第16話 開かない扉
私は外套の襟を直した。
今日の私は、伯爵令嬢ではない。監査局の補助員として、書記官と同じ黒い上着を着ている。髪は結い上げ、装飾は何もつけていない。
「イレーネ嬢」
階段の下で、ジークベルトが言った。
「中では、私の後ろに立ってください。発言は求められたときだけ」
「はい」
「もうひとつ」
彼はこちらを見た。
「怒っても、顔に出さないでください。役所は、怒っている人間を『対応済み』の箱に入れます」
私は頷いた。
「――卿。ひとつ伺っても」
「どうぞ」
「怒りを顔に出さない方法を、どこで学ばれたのですか」
彼は一瞬、答えなかった。
「十四のとき、父の葬儀で」
それだけ言って、彼は階段を上り始めた。
◇
受付で、ジークベルトは書状を出した。
「王国財務監査局。立入監査の通告を、三日前に文書で送付しています」
受付の若い官吏が、書状を受け取り、目を走らせ、そして立ち上がった。
「少々、お待ちを」
待たされたのは、四半刻だった。
やがて戻ってきた官吏は、困った顔をしていた。
「申し訳ございません。本日は、担当の者が全員、外部の会議に出ておりまして」
「全員」
「はい」
「薬事局の職員は、名簿上、五十二名です」
ジークベルトは淡々と言った。
「五十二名全員が、外部会議ですか」
「その、担当の部署の者が」
「では、部署ではない者に取り次いでください。局長は」
「局長も、外出中でして」
私は、後ろで拳を握った。
これだ。
三年後、私が知らなかった役所の壁。誰も嘘をつかない。誰も断らない。ただ、いない。永遠にいない。
ジークベルトは、表情を変えなかった。
彼は懐から、別の書状を出した。
「王国会計監査法、第七条第三項」
彼は読み上げた。
「立入監査に際し、当該機関の職員が不在である場合、監査官は当該機関の文書保管庫に直接立ち入り、必要な記録を閲覧および複写することができる」
受付の官吏の顔が、固まった。
「……それは」
「保管庫の場所を教えてください」
「しかし、鍵は保管責任者が」
「保管責任者も、外部会議ですか」
「……はい」
「では」
ジークベルトは腰の帯から、あの黒い金属の棒を抜いた。
「監査局は、鍵を壊す権限を持っています」
官吏が、あからさまに青ざめた。
「お待ちください。壊すというのは、あまりに」
「壊さない方法が、ひとつだけあります」
彼は棒を持ったまま言った。
「保管責任者を、今すぐ呼び戻すことです」
◇
保管責任者は、半刻で現れた。
外部会議に出ていたはずの男は、汗をかいて、上着のボタンをかけ違えていた。
「た、ただいま戻りました。会議が早く終わりまして」
「結構です。開けてください」
保管庫は、地下にあった。
石の階段を下りると、天井の低い、長い部屋が広がっていた。両側に木の棚。棚には、年ごと、月ごとに整理された綴りが並んでいる。
埃の匂いがした。
私は、思わず息を吸った。
紙の匂いだ。私が三年間、いちばん恋しかった匂い。
「ケラー商会の調剤記録、過去五年分」
ジークベルトが言った。
「それと、審査官エルンスト・ヴァイマーの担当案件一覧、および審査手当の支給記録」
保管責任者が、狼狽えた。
「手当の記録は、こちらではなく人事のほうに」
「では人事の保管庫も開けていただきます。順番にやりましょう」
◇
調剤記録は、すぐに見つかった。
私は棚から綴りを抜き、床に膝をついて広げた。
ヴェルナーが横で写しを取り始める。
五年分。ケラー商会が提出した、すべての調剤記録。
私は頁をめくった。
処方、分量、納入先、日付。そして下部に、代表ヨハン・ケラーの署名と、審査官ヴァイマーの副署。
――全部だ。
五年分、二百件近い記録のすべてに、ヴァイマーの署名がある。
「卿。五年で百九十四件。すべて同一審査官です」
「薬事局の審査官は何名ですか」
ジークベルトが、保管責任者に問うた。
「……七名です」
「では、通常なら一つの商会の申請は、複数の審査官に分散するはずですね」
「担当は、その、商会ごとに固定しておりまして」
「規則にありますか」
「……慣例です」
ジークベルトは頷いた。ヴェルナーが、その言葉をそのまま書き取っている。
私は次の綴りを開いた。
そこで、手が止まった。
「卿」
「はい」
「――納入先の一覧が、あります」
私は頁を指した。
「ケラー商会が、王国から補助を受けて薬を納めている先です。救貧院、孤児院、治療院。全部で十一か所」
「補助」
「はい。貧民施設への薬の納入は、王国が費用の八割を補助しています。ですから、納入先ごとに補助金の申請額が書かれています」
私は、数字を追った。
そして、指が止まった。
「……卿」
「どうしました」
