第18話 同じ手
監査局の一室で、原本を渡されたとき、私はそう思った。
角ばっていて、行が真っ直ぐで、数字を書くときだけ少し丸くなる。私が誰にも教わらずに身につけたと思っていた癖が、そこにあった。
照会状は、一枚だった。
――王国財務局 御中
――貧民施設向け薬品補助金につき、支出内訳の開示を求めます。
――当家は聖アグネス救貧院に対し、亡き先代より寄進を続けております。同院より、薬の品質に関する訴えを受けました。
――王国が支出した補助金の額と、同院が実際に受領した薬品の量に、齟齬がある可能性を憂慮しております。
――王暦四百十九年、第十の月三日 フォークト伯爵夫人 エルフリーデ
私は、その紙を長いあいだ見ていた。
母は、私が今やっていることを、十年前にやっていた。
同じ施設。同じ補助金。同じ疑い。
違うのは、母には監査局の権限がなかったこと。母は一通の手紙を出しただけで、そして返事は来なかった。
二か月後に、母は死んだ。
「イレーネ嬢」
ジークベルトが、向かいの席から言った。
「気づきましたか」
「何をです」
「文面です」
彼は言った。
「この照会状は、感情で書かれていません。憤りも、告発もない。ただ、齟齬の可能性を憂慮する、と書いてある」
私はもう一度、文面を読んだ。
たしかに、そうだ。
「母君は、これが危険な問いだと知っていたと思います」
ジークベルトは続けた。
「だから、相手を怒らせない書き方をした。事を荒立てず、内々に是正させようとした」
「……それでも、死にました」
「ええ」
彼は静かに言った。
「相手は、怒らせなくても殺します」
私は照会状を置いた。
「卿。母の死因について、何か分かりましたか」
「診断書は残っていました。急性の胃の炎症、とあります」
「診断した医師は」
「三年前に亡くなっています。老衰です」
「……そうですか」
「ただ」
彼は書類をめくった。
「診断書の日付の前後に、フォークト伯爵家の支払記録が二件あります。監査局が押収した、貴女の家の古い帳簿からです」
「二件」
「ひとつは、医師への謝礼。三ゴルド。これは通常です」
彼は指を移した。
「もうひとつは、ケラー商会への支払。二十ゴルド。品目は――『特別調合薬』」
私の指が、冷たくなった。
「母は、ケラー商会の薬を飲んでいた」
「そう記録されています」
ジークベルトは、書類を閉じた。
「イレーネ嬢。これは証拠になりません。十年前の薬瓶は残っていない。診断した医師は死んでいる。特別調合薬という記載だけでは、中身は分からない」
「はい」
「私は、貴女に希望を持たせたくありません」
「分かっています」
私は言った。
自分の声が、思ったより落ち着いていて、少し驚いた。
「卿。私、母の死を証明できるとは思っていません」
「では、なぜ」
「知りたかっただけです」
私は照会状に手を置いた。
「母が、諦めた人ではなかったということを」
◇
ケラー商会への強制監査は、それから四日後に行われた。
今度は夜ではなかった。真昼だ。
監査局の官吏が十二名、川沿いの通りに馬車を連ねて乗りつけた。通行人が立ち止まり、近隣の商人が店先から覗いている。
ジークベルトは、それを望んでいた。
「見せます」
彼は馬車を降りながら言った。
「夜に忍んで押収すれば、商会は『監査局に嫌がらせをされている』と言い触らします。真昼に、人の見ている前でやれば、商会は説明を求められる側になります」
私は頷いた。
――分かりやすい話。
私が考えていたことを、この人はもうやっている。
「イレーネ嬢。今日の貴女の役割です」
「はい」
「代表ヨハン・ケラーとの面談に同席し、数字を読み上げてください」
「読み上げるだけですか」
「それだけです」
彼は言った。
「訴えないでください。責めないでください。ただ、数字を読む。それが一番効きます」
◇
ヨハン・ケラーは、意外なほど小さな男だった。
六十近い。禿げ上がった頭と、丸い背中。番頭のモーゼルのほうがよほど押し出しがいい。
商会の二階の帳場で、彼は椅子に浅く腰かけていた。
「アーレンス卿。私は、何も知らんのです」
開口一番、彼は言った。
「調剤は職人に任せ、帳面は番頭に任せ、私はもう名前だけの代表でして」
「では、これはどなたの署名ですか」
ジークベルトが、調剤記録を差し出した。
署名欄。ヨハン・ケラー。
「……それは、その、番頭が代筆を」
「五年分、百九十四件、すべて代筆ですか」
「……はい」
「では、貴殿は五年間、自分の商会が薬事局に何を提出しているかを、一度も確認していない」
「お恥ずかしい話ですが」
「イレーネ嬢」
ジークベルトが、私に目をやった。
私は前に出て、集計表を開いた。
そして、読み上げた。
「ケラー商会が王国から受領した貧民施設向け薬品補助金。王暦四百二十四年、三千九百六十ゴルド」
ケラーが顔を上げた。
「四百二十五年、四千百二十ゴルド。四百二十六年、四千ちょうど。四百二十七年、四千二百ゴルド。四百二十八年、四千百二十ゴルド」
私は指を下げた。
「五年合計、二万四百ゴルド」
私は次の頁をめくった。
「同期間の、ジギタリス葉の仕入総額。四百二十四年、千五百二十ゴルド。四百二十五年、千四百八十――」
「待ちなさい」
ケラーが遮った。
「そんな数字を並べて、何が言いたいのです」
