第17話 母の名前
私が七つの年の冬に、母は死んだ。
病だと聞かされた。何の病かは、誰も言わなかった。
私は寝台から降り、燭台に火を入れた。
――あの方も、そのすぐあとに病で亡くなられた。
ヴァイマーの言葉が、耳から離れない。
あれは、脅しだ。私を怯えさせるための。
でも、脅しであるためには、事実が要る。母が王国の帳簿を調べていたことと、そのあとすぐに死んだこと。その二つが本当でなければ、脅しとして成立しない。
私は机に向かった。
白紙の綴じ帳を開いて、こう書いた。
――母、エルフリーデ・フォークト。王暦四百十九年、第十二の月、死去。享年二十九。
二十九。
私は今、十七だ。母が死んだ年まで、あと十二年ある。
三年後に処刑されるはずだった私は、母より早く死ぬところだった。
私は羽ペンを置き、両手で顔を覆った。
◇
「調べます」
朝、書斎でそう言うと、ジークベルトは書類から顔を上げた。
「何をです」
「母の死を」
私は言った。
「十年前、王暦四百十九年です。ヴァイマー審査官は、母が王国の帳簿を調べたがっていたと言いました。母は伯爵夫人です。王国の帳簿を見る立場にありません」
「見ようとした、ということですね」
「はい。なぜ見ようとしたのか。何を見たのか。そして――」
私は言葉を切った。
「本当に、病で死んだのか」
ジークベルトは、しばらく黙っていた。
「イレーネ嬢」
「はい」
「先に申し上げておきます。十年前の死因を、今から証明することは、ほぼ不可能です」
「分かっています」
「遺体はありません。当時の医師の診断書があっても、それが正しいかは検証できない。証人は記憶が変わっている」
「はい」
「それでも、調べますか」
「調べます」
私は言った。
「でも、卿。優先順位は間違えません」
私は机の上の麻袋を指した。薬事局から複写してきた記録。
「今、目の前にあるのは、五年で一万三千ゴルドの補助金詐取です。これは証明できます。数字が全部残っている。まずこちらを片付けます」
「では、母君の件は」
「並行して、記録だけ集めます」
私は言った。
「感情で順番を変えたら、私は負けます。三年か――」
私はまた、言いかけて止めた。
「……牢の中の人間みたいに、恨みだけで動いたら、何も証明できません」
ジークベルトは、それを聞いていた。
彼はペンを置き、少し身を乗り出した。
「イレーネ嬢。ひとつ、提案があります」
「はい」
「母君の件は、私が調べます」
私は顔を上げた。
「なぜ、あなたが」
「貴女が調べれば、貴女の判断が歪むからです」
彼は言った。
「肉親の死を調べる人間は、必ずどこかで、望む答えのほうへ寄ります。それは能力の問題ではありません。誰でもそうなる」
彼は続けた。
「私は貴女の母君を知りません。だから、寄りません」
私は、言葉が出なかった。
この人は、いつもそうだ。優しさを、優しさの形で渡してこない。
「……それは、あなたの仕事ではありません」
「監査局には、過去の不審死と金の動きを照合する部署があります」
彼はしれっと言った。
「私が課長を務めていました」
「……初耳です」
「聞かれませんでしたので」
◇
補助金詐取の全体像が固まったのは、それから六日後だった。
書斎の机には、一枚の大きな表が広げられている。私とヴェルナーで三日かけて作った、五年分の集計表だ。
「読み上げます」
私は言った。
「ケラー商会が王国から受け取った、貧民施設向け薬品補助金。五年で二万四百ゴルド」
「そのうち、実際の薬に使われた額は」
「仕入帳から逆算して、七千四百ゴルド」
私は指を動かした。
「差額、一万三千ゴルド」
「行き先は」
「三つに分かれます」
私は表の下段を示した。
「ひとつ。ケラー商会の帳簿に、支払先空白の『特別紹介料』として、五年で二千八百ゴルド。この一部が、うちの会計係ベルガーを経由して、伯爵夫人へ流れていました」
「ふたつ目は」
「『審査協力費』という項目です」
私は言った。
「五年で千二百ゴルド。年に二百四十。支払先は、やはり空白です。ですが」
私は手形記録の写しを重ねた。
「支払日が、毎年、調剤記録の提出日の三日後です。五年間、一度の例外もなく」
ジークベルトの目が、細くなった。
「ヴァイマー審査官」
「証明はできません。名前が書かれていませんから」
私は言った。
「でも、この日付の一致は、偶然では説明できません。監査局が本人に問えば、彼は説明義務を負います」
「三つ目は」
私は、最後の行を指した。
そこに書かれた数字を見て、ジークベルトが黙った。
「――九千ゴルド」
私は言った。
「五年で九千ゴルド。これがどこへ行ったのか、商会の帳簿からは追えません」
「追えない」
「はい。商会の帳簿では、この分は最初から売上に計上されていません。補助金として受け取ったあと、商会の帳簿に入る前に、どこかへ抜けています」
「では、どうやって存在を知ったのですか」
