第22話 後任
保護所に現れた新しい監査官は、三十半ば。中背でがっしりとして、赤みがかった髪を短く刈っている。ジークベルトの黒衣とは違い、こげ茶の実用的な上着を着ていた。
「はじめまして、フォークト嬢。ハーゲンです」
彼は帽子を取って、あっさりと頭を下げた。
「アーレンス卿の下で八年おりました。厳しい上司でしてね。あの人が笑ったのを二度しか見たことがない」
「……三度目を、私が見ました」
「ほう」
ハーゲンは目を丸くした。
「それは貴重だ。どんな場面で?」
私は、少し迷って答えた。
「薬種問屋五軒の署名を、先にお見せしたときです」
ハーゲンが、声を上げて笑った。
「なるほど。あの人が笑うのは、いい仕事を見たときだけです」
私は、この男を見た。
人当たりがいい。話が早い。ジークベルトとは正反対だ。
――だからこそ、警戒しなければならない。
「ハーゲン監査官」
「モーリッツで結構」
「では、ハーゲン様。ひとつ伺ってよろしいですか」
「どうぞ」
「あなたは、なぜこの案件の担当に指名されたと思われますか」
彼の笑みが、少しだけ止まった。
それから、彼は椅子を引いて座った。
「――率直な方だ」
「時間がありませんので」
「では、率直に返しましょう」
彼は言った。
「私が指名された理由は、二つ考えられます。ひとつ。私が優秀で、この案件を進められるから」
「もうひとつは」
「私が、次官に飼われているから」
彼はあっさりと言った。
「どちらだと思います?」
私は、彼の目を見た。
「――分かりません」
「正直でよろしい」
ハーゲンは笑った。
「私にも分かりません。次官が何を考えて私を選んだのか、本人に聞くわけにもいきませんのでね」
彼は、鞄から書類の束を出した。
「ですから、こうしましょう。私は仕事をします。貴女は私を疑ってください。疑いながら、必要な情報だけ渡してください」
「それでは、監査が進みません」
「進みますよ」
彼は言った。
「貴女が渡さない情報が、貴女にとって一番大事な情報です。それが分かるだけでも、私には十分だ」
私は、思わず身構えた。
この男は、人当たりの良さの下に、まったく別の顔を持っている。
「――ハーゲン様」
「はい」
「あなた、私を試していますね」
「ええ」
彼は認めた。
「アーレンス卿が、なぜ十七の令嬢を監査の中枢に置いたのか。それを確かめないと、私は仕事ができません」
◇
ハーゲンの仕事は、速かった。
着任から十日で、彼はケラー商会の送検書類を仕上げ、ヨハン・ケラーとモーゼルの起訴を確定させた。
二十日目には、薬事局の他の審査官六名から聴取を取り、ヴァイマーが五年間ケラー商会の担当を独占していた経緯を、局内の慣例として文書化した。
三十日目、彼は言った。
「フォークト嬢。ここまでで、私が積み上げたものを整理します」
保護所の食堂の机に、彼は書類を並べた。
「ひとつ。ケラー商会による調剤記録の虚偽記載。確定。免許剥奪済み、起訴済み」
「はい」
「ふたつ。薬事局における審査の形骸化。確定。局内の慣例として、複数の審査官が証言」
「はい」
「みっつ。補助金二万四百ゴルドの支出と、商会受領額一万一千四百ゴルドの差、九千ゴルド。この存在は、王国側の支出記録から確定」
彼は、そこで指を止めた。
「――ここまでです」
「その先は」
「進みません」
ハーゲンは言った。
「九千ゴルドがどこへ行ったのかを追うには、財務局の支出伝票の原本が要ります。伝票は財務局の保管庫にある。立入監査を申請しました」
「結果は」
「却下です」
彼は肩をすくめた。
「理由は、監査局は財務局の上位機関ではないため、と」
私は、拳を握った。
「では、どうすれば」
「方法は三つあります」
彼は指を立てた。
「ひとつ。王命を取る。国王陛下の裁可があれば、財務局は開きます」
「取れますか」
「無理です。陛下は三年前から公務に出ておられない」
私は、初めて聞いた。
「病気ですか」
「公表されていません」
ハーゲンは声を落とした。
「ですが、王宮の実務はすでに第二王子殿下が仕切っておられます。次官はその従兄。王命は、通りません」
「では、二つ目は」
「議会です」
彼は言った。
「王国議会の財政委員会は、財務局に対して資料の提出を求められます。委員会の決議があれば、伝票は出てきます」
「議会は動きますか」
「動かせます。ただし、条件がある」
