第8話 九分の一
監査妨害という言葉を、ヴィルヘルムは笑って受け流そうとした。
翌朝、応接間に呼び出された彼は、遅れて現れた。二十分。わざとだ。ローゼンタール侯爵家の子息は、監査局の呼び出しに走ったりしない、という意思表示。
「やあ卿。父も気にしていましてね、なにぶん当家は先代から王国財務局とは懇意にしておりますので」
「お座りください」
ジークベルトは書類から目も上げなかった。
ヴィルヘルムの笑みが、わずかに硬くなった。それでも彼はソファに腰を下ろし、優雅に脚を組んだ。
私は昨日と同じく壁際に立っている。今日は椅子を勧められなかった。ジークベルトが、私を立たせておくほうがいいと判断したのだと思う。座る者と立つ者では、聞こえてくる言葉が変わる。
「昨日、貴殿はフォークト伯爵家への融資について、額を二百ゴルドと述べられました」
「ええ、たしか、と申し上げましたが」
「これが、貴殿から本日提出された契約書の写しです」
ジークベルトが一枚目を置いた。
「そしてこれが、二年前に貴家自身が監査局へ届け出た、同一契約の写しです」
二枚目。
ヴィルヘルムの視線が、二枚目の金額欄に落ちた。
千八百ゴルド。
彼は動かなかった。表情も変えなかった。ただ、組んでいた脚が、静かにほどけた。
「……局に、届け出が」
「額が百ゴルドを超える貴族間融資は、届出が義務です。貴家は法を守っておられた」
ジークベルトは淡々と言った。
「守っておられたので、記録が残りました」
私は、壁際で拳を握った。
これだ。三年後、私に決定的に足りなかったもの。相手の言葉と、相手自身が過去に残した記録を、並べて突き合わせること。
人は嘘をつける。でも、二年前の自分が書いた紙は、今日の自分の都合を知らない。
「イレーネ嬢」
ジークベルトが、初めて私を呼んだ。
「昨日、貴女が指摘した点を、ご子息にご説明ください」
私は前に出た。
ヴィルヘルムが私を見上げた。その目に、初めて――怯えに似たものが差した気がした。
「ヴィルヘルム様」
私は言った。
「二百ゴルドと千八百ゴルドでは、返済額が変わります」
「……それは、そうだね」
「年利一割二分、五年返済。二百ゴルドなら、年の返済は五十四ゴルド前後。うちの年収から見れば、払える額です」
私は指を折った。
「千八百ゴルドなら、年の返済は四百九十ゴルド前後。うちの年収の、およそ一割二分。父が臥せって領の収入が細っている今、これは払えません」
「だから融通を利かせて――」
「払えないことを、貸した側は知っていました」
私は彼の言葉を切った。
「契約書の三行目。債務不履行が生じた場合、貸主は借主家の財務執行権を代行する。返済できない額を貸して、返済できないことを理由に、家の財布を取る。これは融資ではありません」
私は息を吸った。
「乗っ取りです」
応接間が、静まり返った。
ヴィルヘルムは、しばらく私を見ていた。
それから、彼は笑った。
昨日までの、人好きのする笑みではなかった。片頬だけを持ち上げる、見たことのない笑い方だった。
「イレーネ。君、変わったね」
「そうでしょうか」
「前は、そんな喋り方をしなかった。もっと……可愛げがあった」
可愛げ。
三年後、私が牢から出した嘆願書を、彼はこう評したと聞いた。「あの女は昔から可愛げがなかった」と。
やっと本音が出た、と思った。
「ローゼンタール子息」
ジークベルトが言った。
「監査官の面前での虚偽申告は、王国財務規律法第十一条に触れます。過料、および爵位継承資格の一時停止」
「……冗談でしょう」
「条文をお読みになりますか」
ヴィルヘルムの顔から、血の気が引いた。
爵位継承資格。この男が、この世でいちばん大事にしているもの。
「待ってくれ。私は、額を正確に記憶していなかっただけだ。虚偽の意図はない」
「記憶違いなら、なぜ本日提出された写しの金額も二百ゴルドなのですか」
「それは、書記が」
「貴家の書記が、契約書を書き間違えたと」
