第5話 床板の下
朝の光が、東棟の書斎に薄く差し込んでいた。
ジークベルトは、昨日と同じ黒衣で、昨日と同じ椅子に座っている。違うのは、机の上に監査局の封蝋つき書類が置かれていることと、彼の背後に書記官がひとり控えていることだった。
書記官は若い男で、私の顔を見ないようにしている。伯爵令嬢を犯人として調べに来た、と思っているのだろう。
「では、始めます」
ジークベルトが言った。
「本日付をもって、フォークト伯爵領および同伯爵家に対する会計監査を開始します。イレーネ嬢、昨日申し上げた件を」
私は頷いた。
膝をつき、机の脇の床板に指をかける。三枚目の板は、釘が一本抜いてある。指を差し込むと、軋みながら持ち上がった。
書記官が息を呑む音がした。
私は中から、布に包んだものを取り出し、机の上に置いた。
布を開く。
薬瓶が二本。並べて置くと、褐色のガラスが朝日を受けて、鈍く光った。
「これは?」
「ケラー商会から届いた、弟の強心薬です。二本とも封は切っていません」
私は綴じ帳を、その隣に置いた。
「そして、薬師ハルデンによる鑑定書。日付と署名入りです。ここに、この薬が規定の三分の一に薄められていること、増量剤として鉛白が混入していることが書かれています」
ジークベルトが鑑定書を取り上げ、読み始めた。
書記官が横から覗き込み、そして小さく声を上げた。
「鉛白……これは」
「毒でございます」
部屋の隅から、グレーテルの声がした。老執事は昨夜から一睡もしていない顔で、扉のそばに立っている。
「少量では死にません。ですが、長く飲めば手足が痺れ、物忘れが増え、やがて心を病みます。当家の坊ちゃまは、九つでございます」
ジークベルトは鑑定書から目を上げなかった。
しばらくして、彼は言った。
「イレーネ嬢。この二本の瓶は、いつ、誰から、どういう手順で受け取りましたか」
私は答えた。
「一本目は一昨日の夕刻。グレーテルが弟の部屋から、封を切る前に持ち出しました。二本目は昨日の午前、ケラー商会の使いが届けたものを、私が玄関で直接受け取りました。使いの名はヨナス。荷札の控えがあります」
私はもう一枚の紙を出した。商会の荷札。日付と品目と、届けた者の名。
「そして」
私は少し息を吸って、続けた。
「――申し上げておくことがあります。ハルデン翁の鑑定に出したのとは別に、翁に同じ処方の薬を作らせ、同じ瓶に詰め、同じ封をして、弟の部屋にすり替えて置きました」
書記官が、あからさまに眉をひそめた。
「それは、証拠の偽装では」
「そうです」
私は認めた。
「私は瓶をすり替えました。弟に本物の薬を飲ませるためです。でも、私がその工作をしたという事実を、私自身の口から先に申し上げます。あとから誰かに暴かれるより、私が言ったほうがいい」
ジークベルトが、初めて顔を上げた。
「なぜ、先に言うのですか」
「隠せば、それは嘘になります」
私は言った。
「嘘をひとつ吐けば、私の言うこと全部が疑わしくなります。証拠を五十積んでも、嘘一つで崩れる。三年――」
三年後の裁判で、と言いかけて、私は口を閉じた。
「……三年分の帳簿を洗うつもりです。だから、最初のひとつも汚したくない」
沈黙。
ジークベルトは、瓶を一本、指先で光にかざした。
「賢明です」
彼は言った。
「そして、正しい。証拠の連鎖は、途切れた瞬間に価値を失う。誰の手を、いつ、どう経たか。それが分からない証拠は、法廷では紙屑です」
彼は書記官を振り返った。
「記録を。イレーネ嬢の供述をそのまま。すり替えの件も省かずに」
「よろしいのですか。これは彼女に不利な」
「事実に有利も不利もありません。書きなさい」
書記官が慌ててペンを走らせ始めた。
ジークベルトは瓶を置き、私に向き直った。
「ひとつ、訂正させてください。イレーネ嬢」
「何を」
「昨夜、私は貴女を最も疑わしいと申し上げた。あれは撤回しません。立場上、まだ撤回できない」
彼は瓶を指した。
「ですが、この二本は、貴女が犯人でないことを示す物証としては、現状で最も強い。犯人が自分の犯行の証拠を封のまま床下に保管し、監査官の前で自ら差し出す理由がない」
「では」
「疑いの順位が下がった、ということです」
彼は淡々と言った。
「そして、伯爵夫人の順位が上がりました」
私は、机の下で拳を握った。
三年かかった。三年かかって、届かなかった。
それが、三日で動いた。
◇
「まあ、恐ろしい」
継母アデーレは、応接間のソファでそう言った。
監査の正式な聴取だった。ジークベルトが向かいに座り、書記官が横で控えている。私は壁際に立っていた。同席を許されたのは、私が帳簿の記帳者だからだ。
「そんなことが、うちの薬で。ケラー商会は先代からのお付き合いですのに」
アデーレは手巾を口元にあて、震える声で言った。
「あの商会、すぐに切りましょう。ねえイレーネ、あなた気づいていたのなら、なぜ言ってくれなかったの」
来た、と思った。
三年後と、同じ台詞だ。あのときは裁判の場で言われた。「イレーネさん、あなたは帳簿の異常に気づいていながら、半年も黙っていましたわね」と。
