第19話 誰も数えなかった人たち
十一か所を回るのに、九日かかった。
王都の南、東、北。城壁の内と外。救貧院が五つ、孤児院が三つ、治療院が二つ、修道会の療養所がひとつ。
私は、どこでも同じことをした。
埋葬記録を見せてもらう。入所者の名簿を借りる。薬の空瓶が残っていれば、それも借りる。そして、そこにいる人の話を聞く。
聞いて、書き取る。
「お嬢さん、なんでそんなに書くんだね」
三か所目、北部治療院で、老人が言った。
寝台に半身を起こし、皺だらけの手で私の帳面を指している。
「数えるためです」
私は言った。
「数える? わしらを?」
「はい」
「数えて、どうなる」
私は、ペンを止めた。
「――誰かが数えないと、いなかったことになります」
老人は、しばらく私を見ていた。
それから、笑った。歯の抜けた口で。
「わしの女房も、去年死んだ。名前はグレーテ。六十一だ。書いてくれるかね」
「はい」
私は書いた。
グレーテ、六十一歳。北部治療院。王暦四百二十八年、第七の月。
老人は、その字を覗き込んだ。
「……字が、きれいだな」
◇
九日目の夜、私は書斎の机に、集めた記録を全部広げた。
名前が、並んでいる。
私は数えた。
十一施設、直近三年。
三年前、合計百六十一名。
二年前、合計百八十四名。
昨年、合計二百九十七名。
比較対象の四施設は、三年でほぼ横ばい。
私はペンを置いた。
昨年だけで、例年より百十名多い。
三年で、およそ百五十名。
「イレーネ嬢」
ジークベルトが、扉のところに立っていた。
「終わりましたか」
「はい」
私は表を差し出した。
彼は受け取り、上から下まで読んだ。何も言わなかった。読み終えて、机に置いた。
「これを、どうしますか」
「――それを、ご相談したいと思っていました」
私は言った。
「卿。この表を監査局の報告書に入れれば、どうなりますか」
「入りません」
即答だった。
「なぜ」
「因果が証明されていないからです」
彼は椅子に座った。
「監査局が公文書に書けるのは、金の流れだけです。補助金二万四百ゴルドのうち一万三千ゴルドが不正に流出した。これは書けます。ですが、その結果として百五十人が死んだ、とは書けません。死因の医学的立証がない」
「では、この表は」
「参考資料として綴じられ、誰にも読まれずに保管庫へ行きます」
私は、拳を握った。
「十年前の、母の照会状と同じですね」
ジークベルトが、こちらを見た。
「――同じです」
彼は認めた。
「役所は、扱える形になっていないものを、扱えません。それは悪意ではなく、構造です」
「では、構造の外へ出します」
私は言った。
「卿。この表を、王都の新聞に出したいと思います」
◇
彼は、すぐには答えなかった。
長い沈黙のあと、こう言った。
「イレーネ嬢。それは、監査官には勧められません」
「はい」
「監査中の情報を外部に出せば、証拠隠滅を招きます。相手が動く時間を与える」
「はい」
「そして、貴女自身が狙われます。今までは監査局の後ろにいた。表に出れば、貴女個人が的になる」
「はい」
「――分かっていて、言っていますね」
「言っています」
私は言った。
「でも、卿。今のままでは、私たちは勝てません」
「なぜ、そう思いますか」
「順番を考えてください」
私は指を折った。
「ケラー商会は潰せます。ヴァイマー審査官も、日付の一致で追い詰められます。そこまでは、監査局の権限で届きます」
「ええ」
「でも、その先。財務局次官ラインヴァルト卿には、届きません」
私は言った。
「なぜなら、監査局の報告書は、財務局を通って上がるからです。次官の不正を、次官の役所を通して報告することになる」
ジークベルトの表情が、動いた。
「……よく調べましたね」
「本を読みました」
「またそれですか」
彼は少しだけ、口の端を動かした。
「続けてください」
「報告書が次官の手元で止まったとき、私たちには次の手がありません」
私は言った。
「そのときに必要なのは、次官が『報告書を止められない状況』です」
「世論、ですか」
「はい」
私は、表に手を置いた。
「百五十人が死んだかもしれない、という話が、王都に広まっていれば。役所は、報告書を止めた理由を説明しなければならなくなります」
沈黙。
ジークベルトは、表を見つめていた。
「イレーネ嬢。ひとつ、確認させてください」
「はい」
「その百五十人を、貴女は道具にしますか」
私は、息を呑んだ。
――この人は、そこを見ている。
私が眠れなかった夜に、自分で自分に問うたことを。
「……します」
私は言った。
「使います。名前も、年齢も、死んだ日付も」
私は表を見た。
「エルナ、八歳。この子の名前を、新聞に出します」
私の声が、震えた。
「私は、この子を助けられませんでした。この子が死んだのは、私が何かを知るより前です。今さら、何をしても、この子は戻ってこない」
私は顔を上げた。
「だから、せめて、この子が死んだという事実を、使います。それが正しいことなのか、私には分かりません。でも、使わなければ、この子は本当に、ただ死んだだけになります」