「……そうだ」
「では、その書記の名をお教えください。局から直接、事情を伺います」
沈黙。
ヴィルヘルムの唇が、動かなかった。
名前を出せば、その書記が調べられる。調べられれば、契約書が昨日書かれたことが分かる。分かれば、指示した人間が誰かも分かる。
どこにも逃げ道がない。
私は、その顔を見ていた。
三年後、証言台の上でこの男は堂々としていた。落ち着き払って、私を売った。あのときの余裕は、追い詰められていなかったからだ。
人は、追い詰められれば、こんな顔をする。
初めて知った。
「……少し、時間をいただきたい」
彼は絞り出すように言った。
「父と相談を」
「三日差し上げます」
ジークベルトは書類を閉じた。
「三日後、正確な融資額と、契約の経緯を書面でご提出ください。それまでに、フォークト伯爵家に対する財務執行権の主張は一切行わないこと。これは監査局からの通告です」
ヴィルヘルムは立ち上がった。
部屋を出る直前、彼は足を止め、私を振り返った。
「イレーネ」
「はい」
「僕は、君を守ろうとしていたんだよ」
私は微笑んだ。
「ええ。存じております」
――守ろうとしていた。三年後、私の首が落ちるまで。
扉が閉まった。
◇
「イレーネ嬢」
二人になってから、ジークベルトが言った。
「貴女は、彼を愛していましたか」
唐突な問いだった。
私は少し考えて、正直に答えた。
「愛していたと思います。少し前までは」
「少し前」
「……ええ」
三年前まで、とは言えなかった。
ジークベルトは追及しなかった。彼はいつも、私が答えたくないところで、静かに引く。
「先ほどの説明は的確でした。返済額の試算を、その場で口頭で出せる人間は多くない」
「褒めていただけるとは」
「事実の確認です」
彼は書類をまとめながら、続けた。
「ただ、ひとつ懸念があります」
「なんでしょう」
「今日、我々は敵を一人、追い詰めました。追い詰められた者は、二つのうちどちらかを選びます。降りるか」
彼は顔を上げた。
「切り捨てるか」
◇
その夜、私は東棟の窓から中庭を見ていた。
継母の部屋の灯りが、まだ消えていない。深夜だった。
やがて、裏門のほうで馬の蹄の音がした。
私は目を凝らした。
門を出ていくのは、うちの馬車ではない。二頭立ての、飾りのない黒い馬車。夜に貴族が使う、紋章を隠した馬車だ。
その馬車が来た方向を、私は目で辿った。
北。ローゼンタール侯爵領のほうだ。
「グレーテル」
私は背後に声をかけた。老執事は音もなく現れた。
「今、裏門から誰か出ていったわ」
「はい。……お嬢様、お伝えすべきことが」
「なに」
「先ほど、伯爵夫人の部屋に、ケラー商会の番頭が呼ばれておりました。裏口から」
私の思考が、冷たく回った。
ケラー商会。薬を薄めていた商会。継母が金を抜く経路。
なぜ今、番頭を呼ぶ。
――切り捨てるか。
ジークベルトの言葉が、耳の奥で鳴った。
私は駆け出した。
「お嬢様!」
東棟の階段を駆け下り、廊下を抜け、書斎の扉を叩いた。返事を待たずに開けた。
ジークベルトは、まだ机にいた。
「卿。ケラー商会の帳簿を、今すぐ押さえてください」
彼は顔を上げた。
「理由は」
「継母が、今夜、番頭を呼びました。そして裏門から馬車が北へ出ました」
私は息を切らしながら言った。
「証拠を消すか、罪をかぶる人間を決めるか、どちらかです。明日では遅い」
ジークベルトは一秒だけ私を見て、立ち上がった。
「馬を」
「はい」
「イレーネ嬢は残ってください。これは監査局の権限行使です」
「行きます」
「なぜ」
「私が帳簿を読めるからです」
私は言った。
「押収した帳簿の、どの頁を見るべきかを判断できるのは、この家の数字を三年分覚えている人間だけです。卿、あなたはまだ二日しか見ていない」
ジークベルトの動きが、止まった。
彼は私を見た。長い一秒だった。
そして、黒衣の袖から予備の外套を取り、私に放った。
「――夜風は冷えます。着てください」




