第24話 喪服の家
その下げ方が、以前と違った。
深い。そして、目を合わせない。
――怖がられている。
私は、そう思った。新聞に叩かれた令嬢。監査局を連れてきて、この家の会計係を捕らえ、伯爵夫人から印章を取り上げた娘。
それでいい。
私は歩を進めた。
父の寝室は、西棟の二階だった。私が最後にこの部屋に入ったのは、二年――いや、五年前になるのか。時間の数え方が、ときどき分からなくなる。
扉を開けた。
部屋は暗かった。窓が閉じられ、カーテンが引かれている。
寝台に、白い布が掛かっていた。
私は、その傍らに立った。
布をめくった。
――父の顔だった。
痩せて、頬がこけて、皺が深い。四十六だったはずだ。もっと老けて見えた。
私は、その顔を見下ろした。
何も感じないだろう、と思っていた。
母が死んでから、この人は私を見なくなった。継母が来てからは、話しかけることもなくなった。私が投獄されたとき、この人は一度も面会に来なかった。
――来られなかったのだ。寝たきりで。
そう思ってみても、埋まらない十年がある。
私は、父の手に触れた。
冷たかった。指が硬い。爪が伸びている。誰も切ってやらなかったのだ。
私は、その手を握った。
「……父様」
声が、出た。
自分でも予想していなかった。
「私、母様と同じことをしています」
返事はない。
「母様が死んだあと、あなたは母様の書いたものを全部燃やしましたね」
私は言った。
「怖かったんですか」
沈黙。
「――怖かったんですね」
私は、父の手を布の下に戻した。
「私も、怖いです」
◇
医師の診断書は、その日のうちに取り寄せた。
――衰弱による自然死。
ハーゲンが読み、私に渡した。
「フォークト嬢。率直に申し上げます」
「はい」
「十年寝たきりだった四十六の男が死ぬのは、不自然ではありません」
「分かっています」
「毒殺を疑うのは、自然な感情です。ですが、今の我々には検証手段がない」
「はい」
私は言った。
「解剖を求めますか」
「求めません」
私は即答した。
ハーゲンが、少し意外そうな顔をした。
「……よろしいので」
「時間が惜しいからです」
私は言った。
「解剖を求めれば、家中が揉めます。教会が反対します。手続きに一か月かかります。そして、結果が出ても、十年寝たきりの人の死因は特定できない可能性が高い」
私は、診断書を置いた。
「その一か月で、申請書二十三冊は焼かれます」
ハーゲンは、しばらく私を見ていた。
「――アーレンス卿は、貴女のそういうところを買っているのですな」
「どういうところですか」
「悲しむのを、後回しにできるところです」
彼は言った。
「褒めてはいません」
「存じております」
◇
葬儀は三日後に行われた。
参列者は、思ったより多かった。近隣の貴族、領内の代表、王都の商人たち。フォークト伯爵家は名家ではないが、古い家だ。
私は喪服を着て、礼拝堂の前列に立っていた。
隣に、継母がいた。
三か月ぶりに見る彼女は、驚くほど落ち着いていた。あの夜、私に「死ぬわよ」と叫んだ女とは別人のようだった。
喪服が、よく似合っていた。
彼女は、参列者一人ひとりに丁寧に頭を下げ、涙を拭き、そして完璧に伯爵未亡人を演じていた。
私は、その横顔を見ていた。
――強い人だ。
三年後、この人は裁判で同じ顔をして、私を殺した。
式の途中、彼女が小声で言った。
「イレーネ」
「はい」
「あなた、痩せたわね」
「お義母様も」
「そうかしら」
彼女は微笑んだ。
「――ねえ、イレーネ。あなた、議席が欲しいのでしょう」
私は、動きを止めた。
参列者の前だ。声を荒らげるわけにはいかない。
「……ご存じでしたか」
「分かるわ」
彼女は前を向いたまま言った。
「私、あなたのお母様も知っているもの」
私の指先が、冷たくなった。
「母を」
「ええ。あの人も同じ顔をしていたわ。数字を見つけたときの顔」
継母は、静かに言った。
「あの顔をした女は、必ず死ぬの」
◇
葬儀の翌日、私は継母の部屋を訪ねた。
彼女は窓辺の椅子に座って、庭を見ていた。バラの垣根が、冬枯れしている。
「お座りなさい」
私は、向かいの椅子に座った。
しばらく、どちらも黙っていた。
「――お義母様」
「なあに」
「フォークト伯爵家の議席について、お話があります」
「知っているわ」
彼女は言った。
「当主が死んだ。次の当主が決まるまで、議席は未亡人が代理で持つ。あなたは、それを使いたい」
「はい」
「私に、議会で王国財務局を追及しろと」
「はい」
「断るわ」
即答だった。
私は、身を乗り出した。
「お義母様。理由を伺えますか」
「死にたくないからよ」
彼女は、こちらを見た。