私は口を開こうとした。
その前に、ジークベルトが言った。
「伯爵夫人。ケラー商会との取引は、当面ご継続ください」
「まあ、なぜ」
「取引を切れば、商会は帳簿を焼きます」
彼は書類をめくった。
「それと、確認させていただきたい点が三つございます。ひとつ目。当家の支払いの決裁は、どなたが」
「主人ですわ。ただ、臥せっておりますので、この二年は私が代理を」
「では、支払指図書に署名されるのは夫人ご自身」
「ええ、そうなりますわね」
「二つ目。イレーネ嬢は帳簿を記帳されていますが、支払いそのものは行えますか」
「……いいえ。あの子には印章がありませんもの」
「印章をお持ちなのは」
「主人と、私です」
私は、壁際で息を詰めていた。
この男は、順番に、退路を塞いでいる。
この家の金を実際に動かせるのは、印章を持つ二人だけ。父は寝たきり。つまり、一人だけ。
「三つ目」
ジークベルトは顔を上げた。
「白蝋の値をご存じですか」
アデーレの手巾が、一瞬止まった。
「……蝋の、値」
「はい。当家は月に六十ポンドの白蝋を購入されています。帳簿上の支払いは月十一ゴルド。市場価格は一ポンド八グロート前後です。夫人は、この差額をどう説明されますか」
「そんな細かいこと、私にはとても」
「では、支払指図書に署名される際、金額を確認されないのですか」
沈黙が落ちた。
アデーレの顔から、悲しみの表情がすっと引いた。
わずか一秒。すぐに元に戻った。でも私は見た。ジークベルトも見たはずだ。
「……アーレンス卿」
彼女は微笑んだ。美しい微笑だった。
「私を、疑っていらっしゃるの?」
「私は数字を疑っています」
ジークベルトは書類を閉じた。
「夫人。監査は今後、当家のすべての支払記録に及びます。ご協力いただけますね」
「もちろんですわ。やましいことは何ひとつありません」
「結構です」
彼は立ち上がった。
「では、まず支払指図書の原本を、三年分すべてご提出ください。本日中に」
アデーレの笑みが、固まった。
◇
その夜。
私は弟の部屋にいた。
レオは寝台の上に半身を起こして、私が持ってきた蜂蜜入りの温かい牛乳を、両手で抱えるようにして飲んでいた。
「姉上、お屋敷に知らない人が来てるね」
「うん。お客様よ」
「こわい人?」
私は少し考えた。
「……こわいわ。すごく」
レオが目を丸くした。それから、くすくす笑った。
私は弟の顔を見た。
昨日より、目が合うまでの間が短い気がした。気のせいかもしれない。薬を替えて、まだ三日だ。すぐに良くなるはずがない。
でも。
この子は生きている。
私は、まだ間に合っている。
「レオ」
「なあに」
「もし、姉上が誰かとすごく喧嘩したら、あなたはどうする?」
「……姉上が勝つほうに賭ける」
私は思わず噴き出した。
「賭けるお金なんて持ってないでしょう」
「じゃあ、お菓子を賭ける」
「それは大事なお菓子ね」
私はレオの髪を撫でた。細くて柔らかい髪。三年後、この手触りを二度と思い出せなくなるところだった。
その手が、少しだけ震えた。
弟に気づかれる前に、私は立ち上がった。
「もう寝なさい。姉上は少し、お仕事があるから」
◇
書斎に戻ると、ジークベルトがまだ机に向かっていた。
燭台がひとつだけ灯っている。彼は、届いたばかりの支払指図書の束をめくっていた。
「まだお仕事ですか」
「三年分あります。今夜では終わりません」
私は向かいに座り、束の半分を自分のほうへ引き寄せた。
「手伝います」
「監査対象者に手伝わせるわけには」
「では、隣で自分の家の書類を読むだけです。私の家の書類ですから」
彼は数秒黙り、それから束を少しだけ私のほうへ押した。
二人で、無言で紙をめくった。
夜が更けた。ペンの音と、紙の擦れる音だけが続く。
やがて、彼が言った。
「イレーネ嬢」
「はい」
「なぜ、貴女は最初から結論を知っているように振る舞うのですか」
私の手が止まった。
「……どういう意味でしょう」
「昨夜、貴女は私が来ることを予期していたように見えた。今朝は、証拠を差し出す順番を決めていた。今日の聴取では、伯爵夫人が何を言うかを知っている顔をしていた」
彼は顔を上げなかった。手元の紙を見たまま、続けた。
「監査に慣れた者でも、あの動きはできません。貴女は、この一連の出来事を――」
彼が言葉を切った。
紙の上で、指が止まっていた。
「……どうかしましたか」
「支払指図書の、王暦四百二十七年、第十一の月分」
彼はその紙を灯りに近づけた。
「署名が、伯爵夫人ではない」
私は身を乗り出した。
紙の下部、支払を承認する署名欄。そこにあるのは、私が見慣れた継母の丸みのある字ではなかった。
角ばった、几帳面な男の筆跡。
そして、その隣に押された印章。
二つの剣と、月桂樹。
私はその紋を知っていた。知りすぎるほど知っていた。
三年後、私を裏切って証言台に立った男の家の紋だ。
「ローゼンタール侯爵家の印です」
ジークベルトが言った。
「なぜ、この家の支払指図書に、他家の印が押されているのですか」




