第15話 いない
レオの部屋は、空だった。
寝台の掛布が、まくられたままになっている。枕にはまだ窪みがある。私は掛布に触れた。
温い。
ついさっきまで、ここにいた。
「グレーテル、最後に見たのは」
「二刻ほど前でございます。私が寝る前に、お顔を見に参りました。眠っておられました」
私は部屋を見回した。
木彫りの馬が、床に落ちていた。
私はそれを拾い上げた。この子は、これを握って寝る。手から落ちるのは、深く眠ったときだけだ。あるいは――
窓を見た。
閉まっている。内側から掛金がかかっている。
「窓ではないわ」
私は扉へ戻った。
「廊下から出ている。誰にも見られずに」
私は屋敷の造りを頭に浮かべた。レオの部屋は本棟の一階、南側。廊下を東へ行けば厨房、西へ行けば玄関ホール。夜も人がいるのは厨房の裏だけ。
「グレーテル。厨房の者は起きている?」
「夜番が一人。何も見ていないと申しております」
「では、西よ」
私は駆け出した。
◇
玄関ホールに、灯りがついていた。
誰かがいる。
私は足を止めた。
柱の陰から覗くと、ホールの中央に人影があった。二人。
ひとりは、女中頭のマルタ。この家に十五年いる、無口な中年女。
もうひとりは、継母アデーレだった。
伯爵夫人は、外套を羽織っていた。夜の外出の支度だ。
そして、その足元に――
レオが、立っていた。
寝間着のまま、裸足で。ぼんやりとした顔で、継母の手を握っている。
私の視界が、赤くなった。
「レオ!」
声が出た。
三人が、いっせいにこちらを見た。
レオが振り向いた。私を見て、少し遅れて笑った。あの、遅れる笑い方だ。薬を替えてから、ほとんど見なくなっていた。
「あね、うえ」
舌が回っていない。
私は駆け寄った。弟の前で膝をつき、肩を掴んだ。
瞳孔が、開いている。
「レオ。何か飲んだ? 誰かに、何か飲まされた?」
「……あまいの、のんだ」
私は顔を上げた。
継母は、微笑んでいた。
「まあ、イレーネ。起きていたの」
「お義母様。この子に、何を」
「寝つけないと申しますから、蜂蜜湯を」
彼女は言った。
嘘だ。蜂蜜湯で瞳孔は開かない。
「どこへ連れて行くつもりですか」
「連れて行く?」
継母は目を丸くしてみせた。
「何をおっしゃるの。この子が廊下をふらふら歩いていたから、部屋へ戻そうとしていたのですよ。ねえ、マルタ」
「……はい」
女中頭は、床を見たまま答えた。
「では、なぜ外套を」
「夜は冷えますもの」
「屋内でですか」
「イレーネ」
継母の声から、優しさが抜けた。
「あなた、少し疑いすぎではなくて」
彼女は膝をかがめ、レオの頭を撫でようとした。
私は、その手を掴んだ。
――掴んだ。
自分でも驚くほど強く。
継母の目が、見開かれた。
「離しなさい」
「レオに触らないでください」
私は言った。
声は低かった。自分の声とは思えないほど。
「イレーネ」
「触らないで」
私は立ち上がり、弟を背にかばった。
三年後、この子は死んだ。ひと月前に死んだと、この人は処刑台の下で笑いながら言った。あのときの唇の端の動きを、私は毎晩夢に見る。
その手が、今、レオの頭に伸びた。
「――お義母様」
私は言った。
「今、私が何を考えているか、お分かりになりますか」
継母は答えなかった。
私は、彼女の目をまっすぐに見た。
「私は、あなたがこの子を殺すところを、一度見たような気がするんです」
彼女の表情が、初めて――はっきりと、崩れた。
驚きだった。恐怖ではなく、純粋な驚き。
私は続けた。
「だから、次はありません」
◇
ハルデン翁が呼ばれたのは、夜明け前だった。
グレーテルの兄である老薬師は、レオを診て、瞼をめくり、脈を取り、そして口の中の匂いを嗅いだ。
「阿片です」
彼は言った。
「量は多くない。子どもを深く眠らせる程度。命に別状はありません」
私は膝から力が抜けた。
「ただし」
翁は続けた。
「この子の身体は、まだ鉛の毒が抜けきっておりません。そこへ阿片を入れれば、抜けが悪くなる。今夜と明日は、私がついております」
「翁、ありがとうございます」
「礼はいりません」
老人は、私を見上げた。
「お嬢様。ひとつ、伺ってよろしいか」
「はい」
「なぜ、この子を連れ出そうとしたと思われますか」
私は答えられなかった。