「並べているだけです」
私は言った。
「五年合計、七千四百ゴルド」
私は表を彼のほうへ向けた。
「受け取ったのが二万四百。薬に使ったのが七千四百」
私は指を置いた。
「差、一万三千ゴルドです」
帳場が、静かになった。
ケラーの丸い背中が、ゆっくりと丸まっていった。
「……そんな、額は」
「もうひとつ、読み上げます」
私は別の紙を出した。
「貴商会が、王国から支払われたと記録されている額は、二万四百ゴルド。貴商会の帳簿に、入金として記録されている額は、一万一千四百ゴルド」
私は顔を上げた。
「差、九千ゴルド」
ケラーの顔から、血の気が引いた。
――今のは、演技ではなかった。
この男は、二万四百という数字を知らなかった。
「ケラー殿」
ジークベルトが言った。
「貴殿は、王国が貴商会にいくら払ったか、ご存じでしたか」
「……一万一千四百だと」
「そう聞かされていた」
「はい」
「誰から」
ケラーは口を開き、閉じた。
私は、静かに言った。
「ケラー殿。今、あなたは一万三千ゴルドの詐取の主犯として扱われています」
「私はそんな額を受け取っていない!」
「ええ。受け取っていないと思います」
私は言った。
「あなたが受け取ったのは、四千ゴルド前後でしょう。五年で。残りの九千は、王国から出た時点で、あなたのところに届いていない」
ケラーが、私を見た。
その目に、初めて――理解の色が浮かんだ。
「では、私は」
「あなたは、九千ゴルドの罪をかぶる係です」
私は言った。
「そのために、名前だけの代表をやらされていたのだと思います」
沈黙が落ちた。
長い沈黙だった。
ジークベルトは、何も言わずに待っていた。
やがて、ケラーが言った。
「……番頭を、呼んでいただけますか」
「モーゼルは、すでに監査局が拘束しています」
「そうですか」
彼は、深く息を吐いた。
「アーレンス卿。私は、薬のことは本当に知りませんでした。ですが」
彼は顔を上げた。
「知ろうとしなかったことは、罪でしょうな」
「はい」
ジークベルトは即答した。
「罪です」
ケラーは、笑った。乾いた笑いだった。
「では、申し上げます。私が言えることを」
彼は言った。
「補助金の申請書は、私が書いたものではありません。毎年、書き上がったものが届くのです。署名だけしろと」
「どこから届きますか」
「――薬事局からです」
ヴェルナーのペンが、走った。
「もうひとつ」
ケラーは続けた。
「入金の額を私に伝えるのも、薬事局です。年に一度、審査官が直接まいります」
「ヴァイマー審査官ですか」
「はい」
彼は言った。
「あの方は、いつも同じことをおっしゃる。『今年もご協力に感謝します』と」
◇
「上出来です」
商会を出ながら、ジークベルトが言った。
「代表の証言で、薬事局が申請書を作成していたことが確定しました。これは商会の詐取ではなく、役所主導の詐取です」
「ええ」
「本日付で、ケラー商会の薬品取扱免許について、薬事局に停止を勧告します。同時に、ヨハン・ケラーとモーゼルを、王国補助金詐取の従犯として送検します」
私は、通りを見た。
人だかりができている。商人たちが、こちらを見ている。
その中に、一人、見覚えのある顔があった。
蝋燭問屋の店主だ。私が最初に値を聞きに行った、三軒目の店の。
彼は私を見つけると、ぽかんとした顔をした。
それから、深々と頭を下げた。
私は、思わず立ち止まった。
――この人は、私が何をしているのか、知らない。
でも、頭を下げた。
三年後、この通りの人たちは、私が処刑される日、広場に立っていた。
同じ人たちだ。
私は、頭を下げ返した。
◇
馬車に乗り込むと、ジークベルトが言った。
「イレーネ嬢。ひとつ、伝えておくことがあります」
「はい」
「ローゼンタール侯爵子息から、書面が届きました」
私は顔を上げた。
「三日以内という期限は、とうに過ぎています」
「ええ。二十日遅れです」
彼は書状を差し出した。
「内容は、正確な融資額の申告――ではありません」
「では」
「婚約の、解消の申し入れです」
私は、書状を受け取った。
開いた。
流麗な字が並んでいる。ヴィルヘルムの字だ。
――当家とフォークト伯爵家の縁組について、双方の現状に鑑み、白紙に戻すことが両家のためと存じます。
――なお、当家がフォークト伯爵家に対して有する債権については、別途、正式に整理させていただきます。
私は、書状を膝に置いた。
「……逃げましたね」
「はい」
「監査から逃げるために、婚約を切った」
「そうです」
ジークベルトは言った。
「ですが、イレーネ嬢。これは彼の失策です」
「なぜ」
「婚約を切れば、彼は『貴女を守るために融資した』という言い訳を失います」
彼は言った。
「残るのは、千八百ゴルドの融資契約と、財務執行権の条項だけです。他家の財産を狙っただけの契約書が、丸裸で残る」
私は、書状をもう一度読んだ。
三年後、この男は私を売った。今度は、私に触れる前に逃げた。
――何も感じない。
そう思った瞬間、私は自分が微笑んでいることに気づいた。
「卿」
「はい」
「私、婚約を解消されました」
「そのようですね」
「傷心の令嬢は、しばらく人前に出られませんね」
私は言った。
「――ちょうどいいので、その間に、王都中の救貧院を回ろうと思います」