「王国側の支出記録と、商会側の受取記録の差です」
私は二枚の紙を並べた。
「王国は二万四百ゴルドを払ったと記録しています。商会は一万一千四百ゴルドを受け取ったと記録しています。差、九千ゴルド」
私は顔を上げた。
「王国から出たのに、商会に入っていないお金が、九千ゴルドあります」
部屋が、静まり返った。
ヴェルナーが、ペンを持つ手を止めていた。
「――イレーネ嬢」
ジークベルトが言った。
「それは、商会の詐取ではありません」
「はい」
「王国の内部で、支出の途中で抜かれています」
「そうなります」
私は言った。
「補助金を支出する権限を持つ人間が、支出額を水増しして、差額を受け取っている。商会は、水増しされた額の一部だけを受け取り、口をつぐんでいる」
「支出権限者は」
「財務局次官、ゴットハルト・ラインヴァルト卿」
私はその名を口にした。
「第二王子アルベルト殿下の、母方の従兄です」
◇
その夜、私は書斎で一人になった。
燭台の火が、表の上で揺れている。
私は、その表を見つめていた。
三年後、この数字を私は知らなかった。知らないまま、千二百ゴルドの罪で首を落とされた。
千二百。
一万三千の中の、千二百。
私は、指でその数字をなぞった。
――安い。
私の命の値段は、そんなに安かったのか。
いや、違う。
安かったからこそ、私は殺されたのだ。千二百ゴルドの穴を埋めるために、伯爵令嬢一人の首はちょうどいい重さだった。九千ゴルドを守るために、千二百ゴルドの犯人を用意する。それだけの話だった。
私は目を閉じた。
処刑台の朝の、群衆の顔が浮かんだ。パン屋の女将。洗濯女。行商人。
あの人たちは、私を憎んでいたわけではない。ただ、「伯爵令嬢が家の金を盗んだ」という分かりやすい話を、与えられただけだ。
――分かりやすい話。
私は目を開けた。
そうだ。
三年後、彼らは私に「分かりやすい話」を用意した。伯爵令嬢の横領。誰でも一言で理解できて、誰でも憤れる話。
その分かりやすさが、私を殺した。
なら。
私は羽ペンを取った。
白紙を引き寄せ、こう書いた。
――こちらも、分かりやすい話を用意する。
王国の補助金が一万三千ゴルド抜かれた、という話は分かりにくい。数字が大きすぎて、庶民には遠い。
でも。
――貧しい人たちの薬が、三分の一に薄められていた。
――去年、聖アグネス救貧院で三十二人が死んだ。
――そのうちの一人は、八歳の女の子だった。
これは、分かる。
誰にでも、一言で分かる。
私はペンを置いた。
手が震えていた。今度は、怒りでではなかった。
これは、危険な考えだ。私は今、人の死を「使おう」としている。エルナという名前の八歳の子を、武器にしようとしている。
私は、母の声を思い出そうとした。
数字は嘘をつかないのよ、イレーネ。
――でも、母様。
私は燭台を見つめた。
嘘をつかない数字を、正しく届けるためには、どうすればいいのですか。
扉が、静かに開いた。
ジークベルトだった。手に、一通の書状を持っている。
「イレーネ嬢。まだ起きておられましたか」
「卿こそ」
「監査局から、報告が届きました」
彼は書状を机に置いた。
「母君の件です」
私の心臓が、跳ねた。
「もう? まだ六日です」
「調べる範囲を絞りましたので」
彼は言った。
「十年前、王暦四百十九年に、フォークト伯爵夫人エルフリーデが、王国のどこかの役所に対して文書を出していないか。それだけを探しました」
「……ありましたか」
「ありました」
彼は書状を開いた。
「王暦四百十九年、第十の月三日。王国財務局宛、照会状。差出人、フォークト伯爵夫人エルフリーデ」
私は身を乗り出した。
「内容は」
ジークベルトは、少し間を置いた。
「――貧民施設向け薬品補助金の、支出内訳について」
私の視界が、揺れた。
「そして」
彼は書状の下部を指した。
「照会に対する回答は、記録されていません。同年、第十二の月に、夫人は死去しています」
二か月後。
私は椅子の背を掴んだ。掴んでいなければ、立っていられなかった。
「卿」
「はい」
「母は、十年前に、同じものを見つけていたのですね」
ジークベルトは、静かに答えた。
「そう見えます」
私は、笑ってしまった。
声を出さずに、肩だけ震わせて。
母は同じ穴を見つけて、死んだ。私も同じ穴を見つけて、一度死んだ。
この家の女は、二代続けて、同じ数字に殺されている。
「――イレーネ嬢」
「はい」
「まだ、続けますか」
私は顔を上げた。
「卿」
「はい」
「私、母の字を見たことがないんです」
私は言った。
「亡くなったあと、母の書いたものは全部、燃やされました。継母が来る前に、父が」
私は書状に手を伸ばした。
「その照会状の原本は、局に残っていますか」
「残っています」
「見せてください」
私は言った。
「母の字を、見たいんです」
――そして、続きを書きます。