彼は私を見た。
「委員会で、誰かが問題を提起しなければならない。議席を持つ貴族が」
私は、考えた。
「うちは伯爵家です。父に議席が」
「フォークト伯爵は、十年近く公務に出ておられません。議席は保持されていますが、代理を立てる必要がある」
「代理は、誰が」
「伯爵家の当主代理――」
ハーゲンは、言葉を切った。
私は、理解した。
「――継母です」
「伯爵夫人ですな」
彼は言った。
「動かせますか」
私は、答えられなかった。
継母は、私を憎んでいる。印章を取り上げられ、家の実権を失い、部屋に閉じこもっている。
その人に、議会で立てと頼む。
「――三つ目は」
私は言った。
「三つ目の方法は、何ですか」
ハーゲンは、少し黙った。
「三つ目は、勧めません」
「聞かせてください」
「――貴女が、告発することです」
彼は言った。
「王国臣民は、誰でも王宮の請願所に直接、告発状を出せます。身分は問いません。受理されれば、王宮監察部が調査に入る」
「では、それを」
「フォークト嬢」
彼の声が、初めて低くなった。
「請願所に出された告発状は、まず受理審査にかけられます。審査するのは、王宮の書記局です」
「書記局は」
「第二王子殿下の管轄下です」
私は、言葉を失った。
「告発状には、告発者の氏名と住所を書きます。虚偽の告発と判定されれば、告発者が罰せられる」
彼は言った。
「つまり、貴女が名前と居場所を書いた紙を、相手の手元に自分から届けることになります」
◇
その夜、私は眠れなかった。
保護所の狭い部屋で、私はジークベルトの残した帳面を開いていた。
燭台の火が揺れる。
――議会か、告発か。
どちらも、危険だ。
議会は継母を動かさなければならない。私を殺したい女に、頭を下げなければならない。
告発は、私自身を差し出すことになる。
私は、帳面の頁をめくった。
母の名前が書かれた最後の頁。
――エルフリーデ・フォークト。照会状。受付、ゴットハルト・ラインヴァルト一等書記官。
私は、その名前を見つめた。
十年前、母は正規の手続きで問い合わせた。そして止められた。
もし母が、議会を動かそうとしていたら。
もし母が、告発状を出していたら。
――結果は、同じだったかもしれない。
いや。
私は、指を止めた。
――違う。
母には、なかったものが、私にはある。
私は立ち上がり、帳面を持って部屋を出た。
廊下の突き当たり、ハーゲンが使っている部屋の扉を叩いた。
しばらくして、扉が開いた。寝間着の上に上着を羽織ったハーゲンが、眠そうな顔で立っている。
「……フォークト嬢。今、何刻だと」
「四つ目があります」
私は言った。
「え?」
「方法が、四つ目があります」
私は帳面を掲げた。
「ハーゲン様。九千ゴルドは、財務局から出て、どこかへ行きました。追うには財務局の伝票が要る。そう言われましたね」
「言いました」
「逆から追えます」
私は言った。
「出口ではなく、入口から」
ハーゲンの眠気が、飛んだ顔になった。
「――入口とは」
「補助金の申請書です」
私は言った。
「ケラー商会の代表は言いました。申請書は薬事局から届いた、署名だけしろと。つまり、申請書を作ったのは薬事局です」
「ええ」
「申請書には、金額が書かれています。年に四千ゴルド前後の申請額。それが薬事局から財務局に上がり、財務局が支出を承認する」
私は、指を動かした。
「でも、実際に財務局から出たのは二万四百ゴルド、五年で。商会が受け取ったのは一万一千四百」
「はい」
「では、申請書に書かれていた額は、いくらですか」
ハーゲンが、動きを止めた。
「……申請額と、支出額を、突き合わせる」
「はい」
私は言った。
「もし申請額が一万一千四百なら、財務局が勝手に水増しして支出したことになります。次官の単独犯」
私は続けた。
「でも、申請額が二万四百なら」
ハーゲンの顔が、こわばった。
「――薬事局が、水増しした申請書を作っていた」
「そうです」
私は言った。
「そして、薬事局の申請書の写しは、財務局ではなく、薬事局の保管庫にあります」
私は、彼を見た。
「薬事局の保管庫には、監査局は入れます。前回、入りました」
沈黙が落ちた。
やがて、ハーゲンが、髪をかき上げた。
「……フォークト嬢」
「はい」
「アーレンス卿が、なぜ貴女を中枢に置いたのか、分かりました」
彼は言った。
「明朝、薬事局に入ります」