その目には、あの夜と同じ恐怖があった。
「イレーネ。あなた、私が何をしてきたか知っているでしょう」
「はい」
「私は、家の金を盗んだ。あなたの弟の薬から抜いた。あなたに罪を着せる用意もしていた」
彼女は、あっさりと認めた。
私は、息を呑んだ。
「――今、認めましたね」
「二人きりよ。書記もいない」
彼女は言った。
「それに、もうどうでもいいの」
「どうでもいい、とは」
「私は終わりだから」
彼女は窓の外を見た。
「印章を取られて、家の実権を失って、夫が死んだ。私にはもう何もない。ヴィルヘルムは私を切るでしょう。あの人たちも、私を切るでしょう」
「あの人たち、というのは」
彼女は答えなかった。
「お義母様」
私は言った。
「なぜ、盗んだのですか」
継母の肩が、わずかに動いた。
「……なぜだと思う」
「分かりません」
私は正直に言った。
「あなたは伯爵夫人でした。お金には困っていなかったはずです」
「困っていたわ」
彼女は言った。
「私の実家、知っている?」
「――ベルクマン男爵家です」
「潰れたのよ。私が嫁いだ二年後に」
彼女は言った。
「弟が三人いるの。父が死んで、家が潰れて、母と弟三人が残った。誰が食べさせると思う?」
私は、言葉を失った。
「最初は、私の持参金から出したわ。それが尽きて、次は宝石を売った。それも尽きた」
彼女は、静かに言った。
「そのときに、話が来たの。家の帳簿から少しずつ抜けばいい、代わりに商会が便宜を図る、と」
「――誰から」
「ローゼンタール侯爵よ。ヴィルヘルムの父」
私は、拳を握った。
「では、あなたも」
「私も、使われている側」
彼女は、私の言葉をそのまま返した。
「あなたが言ったとおりよ、イレーネ」
沈黙が落ちた。
私は、この人を憎んでいた。三年間、牢の中で、この人の唇の端の動きだけを憎み続けていた。
その人が今、目の前で、疲れた顔をしている。
――それでも。
「お義母様」
私は言った。
「弟の薬のことは、別です」
継母が、こちらを見た。
「金を盗むのと、子どもの薬を薄めるのは、違います」
私は言った。
「あなたは、レオを殺そうとしました」
「――殺そうとはしていないわ」
「では、何を」
「あの子が死ねば、フォークト家に跡継ぎがいなくなる」
彼女は言った。
「そうすれば、あなたが婿を取ることになる。婿はヴィルヘルム。ローゼンタール家が、この家を丸ごと手に入れる」
私は、目を閉じた。
やはり、そういう話だった。
「私は、薬を薄めろとは言っていない。商会に、薬代を少なく渡しただけ。何が起きるかは、分かっていたけれど」
彼女は言った。
「――それを、殺そうとした、と言うのなら。そうなのでしょうね」
私は、目を開けた。
「お義母様。私、あなたを許しません」
「許されたいとは思っていないわ」
「でも」
私は言った。
「取引はします」
継母の眉が、動いた。
「議席の代理を、私に譲ってください」
私は言った。
「女性は議席を持てませんが、当主代理の代理は立てられます。あなたが私を指名すれば、私が委員会に出られます」
「あなたが出れば、あなたが狙われるわ」
「はい」
「死ぬわよ」
「はい」
私は言った。
「代わりに、あなたに二つ差し上げます」
「――なあに」
「ひとつ。あなたの弟三人の生活を、私が保障します。フォークト家の名で。監査局を通した正式な契約にします」
継母の目が、見開かれた。
「ふたつ」
私は言った。
「あなたの罪を、私は隠しません。隠さない代わりに、正しく量ります」
私は言った。
「あなたが盗んだのは千二百ゴルド。九千ゴルドではない。薬を薄めたのは商会であって、あなたではない。その区別を、私が法廷で証言します」
継母は、長いあいだ黙っていた。
冬の光が、彼女の頬に落ちていた。
「……イレーネ」
「はい」
「あなた、お母様に似てきたわ」
彼女は言った。
「あの人も、私を助けようとしたのよ」
私は、息を止めた。
「――母が?」
「ええ」
彼女は窓の外を見た。
「私が嫁いでくる前ね。実家が傾きかけたとき、エルフリーデ様は、うちの帳簿を見てくださったの。まだお元気だったころ」
彼女は言った。
「あの人、こう言ったわ。『まだ間に合います』って」
私の胸が、鳴った。
「間に合わなかったけれど」
継母は、笑った。乾いた笑いだった。
「――いいわ、イレーネ」
彼女は立ち上がった。
「議席の代理は、あなたに譲る」
「お義母様」
「ただし、条件が一つ」
彼女は、私を見た。
「委員会で、あなたが立つ日。私も傍聴席に行かせなさい」
「なぜ」
「見届けたいのよ」
彼女は言った。
「エルフリーデ様の娘が、あの人たちに何を言うのか」




