第7話 二百ゴルドの嘘
第7話 二百ゴルドの嘘
融資契約書の写しは、その日の夕刻に届いた。
封を切ったのはジークベルトだった。私は机の反対側から、彼が紙を広げるのを見ていた。二枚。それだけだ。二百ゴルドを貸したという契約が、たったの二枚。
「読みますか」
「はい」
彼は紙をこちらへ回した。
私は目で追った。日付、当事者、額、返済条件。ローゼンタール侯爵家がフォークト伯爵家へ二百ゴルドを貸し付ける。返済は五年。利息は年に一割二分。
私は二度読んだ。
三度目で、指が止まった。
「……卿」
「気づきましたか」
「担保の条項がありません」
「そうです」
ジークベルトは椅子の背に体を預けた。
「二百ゴルドは小さくない額です。貴族間の融資なら、通常は担保を取ります。領地の一部、鉱山の採掘権、あるいは物納の約定。何もない融資は、貸し手が損をするだけだ」
「ローゼンタール家は、損をする家ではありません」
私は言った。三年後、私を切り捨てるときの手際を思い出しながら。
「では、どこで取り返すつもりなのか」
ジークベルトは指で紙の一点を叩いた。
「ここです」
私は覗き込んだ。契約書の下から三行目。細かい字で、こう書かれていた。
――債務不履行が生じた場合、貸主は借主家の財務執行権を代行するものとする。
財務執行権の代行。
私は息を止めた。
「……つまり」
「返済が滞れば、ローゼンタール家がフォークト家の金庫の鍵を握る。担保より重い条件です。土地を取るのではない。家そのものを、内側から動かす権利を取る」
彼は淡々と続けた。
「そして、貸主自身が借主家の支払を承認できる立場にいる。返済を滞らせることも、貸主の側でできてしまう」
私の背に、汗が伝った。
これは、罠だ。二百ゴルドで買ったのは、伯爵家の財布ではない。伯爵家の意思決定そのものだ。
「お義母様は、これを分かって署名したのでしょうか」
「分かっていたと思います」
「なぜ」
「彼女にとっても都合がいいからです」
ジークベルトは私を見た。
「伯爵夫人は家の金を抜いている。抜けば、いずれ帳尻が合わなくなる。合わなくなったとき、誰かのせいにする必要がある。ローゼンタール家の執行権は、彼女にとって隠れ蓑になる。逆にローゼンタール家は、抜かれた穴を口実に執行権を発動できる」
「共犯」
「いいえ」
彼は首を振った。
「相互利用です。共犯者は目的を共有しますが、この二者は目的が違う。夫人は金が欲しい。侯爵家は家が欲しい」
私は、ゆっくりと椅子に座り直した。
三年後、私を殺した仕掛けの形が、少しずつ見えてきた。継母が金を抜き、ローゼンタール家がその穴を利用して家を掌握し、そして最後に穴の責任を誰かに被せる。被せる相手は、帳簿に筆跡が残っていて、家の中で最も無力な人間。
私だ。
最初から、そのために婚約させられたのだ。
――思ったより、痛くなかった。
ヴィルヘルムを愛していた自分が、遠かった。三年の牢と、一度の処刑が、あいだに挟まっている。
「イレーネ嬢」
「はい」
「顔色が悪い」
「大丈夫です」
「そうは見えません」
私は顔を上げた。
ジークベルトは、書類ではなく、私を見ていた。
「監査は、身内を疑う作業です。貴女は今日、婚約者と義母の両方を疑った。平気なはずがない」
「……平気です」
「では、その手はなぜ震えているのですか」
私は自分の右手を見た。
膝の上で、指が細かく震えていた。いつからか、分からない。
「私は」
声が掠れた。
「私は、この人たちを信じていたんです。お義母様は、母が死んだあと、私に刺繍を教えてくれました。ヴィルヘルム様は、数字が読める女性は初めてだと言ってくれました」
言葉が勝手に出てきた。止められなかった。
「それが全部、私を都合よく使うための――」
私は口を噤んだ。
膝の震えが、上がってきていた。
私はこの三年、ずっとひとりだった。牢の中で、誰も来ない面会日を数えて、それでも弟のために生きようとして、そして弟はもう死んでいた。
その全部が、この二枚の紙から始まっていた。
目の奥が熱くなった。
だめだ。ここで泣いてはいけない。泣けば、この男は私を「感情で動く人間」として扱う。数字の話が、できなくなる。
私は歯を食いしばって、顔を上げようとした。
その視界に、白い布が差し出された。
ジークベルトの手巾だった。
「……いえ、私は」
「監査の記録に、泣いたかどうかは書きません」
彼は言った。
「書くのは、貴女がこの契約書の欠陥を、私より先に見つけたという事実だけです」
私は手巾を受け取った。
顔を押さえた。布は、乾いた紙とインクの匂いがした。
声は出さなかった。ただ、肩が二度、三度と揺れた。
ジークベルトは何も言わなかった。慰めもせず、席も立たず、ただ黙って、契約書の別の頁をめくり続けていた。
その紙の音が、ありがたかった。
◇
落ち着いてから、私は言った。
「卿。この契約書、私はおかしいと思います」
「どこが」
「額です」
私は指で、契約書の金額欄をなぞった。
「二百ゴルド。ヴィルヘルム様は『たしか二百ゴルドほど』と言いました。でも、うちから抜かれている額は、年に三百九十ゴルド。三年で千百七十」
「ええ」
「二百ゴルドの融資で、千百七十ゴルドの穴を隠すことはできません。穴のほうが大きすぎる」
ジークベルトのペンが止まった。
「続けて」
「もし、私が仕掛ける側なら」
私は言った。
「二百ゴルドの契約書は、表に出すためのものにします。中身の薄い、綺麗な契約書。監査が入ったときに出せるように」
「では、本当の額は」
「もっと大きいはずです。そして、それを記録した紙が、どこかにあります」
私は顔を上げた。
「ヴィルヘルム様は、契約書の写しを『本日中に』と言われて、渋りました。でも夕方には届いた。半日で用意できたということは――」
「用意する時間があった、ということですね」
ジークベルトが、初めて薄く笑った。
「イレーネ嬢。ひとつ、貴女に確認したい」
「はい」
「この二枚の紙は、いつ書かれたと思いますか」
私は紙に顔を近づけた。
インクの色。紙の日焼け。折り目。
――折り目が、一本しかない。
二年近く前の契約書なら、保管の過程で何度も折られ、開かれる。角も擦れる。でもこの紙は、真新しい折り目が一本、真ん中に走っているだけだった。
「……今日です」
私は言った。
「これは今日、書かれたものです」
ジークベルトは頷いた。
そして、机の引き出しから、もう一枚の紙を取り出した。
「監査局は、貴族間の融資契約について、写しの提出を義務づけています。額が百ゴルドを超える場合は」
彼はその紙を、契約書の隣に置いた。
「ローゼンタール侯爵家からフォークト伯爵家への融資として、二年前に局へ届け出られた契約書の写しです。局の保管庫から取り寄せました」
私は覗き込んだ。
同じ日付。同じ当事者。同じ条項。
違うのは、たった一箇所だった。
金額欄。
――千八百ゴルド。
「ローゼンタール侯爵子息は」
ジークベルトが静かに言った。
「私の前で、額を九分の一に偽って申告しました。これは、監査妨害です」




