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巻き戻った令嬢の帳簿には、私を殺した全員の名前が載っている  作者: やまご


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第4話 監査卿

 三年後、この男は私を見なかった。


 傍聴席のいちばん後ろで、裁判のあいだじゅう帳簿の写しをめくり続けていた。私が「その数字は私が書いたものではない」と叫んだときも、彼は顔を上げなかった。判決が下りて、私が引きずり出されるときも。


 その男が今、私の部屋の前に立っている。


「……夜分に、ずいぶん急なご訪問ですね」


 私は言った。声が震えていないことに、自分で少し驚いた。


「予告して伺う監査に、意味はありませんので」


 ジークベルト・アーレンスは無表情のまま答えた。


「本来なら当主に取り次ぐべきところです。ですが、当家の帳簿を書いているのは当主ではなく貴女だと、玄関で女中に聞きました」


「父は臥せっております。お義母様は」


「フォークト伯爵夫人には、先ほどご挨拶を。応接間でお待ちいただいています」


 私は一瞬、言葉を失った。


 継母を、待たせている。伯爵夫人を、応接間に置いたまま、この男は屋敷の奥まで来て、令嬢の私室の扉を叩いた。


 礼儀の話ではない。これは、この男が誰の言葉を信用しないと決めたか、という話だ。


「立ち話でよろしいのですか」


「いいえ」


 私は扉を大きく開いた。


「どうぞ。散らかっていますが」


    ◇


 ジークベルトは書斎に入ると、まず部屋を見た。


 人ではなく、部屋を。


 燭台の数、窓の位置、書棚の並び、机の上の帳簿の積み方。灰色の目が、順に、機械のように移っていく。それから床に視線を落とした。


 私の心臓が、ひとつ跳ねた。


 床板。あの下に、薬瓶と綴じ帳がある。


 彼の視線は、そこで止まらなかった。ひと呼吸ぶん遅れて、机の上へ戻る。


 気づかれた、と思った。気づいて、今は触れないことにした。そういう間合いだった。


「座っても?」


「どうぞ」


 彼は椅子を引き、書類の束を机に置いた。


「単刀直入に申し上げます。フォークト伯爵領から王国財務局へ提出された、過去三年分の納税申告について、記載に不整合が見つかりました」


 私は息を止めた。


「不整合、とは」


「領内からの徴収記録と、申告された領収総額が合いません。差額は三年で、およそ千二百ゴルド」


 千二百ゴルド。


 私が三年後、横領した罪で首を落とされる金額と、同じ数字だった。


 やはりそうだ。継母が抜いた金は、家の帳簿の中で消えているだけではない。王国への申告書の上でも、穴になっている。だから三年後、王国が動いた。動いた先で、犯人として私の名前が置いてあった。


 この監査は、私を殺す列車の、最初の一両目だ。


 それが今、三年早く、私の部屋に入ってきた。


「イレーネ嬢」


 ジークベルトの声が、私の思考を切った。


「王国財務局は、この不整合を横領と見ています。そして、帳簿を書いていた人物が最も疑わしい」


 彼は顔を上げた。灰色の目が、まっすぐ私に向いた。


 三年後、一度も私を見なかった男の目が。


「つまり、貴女です」


 部屋が静かになった。


 燭台の炎が、ひとつ揺れた。


 私は、笑いそうになった。


 三年前の私なら、ここで泣いただろう。違います、私はやっていません、と叫んで、そして誰にも信じてもらえなかっただろう。


 でも私は一度死んでいる。死んで、なぜ信じてもらえなかったのかを、あの牢の三年間ずっと考えていた。


 答えは単純だった。


 私は「やっていない」ことしか言えなかった。「やっていないこと」は証明できない。証明できるのは、「誰かがやった」ことだけだ。


「アーレンス卿」


 私は椅子に座り直した。


「その千二百ゴルドの内訳を、ご存じですか」


 彼の眉が、わずかに動いた。


「内訳、と」


「差額が千二百ゴルドあると、あなたはおっしゃった。でもそれは、引き算の答えでしょう。答えは知っている。では、その答えがどの項目から生まれたかは?」


「……それを調べるために来ました」


「では、お教えします」


 私は積み上げた帳簿の山に手を伸ばした。


 三年分。私が徹夜で読み込んだ、私を殺す予定の帳簿。


「燭台の蝋」


 一冊目を開き、頁を彼のほうへ滑らせる。


「うちは月に六十ポンドの白蝋を使います。市場価格は一ポンド八グロート。月に四ゴルド八十グロート。帳簿の記載は月十一ゴルド。差額は月六ゴルド強、三年で二百二十ゴルド」


