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巻き戻った令嬢の帳簿には、私を殺した全員の名前が載っている  作者: やまご


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第23話 空の棚

 埃と、紙と、湿った石。


 保管責任者は、前回と同じ男だった。今日は汗をかいていない。むしろ、落ち着いていた。それが、私には不吉に思えた。


「補助金申請書の綴り。過去五年分です」


 ハーゲンが言った。


「こちらでございます」


 男は、迷わず奥の棚を示した。


 私たちは進んだ。


 棚の前で、私は足を止めた。


 ――空だった。


 棚板が三段、何も載っていない。


「ここにあったのでは」


「ございました」


 保管責任者は、平然と答えた。


「十日前、財務局へ移送いたしました」


「移送」


 ハーゲンの声が、平坦になった。


「補助金関係書類は、財務局の一括管理に移行することになりまして。局長の決裁がございます」


 男は、書類を差し出した。


 移送決裁書。日付、十日前。ハーゲンが着任して二十日目。


 私は、その日付を見た。


 ――ハーゲンが立入監査を申請した、その翌日だ。


「ハーゲン様」


 私は小声で言った。


「あなたが財務局への立入監査を申請したのは、いつですか」


「……十一日前です」


 彼は言った。


「申請の翌日に、書類が財務局へ移った」


 保管責任者が、口を挟んだ。


「移送は以前から予定されておりました。偶然でございます」


「偶然、ですか」


 ハーゲンが、彼を見た。


 その目に、初めて笑みがなかった。


「では伺います。五年分の申請書は、何冊ありましたか」


「……二十三冊かと」


「移送の際、目録は作りましたね。文書移送規程で義務づけられています」


 男の顔が、初めて動いた。


「――目録、は」


「作っていない」


「急ぎでございましたので」


「規程違反です」


 ハーゲンは言った。


「目録のない移送は、移送とは呼びません。紛失と同じ扱いになります」


 彼は、ヴェルナー――今はハーゲンの下についている――に合図した。


「記録を。棚の状態、決裁書の日付、目録の不存在。それから、この保管庫の入退室記録を押収します」


「入退室記録、ですか」


「保管庫には入退室簿があるはずです」


 ハーゲンは言った。


「誰が、いつ、何を持ち出したか。それは残ります」


    ◇


 入退室簿は、押収できた。


 保護所へ戻る馬車の中で、私はそれをめくった。


 十日前の欄。


 午前十時十五分、入室。三名。財務局文書課。退室、午前十一時四十分。


 私は、その三名の名前を見た。


 知らない名前が二つ。そして、三つ目。


 ――ヴィルヘルム・ローゼンタール。


 私は、顔を上げた。


「ハーゲン様」


「見えています」


 彼は言った。


「なぜ、侯爵子息が財務局の文書課と一緒に書類を運ぶのですか」


「ローゼンタール侯爵家は、二年前から財務局に人を出しています」


 ハーゲンは言った。


「爵位を継ぐ前の子息が、役所で数年勤めるのは珍しくありません。名誉職のようなものです」


「では、彼は財務局の職員」


「無給の嘱託です。権限はありません」


 彼は言った。


「ですが、書類には触れます」


 私は、入退室簿を握りしめた。


 繋がっている。継母。ヴィルヘルム。ラインヴァルト次官。ヴァイマー。ケラー商会。


 網だ。やはり、網だ。


「ハーゲン様。この記録は、証拠になりますか」


「弱いですね」


 彼は正直に言った。


「書類を運んだだけです。中身を改竄したという証拠はない」


「では」


「ですが、使えます」


 彼は言った。


「侯爵子息を、監査局に呼べます。説明を求める理由ができた」


    ◇


 ヴィルヘルムが監査局に出頭したのは、四日後だった。


 私は、同席を許された。ハーゲンが認めたからだ。


「貴女がいると、彼は動揺します」


 と、彼は言った。


「動揺した人間は、余計なことを言う」


 取調室は、狭かった。窓のない部屋に、机がひとつ。


 ヴィルヘルムは、以前より痩せていた。目の下に隈がある。それでも、上着は上等なままだった。


 彼は私を見て、一瞬止まり、それから微笑んだ。


「イレーネ。元気そうだね」


「おかげさまで」


「新聞は、読んだよ。ひどい書かれようだった。僕が言ったことじゃない」


「存じております」


 私は言った。


「あなたには、あの記事を書かせる度胸がありません」


 彼の微笑が、固まった。


「ローゼンタール子息」


 ハーゲンが割って入った。


「十日前、薬事局の保管庫から補助金申請書二十三冊が財務局へ移送されました。貴殿は同行しています」


「文書課の手伝いです。無給の嘱託ですので、雑用を」


「移送目録は作りましたか」


「私は運んだだけです。目録は課の仕事でしょう」


「では、二十三冊を運んだことは認めますね」


「……冊数は数えていません」


「では、何冊運びましたか」


「覚えていません」


「箱で何箱でしたか」


「――二箱だったかと」


 ハーゲンが、ヴェルナーに合図した。


「記録を。二箱と証言」


 彼は、書類を一枚出した。


「薬事局の保管庫の棚は、一段あたり綴り八冊が入ります。三段で二十四冊分。二十三冊が入っていた」


 彼は淡々と続けた。


「その規格の綴りは、一冊あたり厚さ二寸。二十三冊で四尺六寸。文書運搬箱の標準寸法は内寸二尺です」


 彼は顔を上げた。


「二箱では、入りません」