私は顔を上げた。
「聖アグネス救貧院の、補助金申請額。年間、四百八十ゴルドです」
「多いのですか」
「ええ。とても」
私は暗算した。
「聖アグネスの入所者は八十九名。全員が毎日薬を飲んでも、規定濃度で年間三百ゴルドに届きません。実際に薬を要する人はもっと少ない」
私は次の頁をめくった。
「聖マルタ孤児院、三百六十ゴルド。北部治療院、五百二十ゴルド。合計――」
私は十一か所を足した。
指が、震え始めた。
「十一か所で、年間四千百ゴルド」
ジークベルトが、私の隣に膝をついた。
「実際に必要な額は」
「多く見積もっても、千五百ゴルドです」
私は言った。
「差額、年に二千六百ゴルド。五年で一万三千ゴルド」
沈黙が落ちた。
地下の保管庫は、恐ろしく静かだった。
「イレーネ嬢」
ジークベルトの声が、低くなった。
「今、我々が追っていた金額を、言ってください」
「……フォークト伯爵家から抜かれた、三年で千二百ゴルドです」
「今、目の前にある金額は」
「五年で、一万三千ゴルド」
私は綴りを閉じた。
全身が、冷えていた。
――違う。
順序が、違っていた。
私はずっと、継母が家の金を盗んでいて、その隠れ蓑としてケラー商会を使っていると思っていた。家が主で、商会が従だと。
逆だ。
商会は、王国の補助金を五年で一万三千ゴルド抜いている。それが本体だ。
伯爵家から抜いた千二百ゴルドは――付け足しだ。ついでの小銭だ。
そして、そのついでの小銭のために、私は首を落とされた。
私は、床に手をついた。
「イレーネ嬢」
「……大丈夫です」
「顔色が」
「大丈夫です」
私は言った。
息を整えて、顔を上げた。
「卿。この補助金は、どこから出ていますか」
「王国財務局です」
「支出の承認は」
「――財務局次官」
ジークベルトが言った。
「第二王子殿下の、母方の従兄です」
私は、目を閉じた。
開いた。
「繋がりました」
私は言った。
「卿。これは、私の家の話ではありません」
「ええ」
「王国の、金の話です」
「そうです」
彼は立ち上がり、私に手を差し出した。
私はその手を取って、立ち上がった。
手が、震えていた。彼の手は、いつものように冷たく、そして硬かった。
「イレーネ嬢」
「はい」
「ここから先は、貴女の復讐ではなくなります」
彼は言った。
「王国そのものが相手になります。降りるなら、今です」
私は、彼の目を見た。
三年後の傍聴席。誰よりも長く残って、私の帳簿を見つめていた男。
あのとき、この人は何を思っていたのだろう。
数字が合わない、と思ったのだろうか。合わないまま、私が死ぬのを見たのだろうか。
――もう、そうはさせない。
「卿」
「はい」
「私は、この五年で、何人が死んだかを知りたいと思います」
私は言った。
「聖アグネスだけで、去年三十二人でした。十一か所あります。誰も数えていません」
私は、彼の手を離した。
「数えるのは、私の仕事です」
◇
保管庫を出たのは、日が暮れてからだった。
複写した記録は、麻袋三つ分になった。ヴェルナーと、応援に来た監査局の若い官吏が、それを馬車へ運んでいく。
私は、二十七段の階段の上に立っていた。
王都の街が、夕日に沈んでいくのが見える。
背後で、扉が開く音がした。
振り返ると、白髪の男が立っていた。
細身の、六十がらみの男。上等な仕立ての上着。手には杖。
私は、その顔を知らなかった。
でも、彼の胸元の徽章は知っていた。
薬事局の、主席審査官の徽章。
「――ヴァイマー審査官」
背後から、ジークベルトの声がした。
「外部会議は、終わりましたか」
老人は、微笑んだ。
「アーレンス卿。お噂はかねがね」
彼は杖をつきながら、こちらへ歩いてきた。
そして、私の前で足を止めた。
「そちらのお嬢さんは」
「監査局の補助員です」
「ほう」
ヴァイマーは、私の顔をじっと見た。
その目を、私は見返した。
濁った、しかし鋭い目だった。何十年も書類を見てきた人間の目。この人は、私の顔ではなく、私の「持っているもの」を見ている。
「――フォークト伯爵家の、令嬢ですな」
彼は言った。
私の背が、冷えた。
「なぜ、そう思われますか」
「その顔立ちは、亡くなられた伯爵夫人によく似ておられる」
老人は微笑んだ。
「先代の奥様に。あの方も、数字がお好きでしたな」
母。
私が七つのときに死んだ、実の母。
「……母をご存じなのですか」
「ええ、よく」
ヴァイマーは杖を持ち替えた。
「あの方も、王国の帳簿をお調べになりたがった。ちょうど、貴女のように」
彼は、階段を下り始めた。
すれ違いざま、彼は静かに言った。
「――お気をつけなさい。あの方も、そのすぐあとに病で亡くなられた」