 私は懐から綴じ帳を出し、開いた。


「王都の蝋燭問屋七軒の、店主直筆の値です。署名と日付入り。二年前も値は変わらないと、七軒全部が書いています」


 ジークベルトの視線が、綴じ帳の上を走った。


「次。馬の飼葉」


 二冊目。


「うちの厩には馬が八頭。今も、二年前も八頭です。厩番の記録があります。帳簿の飼葉代は十二頭分。差額は年に六十ゴルド」


 三冊目。


「西棟の屋根の修繕費。昨年三回計上されています。屋根は一度直せば三年もつ。三回壊れたなら記録が残るはずですが、屋敷の修繕日誌に該当の記載はありません。日誌はここに」


 四冊目。五冊目。


「被服。冬物の外套が、使用人の頭数より七着多い。食糧。小麦の仕入が、去年の秋から一・四倍。うちの人数は増えていません」


 私は一冊ずつ開いて、彼の前に扇のように並べていった。


「そして、薬代」


 最後の一冊を置いた。


「弟の強心薬。月四十八ゴルドの支払に対し、商会からの仕入証は三十六ゴルド。差額は毎月きっちり十二ゴルド。半年、一ゴルドのずれもなく」


 私は指を止めた。


「――ここまでで、合計は年に三百九十ゴルド前後です。三年で千百七十。あなたのおっしゃる千二百ゴルドとの差は、三十ゴルドほど。まだ見つけていない項目が、どこかにあります」


 沈黙が落ちた。


 長い沈黙だった。


 ジークベルトは、並べられた帳簿を見ていた。それから綴じ帳を手に取り、七軒の署名を一つずつ確かめた。頁をめくる指が、丁寧だった。


 やがて、彼が口を開いた。


「妙ですね」


「何がです」


「横領した者は、普通、自分が盗んだ額を正確に説明できません」


 彼は綴じ帳を閉じた。


「説明できるなら、そもそも盗む必要がない。これだけ数字が読める人間なら、もっと巧妙に、もっと見つかりにくい抜き方をします。毎月きっちり十二ゴルド、などという足のつきやすい方法は使わない」


 私は黙っていた。


「それに」


 彼は薬代の頁に指を置いた。


「盗人は、自分の弟の薬から盗みません」


 その一言が、私の胸を刺した。


 三年後、誰ひとり言ってくれなかった言葉だった。


 私は視線を落とした。落とさないと、目の奥が熱くなりそうだったから。


「……では、私は疑いを晴らせましたか」


「いいえ」


 即答だった。


「まだ、貴女が犯人ではないという証明にはなっていません。今のは、貴女が犯人なら不自然だ、というだけの話です」


 彼は椅子から立ち上がった。


「ですが、この家の金が誰かに盗まれていることは、いま確定しました。それは大きな前進です」


 私も立ち上がった。


「アーレンス卿。ひとつ、伺っても」


「どうぞ」


「もし私が犯人だったら、あなたはどうしますか」


 ジークベルトは、少し考えた。


「証拠を揃えて、法に引き渡します」


「では、私が犯人でなかったら」


 彼はまっすぐ私を見た。


「同じことをします。真犯人に対して」


 私は、息を吸った。


 この男は、私の味方ではない。誰の味方でもない。数字の味方だ。


 ――それでいい。


 三年後、私を殺したのは人間の悪意で、私を救えなかったのは人間の情だった。情に訴えるのはもうやめる。


 私は数字で語る。この男は、数字しか聞かない。


 これ以上の相手が、どこにいるだろう。


「アーレンス卿。監査にあたって、お願いがあります」


「何でしょう」


「監査対象を、私に広げてください」


 彼の眉が、はっきりと動いた。


「――何と?」


「私の私物、私の部屋、私の口座、私の筆跡。すべて調べていただきたいのです。私が千二百ゴルドを受け取っていないことを、あなたの名前で確認していただきたい」


「それは、貴女に不利に働く可能性があります」


「働きません」


 私は言った。


「私は受け取っていませんから」


 ジークベルトは、しばらく私を見下ろしていた。


 それから、初めて――ほんのわずかに、口の端を動かした。笑ったのかどうか、判断がつかないほど小さく。


「フォークト伯爵令嬢」


「はい」


「貴女の帳簿は、見事です」


 彼は書類を束ね、脇に抱えた。


「明朝、正式に監査を開始します。この部屋を、監査の作業場としてお借りしたい」


「どうぞ」


「それと」


 扉に手をかけたところで、彼は足を止めた。


 振り返らないまま、こう言った。


「床板の下にあるものは、明日、私の前で出してください。今夜のうちに移すのはお勧めしません。移動の跡は、隠すよりも目立ちます」


 私は息を呑んだ。


 扉が閉まる。廊下を遠ざかる足音。


 私はしばらく動けなかった。


 やがて、床にへたり込み――そして、笑い出した。


 声を殺して、肩を震わせて。


 三年後、私を見なかった男。あの日、彼が最後まで帳簿を見つめていたのは、私を疑っていたからではなかったのかもしれない。


 数字が合わないと、思っていたのかもしれない。


 私は床板に手を置いた。冷たい木の感触。


「……今度は、間に合わせるわ」

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