第21話 名前のない記事
一面に、こうあった。
――伯爵令嬢、婚約破棄の腹いせか。監査局を私物化する令嬢の素顔。
私は、保護所の食堂でそれを読んだ。
記事は長かった。二面まで続いていた。
フォークト伯爵家の令嬢イレーネが、婚約者であるローゼンタール侯爵子息に婚約を解消され、その報復として、侯爵家と関係のある商会を潰そうとしている。監査局の若い監査卿を籠絡し、権限を私的に利用している。救貧院の死者数という数字は、令嬢が一人で集めたもので、根拠がない。
最後に、こう書かれていた。
――なお、令嬢は現在、監査卿の手配した施設に、監査卿と共に滞在中であるという。
私は、新聞を置いた。
手が、冷たかった。
「イレーネ嬢」
ジークベルトが、扉のところに立っていた。
彼も、同じ新聞を持っていた。
「読みましたか」
「はい」
「感想は」
私は少し考えた。
「――上手いです」
彼は頷いた。
「そうです。上手い」
彼は椅子に座り、新聞を机に広げた。
「この記事には、嘘が三つと、本当が四つ入っています」
「本当のほうが多いのですね」
「そこが上手いのです」
彼は指を置いた。
「本当。婚約は解消された。数字は貴女が一人で集めた。貴女は監査局の施設にいる。私が手配した。――全部、事実です」
彼は指を移した。
「嘘。報復ではない。籠絡ではない。根拠がないというのは誤りです」
彼は顔を上げた。
「事実を七割入れておけば、嘘の三割も事実に見えます。反論しようとすれば、事実の部分まで否定することになって、嘘つきに見える」
私は、記事をもう一度見た。
――監査卿と共に滞在中。
「卿。これは、あなたにも刺さります」
「ええ」
「監査官が、監査対象の令嬢と同じ場所に寝泊まりしている、と読まれます」
「そう読ませるために書かれています」
彼は言った。
「私の懲戒事由になります」
私は立ち上がった。
「では、私が出ます」
「座ってください」
「でも」
「イレーネ嬢」
彼の声が、いつもより強かった。
「今、貴女がここを出れば、記事が正しかったことになります。やましいから逃げた、と書かれます」
私は、座り直した。
「では、どうすれば」
「事実を、事実で潰します」
彼は言った。
「ひとつ。私はこの保護所に寝泊まりしていません。局の官舎から通っています。宿直簿があります」
「ふたつ目は」
「保護所には、監査局の官吏が常駐し、記録をつけています。誰がいつ来て、いつ帰ったか」
「みっつ目は」
「貴女の弟君が、ここにいます」
彼は言った。
「保護対象は貴女ではなく、弟君が先です。順序が記録に残っています」
私は、ゆっくり息を吐いた。
この人は、こういう日が来ることを、最初から想定して手続きを踏んでいた。
「――卿。あなたは、これを予想していましたか」
「予想はしていません」
彼は言った。
「ただ、後で説明できるようにしていました」
◇
だが、二日後に、二の矢が来た。
こちらは、新聞ではなかった。
王国財務局から、監査局へ。正式な文書。
「――監査官の交代要求です」
ジークベルトは、その文書を保護所へ持ってきた。
「フォークト伯爵家およびケラー商会に関する一連の監査について、担当監査官を交代させよ、と」
「理由は」
「利害関係の疑い」
彼は言った。
「監査対象家の令嬢と、監査官が私的関係にある疑いがある。これでは監査の公正が保てない」
私は、文書を読んだ。
差出人の欄に、名があった。
――王国財務局次官 ゴットハルト・ラインヴァルト
「本人が、出てきましたね」
私は言った。
「はい」
「それは、追い詰められている証拠ではありませんか」
「そう読むこともできます」
ジークベルトは、いつもの調子で言った。
「ですが、事実として、私は明日から本件の担当を外れます」
私の心臓が、跳ねた。
「――外れる?」
「交代要求は、次官の権限で出せます。監査局長は、これを拒否できません」
「そんな」
「イレーネ嬢」
彼は言った。
「落ち着いて聞いてください」
「落ち着いています」
「握りしめている手を、緩めてください」
私は、自分の手を見た。
文書を、皺だらけに握りつぶしていた。
「……すみません」
「後任は、モーリッツ・ハーゲン監査官です」
彼は言った。
「私の下で八年働いた男です。優秀です」
「信用できる方ですか」
「――分かりません」
彼は正直に言った。