 ヴィルヘルムの喉が、動いた。


「――三箱だったかもしれない」


「先ほど二箱と証言されました」


「記憶違いです」


「では、記憶違いを訂正されますね」


 ハーゲンはペンを走らせた。


「訂正。二箱から三箱へ。証言者の申告により」


 私は、その様子を見ていた。


 ――上手い。


 ジークベルトとは、やり方が違う。ジークベルトは条文で退路を塞ぐ。ハーゲンは、証言をずらして矛盾を積む。


 ヴィルヘルムは、これに耐えられない。


「ローゼンタール子息」


 ハーゲンが言った。


「移送された二十三冊は、現在、財務局のどこにありますか」


「知りません」


「運んだ先を知らない」


「渡しただけです」


「誰に」


 ヴィルヘルムが、口を閉じた。


 沈黙が、五秒続いた。


「誰に、渡しましたか」


「……文書課の、担当者に」


「名前を」


「覚えていません」


「先ほど、文書課の手伝いをしていると証言されました」


 ハーゲンは言った。


「手伝っている課の、担当者の名前を覚えていない」


 ヴィルヘルムの額に、汗が浮いた。


 私は、その顔を見ていた。


 三年後、この男は落ち着き払って私を売った。あのときの余裕は、追い詰められていなかったから。


 今、彼は追い詰められている。


 そして、私は気づいた。


 ――この人は、弱い。


 昔から弱かった。ただ、弱いところを見せずに済む立場にいただけだ。


「ヴィルヘルム様」


 私は、口を開いた。


 ハーゲンが、黙って私に譲った。


「ひとつだけ、伺わせてください」


「……なんだ」


「あなたは、あの申請書に何が書いてあるか、読みましたか」


 彼は、答えなかった。


「読んでいませんね」


 私は言った。


「読んでいたら、こんなに簡単に運ばない。読まずに運んだから、あなたは今、自分が何を隠したのかを知らないまま、ここに座っています」


 ヴィルヘルムの目が、揺れた。


「イレーネ」


「あなたは、使われているんです」


 私は言った。


「お義母様と同じように」


 彼が、はじかれたように顔を上げた。


「――アデーレも、そう言っていた」


 言った瞬間、彼は自分の口を押さえた。


 遅かった。


 ハーゲンのペンが、走った。


「記録。ローゼンタール子息、フォークト伯爵夫人アデーレとの接触を自認」


「違う、今のは」


「狩猟館ですね」


 私は言った。


「北の街道沿いの、ローゼンタール家の狩猟館。第十の月の、二十三日の夜」


 ヴィルヘルムの顔から、完全に血の気が引いた。


「なぜ、それを」


「あの夜、あなたはお義母様に頭を下げましたね」


 私は言った。


「どちらが上の立場かは、あれで分かりました」


    ◇


 取調は、二刻続いた。


 ヴィルヘルムは、最後まで核心を認めなかった。だが、矛盾は十七か所記録された。


 彼が退出したあと、ハーゲンは大きく息を吐いた。


「――上出来です、フォークト嬢」


「いえ」


「いや、本当に。狩猟館の件は、いつ調べたのですか」


「アーレンス卿と、二人で追いました」


 私は言った。


「馬車で、夜に」


 ハーゲンが、また笑った。


「あの人が、令嬢を夜の尾行に連れて行ったのですか」


「私が、行くと言いました」


「なるほど」


 彼は書類をまとめながら言った。


「フォークト嬢。ひとつ、お伝えしておくことがあります」


「はい」


「私が指名された理由、分かりました」


 私は、身構えた。


「教えていただけますか」


「次官は、私を『御しやすい』と判断したのだと思います」


 彼は言った。


「私は、上司に逆らったことがない。八年、アーレンス卿の下で、命じられたとおりに働いてきた。局内での評価はそうです」


 彼は、書類を革の鞄に入れた。


「命じられたとおりに働く男は、上が変われば、新しい上の言うとおりに働く。そう見られたのでしょう」


「では、あなたは」


「間違ってはいません」


 彼はあっさりと言った。


「私は、命じられたとおりに働きます」


 私の背が、冷えた。


「ただし」


 彼は顔を上げた。


「私が仕える相手は、次官ではありません」


 彼は、鞄の留め金を閉じた。


「監査局です」


 私は、彼を見た。


「――信じてよろしいのですか」


「いいえ」


 ハーゲンは笑った。


「疑ってください。そう申し上げたはずです」


    ◇


 保護所へ戻ったのは、日が暮れてからだった。


 馬車を降りると、門のところにグレーテルが立っていた。


 その顔を見て、私は駆け寄った。


 老執事の顔が、また蒼白だった。


「どうしたの。レオは」


「坊ちゃまはご無事です」


「では、何が」


 グレーテルは、一通の書状を差し出した。


「屋敷から、使いが」


 私は封を切った。


 短い文面だった。父の秘書の筆跡。


 ――フォークト伯爵、本日未明、死去。


 私は、その紙を見つめた。


 父。


 十年、寝台から出なかった人。母が死んでから、一度も私の名前を呼ばなかった人。


 三年後――私が処刑される前の年に、死んだはずの人。


 一年、早い。


 私は、紙を握りしめた。


「グレーテル」


「はい」


「父の死因は」


「……書かれておりません」


 私は、顔を上げた。


「屋敷に戻ります」


「お嬢様、それは」


「戻らなければなりません」


 私は言った。


「当主が死にました。フォークト伯爵家の議席が、空きます」

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