第3話 蝋の値段
「お嬢様ご自身でお買い物とは、珍しいですなあ」
でっぷりとした店主が、頭を掻きながら奥から板を持ってくる。値の書かれた木札が並んだ、簡素な値板だ。
「うちの旦那様は堅い商いをなさるんで、値は一年通して変えません。白蝋、一ポンドで八グロート。上等の蜜蝋なら十四グロート。まあ、伯爵家のお屋敷なら白蝋で十分でしょうな」
八グロート。
私は頭の中で換算した。一ゴルドは百二十グロート。うちの屋敷は月に六十ポンドの蝋を使う。八掛ける六十で、四百八十グロート。四ゴルド。
うちの帳簿に書かれている蝋代は、月に十一ゴルドだった。
二・七倍。
私は表情を動かさずに、次の問いを重ねた。
「二年前は、いくらでした?」
「二年前ですか。……ええ、同じですな。八グロート。うちは値を動かしませんので」
「他のお店も?」
「川向こうのハウザーさんは七グロート半。あそこは南から直に仕入れるんで、少し安い。でもまあ、どこも大差ありませんよ。蝋の値が跳ねたのは、私が若いころの大寒波のときが最後です」
これで三軒目。三軒とも同じことを言った。
蝋の値は、上がっていない。
「ありがとう。ひとつお願いが」
私は懐から、例の綴じ帳を取り出した。
「今おっしゃった値を、ここに書いていただけません? 白蝋の値と、二年前も同じだったということ。それと、お店の名前と、今日の日付を」
店主は目を丸くした。
「……見積書じゃなくて、ですか」
「見積書だと、私が書き換えられますでしょう? あなたの字で書いていただいたほうが、私が上に説明するとき、信じてもらえるんです」
少し嘘を混ぜた。上に説明するため、というのは本当だ。上が誰なのかを言わなかっただけで。
店主は笑って、太い指でペンを取った。
「面白いお嬢様だ」
◇
七軒、全部回った。
最後の一軒を出たときには、日が傾きかけていた。綴じ帳には七人分の筆跡が並んでいる。値、日付、署名。字の綺麗な者も、汚い者もいる。それがいい。同じ手が書いた七つの証言など、誰も信じない。
私は帰りの馬車のなかで、数字を整理した。
七軒の白蝋の値は、七グロート半から九グロート。中央値は八グロート。屋敷の使用量六十ポンドで、月四ゴルド八十グロート。
帳簿の記載額は月十一ゴルド。差額、約六ゴルド。
年にして七十二ゴルド。蝋だけで。
これを飼葉、修繕費、被服、食糧、すべての項目で同じようにやる。市場の値を、市場の人間の署名入りで集める。そして帳簿と並べる。
地道な作業だ。派手さは何もない。
でも三年後、裁判の場で私に足りなかったのは、まさにこれだった。私は「帳簿がおかしい」と主張した。彼らは「おかしくない」と言った。それだけで終わった。おかしさを数字で示せなかったからだ。
馬車が屋敷の門をくぐる。
私は綴じ帳を胸に抱えた。
これは武器だ。まだ小さい。でも、確かに刃がついている。
◇
「お嬢様」
厩の裏で、グレーテルが待っていた。
その顔を見た瞬間、私は歩調を早めた。老執事の顔から、血の気が引いていたからだ。
「兄から、書付が届きました」
彼は懐から折り畳んだ紙を出した。手が震えている。私は受け取り、開いた。
几帳面な、細い字だった。
――当該薬瓶の内容物について。
――本来この処方は、心の臓の負担を和らげる強心薬であり、主成分はジギタリスの葉を煎じたものである。当家の坊ちゃまの症状には適切な処方であり、この点に誤りはない。
――ただし、当該瓶の内容物は、規定の三分の一まで薄められている。水ではなく、甘蔗の煮汁で薄められているため、味と色は損なわれない。素人が舐めても判別は難しい。
――なお、薄めた分の増量剤として、微量の鉛白が混入している。
鉛白。
私は文字の上で指を止めた。
「グレーテル、鉛白って」
「……白粉に使うものでございます。おしろい。婦人の化粧の」
「毒?」
「少量なら、すぐには死にません。ですが、長く飲み続ければ」
グレーテルはそこで言葉を切った。切らなくても分かった。
