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巻き戻った令嬢の帳簿には、私を殺した全員の名前が載っている  作者: やまご


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第6話 二つの剣と月桂樹

第6話 二つの剣と月桂樹


 ヴィルヘルム・ローゼンタールは、朝の光がいちばん綺麗に入る時間に屋敷へ来た。


 昔から、そういう男だった。自分がどう見えるかを、常に計算している。玄関ホールの階段の下、明かり取りの窓を背にして立つ彼は、絵から抜け出したようだった。栗色の髪、整った鼻梁、人好きのする笑み。


 三年後、この笑みのまま証言台に立った男。


「イレーネ」


 彼が両手を広げた。


「知らせを聞いて飛んできたよ。監査が入っているって? 大丈夫かい、君ひとりで抱え込んでいないだろうね」


 私は階段を下りきり、彼の前で足を止めた。


 抱きしめられそうになる直前、私は膝を折って、完璧な淑女の礼をした。


「おはようございます、ローゼンタール様」


 彼の手が、行き場を失って宙に浮いた。


「……様、はよしてくれよ。婚約者だろう」


「監査中ですので。公私は分けませんと、卿に叱られます」


「卿?」


「私です」


 背後から声がした。


 ヴィルヘルムの表情が、ほんの一瞬だけ、崩れた。


 振り返ると、ジークベルトが階段の中ほどに立っていた。黒衣に書類の束。灰色の目が、真上からヴィルヘルムを見下ろしている。


「王国財務監査局、ジークベルト・アーレンス。ローゼンタール侯爵子息とお見受けします」


「これは……監査卿ご自身がお出ましとは。父も驚くでしょうな」


 ヴィルヘルムは、すぐに笑みを取り戻した。さすがだ、と思う。この切り替えの速さが、彼の武器だった。


「ちょうどよかった。ご子息にお伺いしたいことがございます」


 ジークベルトは階段を下りながら、書類を一枚抜き出した。


「フォークト伯爵家の支払指図書。王暦四百二十七年、第十一の月分。承認署名欄に、貴殿の名と、ローゼンタール侯爵家の印章がございます」


 彼は紙を差し出した。


「他家の支払を、なぜ貴殿が承認されたのですか」


 玄関ホールが静かになった。


 私は、ヴィルヘルムの手元を見ていた。紙を受け取る指。震えていない。彼は紙面をゆっくり眺め、ああ、と声を上げた。


「これは立替払の分ですね」


「立替」


「フォークト伯爵家に、当家から融資をしております。伯爵は長く臥せっておいでで、領の運転資金が細っていたので。父が、隣家のよしみで」


 融資。


 私の内側で、何かが冷たく落ちた。


 知らない。私はそんな話を聞いていない。三年後の裁判でも、一度も出てこなかった。


「その際、支払先へ当家が直接支払うほうが早い場合がありまして。その分は当家の印で承認しております。伯爵夫人のご了解のうえです」


「融資契約書は」


「当家にございます」


「額は」


「たしか……二百ゴルドほどだったかと」


 ジークベルトは頷いた。手帳にも書き留めない。ただ、頷いた。


「では、契約書の写しを本日中にご提出ください」


「本日中は、少し」


「本日中に」


 ヴィルヘルムの笑みが、わずかに硬くなった。


「……承知しました」


    ◇


「イレーネ、少し歩かないか」


 中庭で、彼は私の隣に並んだ。


 バラの垣根が続いている。三年前――今から見れば三年後――私が投獄された年に、この垣根は全部引き抜かれた。継母が、手入れの費用が惜しいと言って。


「あの監査卿、感じの悪い男だな」


「そうでしょうか」


「令嬢の君を犯人扱いしているんだろう? 僕が父に言って、局のほうへ手を回してもいい」


 私は足を止めた。


「ヴィルヘルム様」


「なんだい」


「その融資、私は聞いておりません」


 彼が振り返った。


「家の帳簿を書いているのは私です。二百ゴルドの融資があれば、必ず私の帳簿に載ります。載っていません。一度も」


 バラの香りがした。甘すぎる香りだった。


 ヴィルヘルムは、ゆっくりと微笑んだ。


「イレーネ。君はよく数字を見ている。それは君の美点だ。昔から、僕は君のそういうところが好きだった」


 彼の手が伸びて、私の頬にかかった髪を耳にかけた。


 私は動かなかった。動けば、この手を叩き落としてしまいそうだったから。


「でもね、家の金の話は、大人がやることだ。君のお義母様も、僕の父も、君を守るために動いている。君は何も知らなくていい」


 知らなくていい。


 三年後、私は何も知らないまま処刑された。


 彼が言った「知らなくていい」の中身が、私の首を落としたのだ。


「……そうですね」


 私は微笑んだ。うまく笑えた自信がある。三年、牢の中で練習したようなものだ。


「私、何も知らないんです。何も」


    ◇


 彼が帰ったあと、私は書斎へ戻った。


 ジークベルトは机で例の支払指図書を睨んでいた。私が入ると、彼は顔も上げずに言った。


「イレーネ嬢。婚約はいつですか」


「え?」


「ローゼンタール侯爵子息との婚約が成立した日付です」


「……四百二十八年の、第一の月です」


 ペンが止まった。


 ジークベルトが顔を上げた。灰色の目に、はっきりと感情が浮いていた。それが何なのか、私はまだ知らない。


「この支払指図書の日付は、四百二十七年、第十一の月」


 彼は紙を持ち上げた。


「婚約の、二か月前です」


 私の背筋が、冷えた。


「婚約する前から、ローゼンタール家の印は、この家の金を動かしていた」


 ジークベルトは静かに言った。


「順序が逆です、イレーネ嬢。彼らは婚約したから、この家の金に触れられたのではない」


 彼は紙を机に置いた。


「この家の金に触れるために、婚約したのです」

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