第20話 剥奪
ジークベルトは報告を聞き終えると、しばらく黙っていた。
「――伯爵夫人は、母君の死を知っていますね」
「知っていると思います」
私は言った。
「あの言い方は、知っている人の言い方でした」
「では、証言させる価値があります」
彼はペンを取った。
「ですが、今ではない。彼女は今、恐怖で動いています。恐怖で口を割る人間は、恐怖が去れば覆します」
「では、いつ」
「彼女が、もう戻れないと悟ったときです」
◇
薬事局への勧告は、翌朝に出された。
王国財務監査局から王立薬事局へ。ケラー商会の薬品取扱免許について、即時停止を求める。理由は、五年分の調剤記録における虚偽記載。仕入量と納入量の不整合、二・六倍。
薬事局は、三日間、返答しなかった。
四日目の朝、王都日報の一面に、続報が載った。
――監査局、薬品商会に免許停止勧告。薬事局は沈黙。
私はその記事を、保護所の食堂で読んだ。
「姉上、これなに?」
隣で、レオがパンをかじりながら覗き込んでくる。
保護所は、王都の北の外れにある古い農家だった。石壁と、低い天井と、大きな暖炉。監査局の官吏が二人常駐していて、あとはハルデン翁とグレーテル、そして私たち姉弟だけ。
「新聞よ」
「ふうん」
レオは、記事の見出しを指でなぞった。
「くすり……しょう、かい。これ、ぼくの薬のとこ?」
私は驚いて、弟を見た。
「読めるの?」
「グレーテルに習ってる」
レオは得意げに言った。
「あとハルデンじいちゃんに、薬の名前も習った。ジギ、タリス」
私は、言葉が出なかった。
この子は、二か月前まで、寝台から降りられなかった。名を呼んでも、振り向くのに一拍かかった。
今は、パンを両手で持って、新聞の見出しを読んでいる。
「レオ」
「なあに」
「……なんでもない」
私は弟の頭を撫でた。
髪が、少し伸びていた。
◇
薬事局が動いたのは、記事が出た日の午後だった。
ヴァイマー審査官の名で、監査局へ回答が届いた。ジークベルトはそれを保護所まで持ってきた。
「読みますか」
「はい」
私は封を切った。
――当局は、貴局の勧告を検討したが、ケラー商会の調剤記録に虚偽の事実は認められない。仕入量と納入量の差については、商会が他所より原料を追加購入していた可能性があり、貴局の推計は前提を欠く。
私は、二度読んだ。
「……追加購入」
「そう来ましたか」
ジークベルトは、むしろ落ち着いていた。
「イレーネ嬢。反論できますか」
私は、頭の中で記録をめくった。
ケラー商会の仕入帳。二年分は押収してある。五年分のうち、押収できたのは二年分だけだ。
「――卿。追加購入があったなら、支払があります」
「ええ」
「商会の帳簿に、ジギタリス以外の原料仕入の記録はありません。私が全頁見ました」
「では、帳簿に載せずに買ったのだと言われます」
「載せずに買ったなら、現金です」
私は言った。
「商会の現金出納を見れば、その分の出金があるはずです。二年分の出納帳は押収済みです。……ありませんでした」
「では、他人名義で買ったと言われます」
「――それなら」
私は顔を上げた。
「売った側に、記録があります」
ジークベルトの目が、細くなった。
「王都でジギタリス葉を扱う薬種問屋は、何軒ですか」
「五軒です。全部、調べに行きました」
私は言った。
「救貧院を回ったついでに」
彼が、ほんの一瞬、動きを止めた。
「……ついでに」
「はい。五軒の売上帳を見せていただきました。ケラー商会への売却量を、五年分」
私は懐から帳面を出した。
「合計で、商会の仕入帳の記載とほぼ一致します。誤差は二分以内。追加購入の余地はありません」
私は帳面を差し出した。
「そして、各店の店主の署名と日付をいただいています」
ジークベルトが、帳面を受け取った。
彼は頁をめくり、五つの署名を確かめ、そして――
声を出して、笑った。
私は、驚いて彼を見た。
この人が声を出して笑うのを、初めて見た。
「イレーネ嬢」
「はい」
「貴女は、私が反論を予想する前に、反論の反論を用意していたのですか」
「……蝋燭のときに、学びましたので」
私は言った。
「相手の言い分は、相手が言う前に潰しておくほうが早いんです」
◇
反証は、その日のうちに薬事局へ送られた。
五軒の薬種問屋の署名入り記録。追加購入は存在しない。
同時に、ジークベルトはもう一通、別の宛先へ文書を出した。
――王立薬事局主席審査官エルンスト・ヴァイマー宛。
――貴殿が過去五年間に受領した審査手当および審査協力費について、支給根拠の説明を求める。
「協力費のほうを、直接ぶつけるのですか」
「ええ」
ジークベルトは言った。
