ外套を」


「夜は冷えますもの」


「屋内でですか」


「イレーネ」


 継母の声から、優しさが抜けた。


「あなた、少し疑いすぎではなくて」


 彼女は膝をかがめ、レオの頭を撫でようとした。


 私は、その手を掴んだ。


 ――掴んだ。


 自分でも驚くほど強く。


 継母の目が、見開かれた。


「離しなさい」


「レオに触らないでください」


 私は言った。


 声は低かった。自分の声とは思えないほど。


「イレーネ」


「触らないで」


 私は立ち上がり、弟を背にかばった。


 三年後、この子は死んだ。ひと月前に死んだと、この人は処刑台の下で笑いながら言った。あのときの唇の端の動きを、私は毎晩夢に見る。


 その手が、今、レオの頭に伸びた。


「――お義母様」


 私は言った。


「今、私が何を考えているか、お分かりになりますか」


 継母は答えなかった。


 私は、彼女の目をまっすぐに見た。


「私は、あなたがこの子を殺すところを、一度見たような気がするんです」


 彼女の表情が、初めて――はっきりと、崩れた。


 驚きだった。恐怖ではなく、純粋な驚き。


 私は続けた。


「だから、次はありません」


    ◇


 ハルデン翁が呼ばれたのは、夜明け前だった。


 グレーテルの兄である老薬師は、レオを診て、瞼をめくり、脈を取り、そして口の中の匂いを嗅いだ。


「阿片です」


 彼は言った。


「量は多くない。子どもを深く眠らせる程度。命に別状はありません」


 私は膝から力が抜けた。


「ただし」


 翁は続けた。


「この子の身体は、まだ鉛の毒が抜けきっておりません。そこへ阿片を入れれば、抜けが悪くなる。今夜と明日は、私がついております」


「翁、ありがとうございます」


「礼はいりません」


 老人は、私を見上げた。


「お嬢様。ひとつ、伺ってよろしいか」


「はい」


「なぜ、この子を連れ出そうとしたと思われますか」


 私は答えられなかった。


 考えていなかった。いや、考えるのが怖かった。


「殺すつもりなら」


 翁は淡々と言った。


「屋敷の中でやるのが一番簡単です。病弱な子です。夜のうちに息が止まったと言えば、誰も疑わない」


「では、なぜ」


「連れ出すというのは、生かして使うためです」


 私の背が、冷たくなった。


    ◇


「人質です」


 ジークベルトは、朝一番でそう言った。


 書斎に呼び出された彼は、報告を聞き終えると、ほとんど間を置かずに結論を出した。


「伯爵夫人は、印章を失いました。家の金を動かせなくなった。監査を止める手段が、彼女にはもうない」


「だから、レオを」


「貴女を止めるための手段です」


 彼は言った。


「イレーネ嬢。弟君が伯爵夫人の手の届く場所にいる限り、貴女は自由に動けません」


 私は拳を握った。


 そうだ。そのとおりだ。


 昨夜、私が弟を取り返せたのは偶然だった。グレーテルが夜中に様子を見に行ったから。次はどうか。次も間に合うのか。


「卿。レオを、どこかへ移せませんか」


「移せます」


 即答だった。


「監査局の保護下に置くことができます。ハインツ・ベルガーの家族と同じ扱いです。証人関係者の保護」


「レオは証人ではありません」


「証拠物件です」


 彼は言った。


 言い方が冷たかった。でも、私は理解した。


「――薄められた薬を飲まされていた、生きている被害者」


「そうです」


 ジークベルトは頷いた。


「弟君の身体には、鉛の影響が残っています。ハルデン翁の診断書があり、瓶が三十六本あり、飲んだ本人がいる。この三つが揃って、初めて『実際に害が生じた』と主張できます」


 彼は続けた。


「監査局は、証拠物件を保全する権限があります。弟君の身柄を、その権限で移します」


 私は、少し笑った。


「弟を、物件扱いですか」


「他に条文がありません」


 彼は表情を変えずに言った。


「ですが、条文がないという理由で人を守れないのは、法の怠慢です。私は使える条文を使います」


    ◇


 その日の午後、レオは屋敷を出た。


 監査局が用意した馬車に、ハルデン翁とグレーテルが同乗する。行き先は、王都の外れにある監査局の保養所だという。場所は私にも知らされなかった。


「なぜ、私に教えてくださらないのですか」


「貴女が知っていれば、貴女が吐かされます」


 ジークベルトは言った。


「知らないことは、拷問でも喋れません」


 私は言葉を失った。


 この人は、そこまで想定している。


 馬車の窓から、レオが顔を出した。まだ少しぼんやりしている。それでも、私を見つけると手を振った。


「姉上」


「なあに」


「いつ、かえってくる?」


 私は、喉が詰まった。


 いつ帰れるのかは、私が決める。この一件を終わらせたら、この子は帰ってこられる。終わらせられなければ、帰ってこられない。


 私は馬車に近づき、弟の手を握った。


 細い手だった。三年後、二度と握れなかった手。


「レオ。姉上と約束して」


「うん」


「あなたは、ちゃんとご飯を食べて、薬を飲んで、少しずつ歩く練習をする」


「うん」


「そして、私が迎えに行くまで、生きていて」


 弟が、きょとんとした顔をした。


 それから、笑った。


「へんなの。あたりまえだよ」


 馬車が動き出した。


 私は、門を出ていくまで見送った。見えなくなっても、しばらく立っていた。


 風が冷たかった。


「イレーネ嬢」


 背後から、ジークベルトの声がした。


「戻りましょう。冷えます」


 私は振り返らなかった。


 振り返れば、顔を見られる。


「……卿」


「はい」


「私、あの子に嘘をつきました」


「どのような」


「迎えに行く、と」


 私は言った。


「行けるかどうか、分からないのに」


 背後で、足音がした。


 ジークベルトが、私の隣に立った。並んで、門のほうを見ていた。


「イレーネ嬢」


「はい」


「明日、薬事局へ立入監査に入ります」


 彼は言った。


「同行してください」


 私は、彼を見た。


「……私を、連れて行くのですか」


「先日は、危険だから近づくなと申し上げました」


 彼は前を向いたまま言った。


「撤回します」


「なぜ」


「弟君を守る一番確実な方法は、貴女を隠すことではないからです」


 彼はようやく、私のほうを向いた。


「この件を、一日でも早く終わらせることです」


 その灰色の目に、私は、初めて自分の顔が映っているのを見た。


「行きましょう。イレーネ嬢」


 彼は言った。


「役所を、開けに行きます」

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