書付の続きに、ハルデン翁はこう書いていた。
――鉛白は本来、薬を白く濁らせて量を増やすために用いられる、悪質な水増し手法である。長期の服用により、腹痛、手足の痺れ、食欲の減退、そして精神の混濁を引き起こす。
――貴殿の坊ちゃまが「弱っている」のは、病のためだけではない可能性が高い。
――ただちに服用を止めさせられたし。
――王暦四百二十九年、第八の月、十六日。薬師ハルデン。
私は書付を、ゆっくりと畳んだ。
畳んで、懐に入れて、それから厩の柱に手をついた。
息ができなかった。
弟の顔が浮かんだ。今の、生きているレオの顔だ。昨日の夕方、私が部屋を覗いたとき、寝台の上でぼんやりと窓を見ていた。声をかけると、少し遅れて振り向いて、それから嬉しそうに笑った。
少し遅れて、振り向いた。
あれは、眠かったからじゃない。
「お嬢様」
「大丈夫」
私は言った。声は震えていなかった。
これは私の武器だ。震えるのは、あとでいい。
「グレーテル。あなた、怒ってる?」
「……はい」
「私もよ」
私は顔を上げた。
「でも、今すぐ継母のところへ行って、この書付を叩きつけたらどうなると思う?」
グレーテルが口を開き、閉じた。
「あの人は驚いて、悲しんで、こう言うわ。まあ恐ろしい、商会がそんなことを。すぐに取引をやめましょう、と」
私は指を折った。
「そして商会は潰され、番頭のひとりが罪をかぶって縛り首になる。継母は薬の中身なんて知らなかったと言い張る。実際、彼女が瓶に触れた証拠はどこにもない。彼女がやったのは、帳簿の数字を動かしただけ」
「では、どうすれば」
「二つ、要るの」
私は指を二本立てた。
「ひとつ。薄めた薬を作らせていたのが継母だと示す、直接の証拠。商会の内側から」
「もうひとつは」
「レオの命」
私は言った。
「証拠を集めるあいだ、あの子に薄い薬を飲ませ続けるわけにはいかない。かといって、急に薬を替えれば継母が気づく。気づけば、証拠を消される」
グレーテルが唸った。
「……難しゅうございますな」
「難しくないわ」
私は少しだけ笑った。
「瓶を、すり替えればいいの」
◇
その夜、私は自室の机に、二本の薬瓶を並べた。
左が、ケラー商会から届いた本物。封は切られていない。
右が、ハルデン翁が新たに調合し、同じ形の瓶に詰め、同じ蝋で封をして、同じ紋章を押したもの。紋章の型は、グレーテルが古い瓶から丁寧に写し取った。
並べても、区別がつかない。
私は右の瓶――中身が正しい薬のほうを、レオの部屋へ運ばせる箱に入れた。
左の瓶――薄められた本物は、綴じ帳とともに、書斎の床板の下に隠した。
毎月、これを繰り返す。継母には気づかせない。証拠は一本ずつ、床下に積み上がっていく。
三年後の法廷で、私は封を切っていない瓶を三十六本、机の上に並べるつもりだった。
三十六本の、日付入りの沈黙。それより雄弁な証言はない。
燭台の火を吹き消そうとしたとき、扉が叩かれた。
こんな時間に。
私は綴じ帳を素早く床板の下へ戻し、何食わぬ顔で扉を開けた。
立っていたのは、継母でも、グレーテルでもなかった。
黒衣の男だった。
背が高い。灯りを背にしているせいで顔が影になっている。屋敷の使用人ではない。私が知らない男が、私の部屋の前に立っている。
私が声を上げるより早く、男が口を開いた。
「フォークト伯爵令嬢イレーネ殿」
低い、抑揚のない声だった。
「王国財務監査局から参りました」
男が一歩前に出て、灯りに顔が入った。
冷たい造作の、若い男だった。年は二十五、六。銀に近い薄い金髪。感情の読めない灰色の目。その手には、書類の束。
私はその顔を知っていた。
三年後。私の裁判の傍聴席の、いちばん後ろ。誰よりも長く残って、誰よりも静かに、私の帳簿を見つめていた男。
最後まで、一度も私を見なかった男。
「本日付で、フォークト伯爵領の会計監査を命じられました」
男は言った。
「監査卿、ジークベルト・アーレンス。――貴女が、この家の帳簿を書いている令嬢ですね」