「八年、まっとうに働いていました。ですが、次官が指名した人事です。なぜこの男なのか、私には理由が読めていません」
私は、椅子の背を掴んだ。
「卿は、どうなるのですか」
「別件に回されます。北部の穀倉監査です」
「王都から離れる」
「三か月ほど」
三か月。
私は、頭の中で日付を数えた。今は四百二十九年、第十一の月。三か月なら、四百三十年の第二の月。
処刑の日まで、まだ二年ある。
――間に合う。
そう思おうとして、私は自分の甘さに気づいた。
三年後の処刑は、私が何もしなかった場合の話だ。私はもう、動いてしまった。彼らを刺激してしまった。
日付は、早まるかもしれない。
「イレーネ嬢」
「はい」
「聞いていますか」
「……はい」
私は顔を上げた。
「卿。ひとつ、伺っていいですか」
「どうぞ」
「あなたは、この交代を止めようとしましたか」
彼は、少し黙った。
「――止めました。局長に、二度」
「結果は」
「二度とも、断られました」
彼は言った。
「局長は、こう言いました。ここで君を守れば、監査局そのものが次官に潰される、と」
私は、目を閉じた。
それは、正しい判断だ。組織を守るためには、正しい。
母のときも、そうだったのだろう。誰かが正しい判断をして、母の照会状は返事をもらえなかった。
「イレーネ嬢」
「はい」
「私は、貴女に謝りません」
彼は言った。
「謝れば、私が何かをしてやれたことになります。何もできませんでした」
私は、彼を見た。
この人はいつも、こういう言い方をする。
優しくない。逃げない。ごまかさない。
「――卿」
「はい」
「三か月後、戻ってこられますか」
「分かりません」
「では、これだけ教えてください」
私は言った。
「あなたが北部にいるあいだ、私は何をすればいいですか」
ジークベルトは、私を見た。
そして、彼は懐から一冊の帳面を取り出した。
「これを」
私は受け取った。
開くと、彼の字で、びっしりと書き込まれていた。
日付。人名。役職。金額。関係。
「私が、この二か月で集めた個人的な記録です」
彼は言った。
「監査局の公文書ではありません。私が私費で調べた分です。ですから、私が持ち出しても問題にならない」
私は、頁をめくった。
ラインヴァルト次官の経歴。第二王子との血縁。過去に承認した補助金の一覧。ヴァイマーの経歴。薬事局の人事の流れ。
そして、最後の頁。
――エルフリーデ・フォークト、王暦四百十九年。
母のことが、書かれていた。
「卿。これは」
「調べたと言いました」
彼は言った。
「約束しましたので」
私は、その頁を読んだ。
母が照会状を出した日付。財務局の受付印の記録。そして――
その照会状を受け取った、当時の担当官の名前。
私は、声を失った。
――ゴットハルト・ラインヴァルト。
当時は次官ではない。ただの一等書記官。
でも、同じ男だ。
「母の手紙は」
私は言った。
「あの人の手に、届いていたのですね」
「はい」
ジークベルトは言った。
「届いて、止められました」
◇
彼が保護所を発つのは、翌朝だった。
私は、門まで見送りに出た。
朝霧が出ていた。石壁が濡れて、黒く光っている。
「イレーネ嬢」
馬に乗る前、彼は言った。
「ひとつ、忠告があります」
「はい」
「これから、貴女は孤立します」
彼は言った。
「新聞に叩かれ、監査局の後ろ盾を失い、家には戻れず、味方は減ります。そのとき、人は必ず同じことを考えます」
「――自分ひとりが引けば、丸く収まる、と」
「そうです」
彼は頷いた。
「よく分かっていますね」
「……はい」
私は、三年後を思い出した。
牢の中で、私は何度もそれを考えた。私が罪を認めれば、家が守られる。レオが守られる。そう思って、私は最後まで抵抗しなかった。
抵抗しなかった結果、レオは死んだ。
「卿。私は、それをやりました」
私は言った。
「昔に。そして、失敗しました」
ジークベルトは、私を見下ろした。
霧の中で、彼の灰色の目が、いつもより淡く見えた。
「――イレーネ嬢」
「はい」
「いつか、その話を聞かせてください」
「はい」
「全部が終わったら、と言いましたね」
「言いました」
「では」
彼は馬に乗った。
「終わらせましょう」
彼は手綱を引き、そして、振り返らずに言った。
「三か月、生きていてください」
私は、その背中を見送った。
霧に消えるまで、立っていた。
そして、手の中の帳面を握りしめた。
――生きています。
私は、心の中でそう答えた。
今度こそ。