ジークベルトは、私を見ていた。
やがて、彼は言った。
「イレーネ嬢。それは、正しくありません」
私は、目を伏せた。
「ですが」
彼は続けた。
「間違ってもいません」
私は顔を上げた。
「監査という仕事は、二十年やっても、正しいと言い切れる判断をしたことがありません」
彼は言った。
「私は十四のとき、父の商会が潰れるのを見ました。監査が入って、父は不正を問われて、自死しました」
私は、息を止めた。
「監査は正しかったのです。父は不正をしていました。額は小さく、家族を食わせるためのものでしたが、不正は不正でした」
彼は淡々と話した。
「ですが、その監査を担当した官吏は、正しいことをしながら、一人殺しました。彼は今も局にいます。真面目な男です」
彼は表に指を置いた。
「以来、私はこう考えています。正しさは、結果を保証しません。ですから、私は自分の判断が正しいかどうかを考えるのをやめました」
「では、何を考えるのですか」
「後で説明できるかどうかです」
彼は言った。
「なぜそうしたのかを、十年後に、誰かに説明できるか。説明できる判断なら、間違っていても引き受けられます」
私は、その言葉を、胸に落とした。
「――卿。私は、説明できます」
「聞きましょう」
「私は、これ以上、死ぬ人を増やしたくありませんでした」
私は言った。
「そして、そのために使える手段が、これしかありませんでした」
ジークベルトは、頷いた。
「では、条件をつけます」
「はい」
「ひとつ。新聞に出すのは、貴女ではありません」
「では、誰が」
「施設の人間です」
彼は言った。
「聖アグネスのシスターは、薬事局に三度、文を出しています。彼女が語る形にしてください。貴女は、数字を渡すだけ」
「なぜ、そのほうが」
「貴女が語れば、伯爵令嬢の私怨だと言われます。シスターが語れば、施設の訴えになります」
彼は続けた。
「ふたつ。数字は、我々が保証しません。監査局は関与しない。貴女が個人として集めた記録として出してください」
「――それでは、信用が」
「信用は、後からつきます」
彼は言った。
「監査局が後から公式に数字を出したとき、それが一致していれば、最初に出した記録の信用は跳ね上がります」
私は、目を見開いた。
この人は、二段構えで考えている。
「みっつ」
彼は最後に言った。
「新聞が出た日から、貴女は屋敷を出てください」
「どこへ」
「弟君のところへ」
私は、動きを止めた。
「――会えるのですか」
「保護所です。貴女も、その日から保護対象になります」
彼は立ち上がった。
「表に出た人間を守るのは、表に出させた人間の義務です」
◇
新聞は、三日後に出た。
王都日報。四面の下段、小さな記事だった。
――救貧院、薬品の質に訴え。三年で死者が倍増。
シスターの名前で、こう書かれていた。二年前から薬が効かなくなったこと。薬事局に三度文を出したが返答がないこと。そして、聖アグネス救貧院の埋葬記録の数字。
記事の最後に、こうあった。
――同様の訴えは、王都内の十一施設に及ぶ。三年間の死者は、比較しうる他施設に比べ、およそ百五十名多い。
私は、その記事を三度読んだ。
小さい記事だ。四面の下段。誰も読まないかもしれない。
でも、印刷された。
母が出した一通の手紙は、どこにも届かなかった。
この記事は、王都に千二百部、配られた。
◇
その日の午後、私は荷物をまとめていた。
小さな鞄ひとつ。着替えと、帳面と、母の照会状の写し。
書斎の扉が、乱暴に開いた。
私は振り返った。
継母が、立っていた。
髪が乱れている。この二か月、部屋に閉じこもっていた女の顔は、痩せて、白かった。
手に、新聞を握っていた。
「――あなたね」
彼女は言った。
「これを書かせたのは」
私は、鞄の紐を結んだ。
「お義母様。私は明日から、しばらく屋敷を離れます」
「答えなさい!」
新聞が、床に叩きつけられた。
「イレーネ。あなた、自分が何をしたか分かっているの」
私は、彼女を見た。
「分かっています」
「分かっていない!」
継母の声が、裏返った。
「これは、あなたの手に負えるものじゃないの。あの人たちは――」
彼女は、そこで言葉を切った。
私は、その切り方を聞き逃さなかった。
「あの人たち、とは」
継母は答えなかった。
彼女の目に、初めて、私が見たことのないものが浮かんでいた。
――恐怖だ。
私に対する恐怖ではない。
「お義母様」
私は、一歩近づいた。
「あなたも、怖いんですね」
彼女の唇が、震えた。
「あなたは、千二百ゴルドを盗んだ人です。でも、九千ゴルドを盗んだ人ではない」
私は言った。
「あなたも、使われている側だ」
継母は、後ずさった。
扉の枠に背をつけて、それでも私を睨んだ。
「――イレーネ。あなた、死ぬわよ」
その声は、憎しみではなかった。
もっと単純な、剥き出しの、警告だった。
「あなたのお母様と、同じように」