考えていなかった。いや、考えるのが怖かった。
「殺すつもりなら」
翁は淡々と言った。
「屋敷の中でやるのが一番簡単です。病弱な子です。夜のうちに息が止まったと言えば、誰も疑わない」
「では、なぜ」
「連れ出すというのは、生かして使うためです」
私の背が、冷たくなった。
◇
「人質です」
ジークベルトは、朝一番でそう言った。
書斎に呼び出された彼は、報告を聞き終えると、ほとんど間を置かずに結論を出した。
「伯爵夫人は、印章を失いました。家の金を動かせなくなった。監査を止める手段が、彼女にはもうない」
「だから、レオを」
「貴女を止めるための手段です」
彼は言った。
「イレーネ嬢。弟君が伯爵夫人の手の届く場所にいる限り、貴女は自由に動けません」
私は拳を握った。
そうだ。そのとおりだ。
昨夜、私が弟を取り返せたのは偶然だった。グレーテルが夜中に様子を見に行ったから。次はどうか。次も間に合うのか。
「卿。レオを、どこかへ移せませんか」
「移せます」
即答だった。
「監査局の保護下に置くことができます。ハインツ・ベルガーの家族と同じ扱いです。証人関係者の保護」
「レオは証人ではありません」
「証拠物件です」
彼は言った。
言い方が冷たかった。でも、私は理解した。
「――薄められた薬を飲まされていた、生きている被害者」
「そうです」
ジークベルトは頷いた。
「弟君の身体には、鉛の影響が残っています。ハルデン翁の診断書があり、瓶が三十六本あり、飲んだ本人がいる。この三つが揃って、初めて『実際に害が生じた』と主張できます」
彼は続けた。
「監査局は、証拠物件を保全する権限があります。弟君の身柄を、その権限で移します」
私は、少し笑った。
「弟を、物件扱いですか」
「他に条文がありません」
彼は表情を変えずに言った。
「ですが、条文がないという理由で人を守れないのは、法の怠慢です。私は使える条文を使います」
◇
その日の午後、レオは屋敷を出た。
監査局が用意した馬車に、ハルデン翁とグレーテルが同乗する。行き先は、王都の外れにある監査局の保養所だという。場所は私にも知らされなかった。
「なぜ、私に教えてくださらないのですか」
「貴女が知っていれば、貴女が吐かされます」
ジークベルトは言った。
「知らないことは、拷問でも喋れません」
私は言葉を失った。
この人は、そこまで想定している。
馬車の窓から、レオが顔を出した。まだ少しぼんやりしている。それでも、私を見つけると手を振った。
「姉上」
「なあに」
「いつ、かえってくる?」
私は、喉が詰まった。
いつ帰れるのかは、私が決める。この一件を終わらせたら、この子は帰ってこられる。終わらせられなければ、帰ってこられない。
私は馬車に近づき、弟の手を握った。
細い手だった。三年後、二度と握れなかった手。
「レオ。姉上と約束して」
「うん」
「あなたは、ちゃんとご飯を食べて、薬を飲んで、少しずつ歩く練習をする」
「うん」
「そして、私が迎えに行くまで、生きていて」
弟が、きょとんとした顔をした。
それから、笑った。
「へんなの。あたりまえだよ」
馬車が動き出した。
私は、門を出ていくまで見送った。見えなくなっても、しばらく立っていた。
風が冷たかった。
「イレーネ嬢」
背後から、ジークベルトの声がした。
「戻りましょう。冷えます」
私は振り返らなかった。
振り返れば、顔を見られる。
「……卿」
「はい」
「私、あの子に嘘をつきました」
「どのような」
「迎えに行く、と」
私は言った。
「行けるかどうか、分からないのに」
背後で、足音がした。
ジークベルトが、私の隣に立った。並んで、門のほうを見ていた。
「イレーネ嬢」
「はい」
「明日、薬事局へ立入監査に入ります」
彼は言った。
「同行してください」
私は、彼を見た。
「……私を、連れて行くのですか」
「先日は、危険だから近づくなと申し上げました」
彼は前を向いたまま言った。
「撤回します」
「なぜ」
「弟君を守る一番確実な方法は、貴女を隠すことではないからです」
彼はようやく、私のほうを向いた。
「この件を、一日でも早く終わらせることです」
その灰色の目に、私は、初めて自分の顔が映っているのを見た。
「行きましょう。イレーネ嬢」
彼は言った。
「役所を、開けに行きます」