「商会の帳簿にある『審査協力費』は、支払先が空白です。名前がない。ですが、支払日が調剤記録提出日の三日後で、五年間例外なし」
彼は言った。
「これを本人に見せて、『これは貴殿への支払ではないと説明してください』と求めます」
「説明できなければ」
「説明義務違反です。監査局は、官吏に対して説明を求める権限を持っています。答えないこと自体が処分事由になる」
私は、そこで気づいた。
「――卿。それは、逃げ道を塞いでいるのではなくて」
「はい」
「答えても、答えなくても、詰みですね」
「そうです」
彼は言った。
「これを、二重拘束と言います。監査の基本です」
◇
ヴァイマーは、答えなかった。
三日、五日、七日。
そして八日目、薬事局長の名で、監査局へ文書が届いた。
――王立薬事局は、ケラー商会の薬品取扱免許を、本日付で剥奪する。
――なお、主席審査官エルンスト・ヴァイマーは、健康上の理由により、本日付で辞職した。
「――逃げられた」
私は、その文書を握りしめた。
「辞職すれば、説明義務はなくなるのですか」
「なくなりません」
ジークベルトは言った。
「ですが、処分はできなくなります。すでに官吏でない者を、免職にはできない」
「では、罪は」
「詐取の共犯として立件は可能です。ただし、証拠が要ります。今あるのは、日付の一致だけです」
私は、拳を握った。
――逃げられた。
三年後と、同じだ。届きかけたところで、するりと抜けていく。
「イレーネ嬢」
「はい」
「顔を上げてください」
私は顔を上げた。
ジークベルトは、別の書状を持っていた。
「本日、ケラー商会代表ヨハン・ケラーおよび番頭モーゼルを、王国補助金詐取の罪で送検しました」
「……はい」
「そして、免許は剥奪されました。ケラー商会は、本日をもって薬を扱えません」
彼は言った。
「王都と近郊の十一施設に、今日から別の商会が規定濃度の薬を納めます。手配済みです」
私は、息を呑んだ。
「もう、届いているのですか」
「昨日のうちに」
彼は淡々と言った。
「免許剥奪の見込みが立った時点で、代替の商会を手配しました。薬が一日でも途切れれば、また人が死にます」
私は、その言葉を、繰り返し聞いた。
薬が、届いている。
今日から、あの人たちが飲む薬は、本物だ。
北部治療院の老人。名前を書いてほしいと言った、あの人。
まだ、生きている人たち。
私は、机に手をついた。
立っていられなかった。
「イレーネ嬢」
「……すみません」
私は言った。
「すみません、少し」
視界が滲んだ。
九日かけて回った。名前を書き取った。数えた。数えているあいだは、泣かなくて済んだ。
でも、今。
「泣いても構いません」
ジークベルトが言った。
「今日は、勝った日です」
◇
その夜、保護所の暖炉の前で、私はレオと並んで座っていた。
弟は、木彫りの馬を膝に乗せている。
「姉上、泣いてたね」
「見てたの」
「うん」
レオは足をぶらぶらさせた。
「かなしかった?」
「ううん」
私は言った。
「うれしかったの」
「じゃあ、なんで泣くの」
私は、少し考えた。
「――たぶんね、間に合ったから」
「まにあった?」
「うん」
私は、暖炉の火を見た。
母は、間に合わなかった。十年前、たった一通の手紙を出して、返事を待って、そして死んだ。
私も、一度は間に合わなかった。
でも、今度は。
「レオ。姉上ね、まだやることがあるの」
「まだ?」
「うん。あと、いちばん大きいのが残ってる」
弟は、木彫りの馬を握りしめた。
「こわい?」
「――こわいわ」
私は正直に言った。
「すごく」
レオは、しばらく黙っていた。
それから、木彫りの馬を、私の膝に置いた。
「これ、かして」
「え?」
「かしてあげる。姉上が勝つまで」
私は、その小さな木彫りを見た。
三年後、この子は死んだ。私は、この子の死を、処刑台の上で聞いた。
今、この子は生きていて、私にお守りを貸そうとしている。
「――ありがとう」
私は、それを握った。
◇
翌朝、ジークベルトが保護所に来た。
いつもより早い時刻だった。彼の顔を見た瞬間、私は何かが起きたと分かった。
「イレーネ嬢」
「何がありましたか」
「エルンスト・ヴァイマーが」
彼は言った。
「昨夜、自宅で死亡しました」
私の指が、木彫りの馬を強く握った。
「死因は」
「胃の炎症、と診断されています」
彼は言った。
私は、目を閉じた。
十年前の、母の診断書と同じ言葉だった。
「イレーネ嬢」
ジークベルトの声が、低くなった。
「これで確定しました。この件には、口を塞ぐ側の人間がいます」
彼は続けた。
「ここから先は、監査ではありません」
私は目を開けた。
「――戦争ですね」




