第2話 封を切らない薬
掌に収まるほどの、褐色のガラス瓶。首のところに蝋で封がされていて、その上から商会の紋章が押されている。天秤と麦の穂を組み合わせた紋。ケラー商会。フォークト伯爵家の御用商会だ。
グレーテルが持ってきてくれたそれを、私は燭台の光にかざした。
「お嬢様。……お聞きしても、よろしいでしょうか」
机の脇に立ったまま、老執事が言った。声が硬い。
「何を」
「なぜ、封を切るなと仰ったのですか」
私は瓶を置いた。
本当のことは言えない。三年後にあなたは殺される、私は処刑される、弟は死ぬ、なんて言えるわけがない。言ったところで、心を病んだと思われて終わりだ。今の私は十七歳の伯爵令嬢で、ただの、少し数字に詳しいだけの娘なのだから。
だから私は、こう言った。
「封を切れば、中身は薬になるわ。切らなければ、証拠になる」
グレーテルの眉が動いた。
「証拠、と」
「グレーテル。あなた、うちの薬代がいくらだか知っている?」
「いえ、そこまでは」
「月に四十八ゴルド。ケラー商会に払っているわ」
私は帳簿の頁を彼のほうへ向けた。羽ペンの先で、支払額の欄をなぞる。
「でも、商会から届く仕入証は三十六ゴルド。差額は十二ゴルド。半年分、遡って全部同じ。一ゴルドのずれもなく、きっちり十二」
グレーテルは老眼鏡を押し上げ、身をかがめて数字を見た。しばらく黙っていた。
「……記帳の誤りでは」
「私も、そう思うところだったわ」
思うところだった、と私は言った。実際にはそう思って、そのまま忘れて、三年後に首を落とされた。
「でもね、グレーテル。人が間違えるとき、間違い方は毎回違うの。書き写しを間違えれば桁がずれるし、足し算を間違えれば端数が出る。同じ額が六回続くのは、間違いじゃない。手順よ」
誰かが、毎月、決まった手順で十二ゴルドを抜いている。
「そして」私は薬瓶に指を置いた。「もし薬代の三十六ゴルド分しか薬が届いていないなら、届いていない分は、どこへ行ったの?」
沈黙が落ちた。
東棟の書斎は静かだ。廊下の向こう、本棟のほうから、かすかに笑い声が聞こえる。継母アデーレが、今夜も客を招いているのだろう。
「レオ様の薬が」グレーテルの声が掠れた。「薄められている、と」
「あるいは、別のものと入れ替わっている」
私はそう言って、自分の声が思ったより平坦なことに驚いた。
三年後の処刑台で、私はこの可能性を悟った。悟った瞬間に首を落とされた。あの絶望は、今も胸の底で凍ったまま残っている。けれど今、口に出してみると、それはただの推論だった。証明されるべき、ひとつの仮説。
感情で泣くのは、あとでいい。今は数字の話をする。
「調べる方法はあるかしら」
「……ございます」
グレーテルが顔を上げた。老いた目に、火が入っていた。
「先代様の代から、当家に出入りしている薬師がおります。ハルデン翁。今は隠居して、東の森の外れに住んでおりますが、薬の真贋を見るなら、あの方に勝る者は王都にもおりません」
「口は堅い?」
「私の兄でございます」
私は思わずグレーテルの顔を見た。三年前――いや、今から見れば三年後――に「病死」した男の顔を。この人は、私が知らないところで、私のためにずっと備えていてくれた人だ。
「今夜のうちに、届けられる?」
「馬を出します」
「待って」
私は立ち上がり、部屋の隅の書棚から、白紙の綴りを一冊取り出した。表紙のない、細長い綴じ帳。羽ペンでその一頁目に、日付と、薬瓶の封の紋章の写しと、瓶の色と大きさを書き込んだ。
「これも一緒に。ハルデン翁に、鑑定した内容をこの綴りに書いて、署名と日付を入れていただいて」
「署名、でございますか」
「証言は消えるわ。人は死ぬし、記憶は変わるし、脅されれば口をつぐむ。でも、日付の入った書付は残る」
グレーテルが息を呑んだのが分かった。
そう。三年後、この家の人間は誰も私のために証言してくれなかった。生きていた者は口をつぐみ、証言しようとした者は先に死んだ。
だから今度は、紙に語らせる。
「それと、もう一本」
私は言った。
「明日、ケラー商会から次の薬が届くわ。届いたら、封を切る前に私のところへ。今度は同じ瓶を二本、別々に保管する」
「二本、と」
「一本を鑑定に出す。もう一本は、何も触らずに封のまま残す。そうすれば、後で誰かが『鑑定のときにお前が中身を入れ替えたのだ』と言い出しても、封のままの一本が私を守ってくれる」
グレーテルは、しばらく私を見ていた。
それから、深く、深く頭を下げた。
「……お嬢様は、いつからそのような」
「いつからかしらね」
私は微笑んだ。うまく笑えていたかどうかは、分からない。
◇
グレーテルが出ていったあと、私は帳簿の山に向き直った。
原本を三年分。積み上げると、私の腰の高さになった。埃の匂いがする。この家の金の動きが、すべてここに書いてある。
私は一冊目を開いた。
やり方は決めていた。感情で読んではいけない。継母が憎いという目で読めば、憎い証拠ばかりが見えて、肝心なものを見落とす。三年後の私は、それで負けた。
だから、ただ数字だけを見る。
まず、月ごとの支出総額を書き出した。次に、項目別に分けた。薬代、食糧、被服、燭台の蝋、馬の飼葉、使用人の給金、修繕費。項目ごとに、月ごとの推移を並べていく。
人の悪意は隠せる。でも、悪意が動かした金は、必ず数字の形を変える。
夜が更けた。燭台の蝋が半分溶けたころ、最初のひとつが浮かび上がった。
燭台の蝋の代金が、二年前の冬から、急に一・五倍になっている。
蝋の値が上がったのかもしれない。でも、それなら他家でも上がっているはずで、それは市場を調べれば分かる。調べればいい。書き留めておく。
次。馬の飼葉。うちの馬は八頭。それが二年前から十二頭分の飼葉を買っている。厩には八頭しかいない。私は知っている。毎朝、窓から見えるから。
次。修繕費。西棟の屋根の修繕が、去年、三回。屋根は一度直せば三年はもつ。三回直したなら、三回壊れたはずだ。私は西棟の屋根が壊れた記憶がない。
私は羽ペンを置いた。
指先が冷えていた。
これは、薬代の十二ゴルドどころではない。家中のあらゆる項目から、少しずつ、目立たない額が抜かれている。一つ一つは些細で、誰も気に留めない。でも合計すれば――私は暗算した――年に、四百ゴルドを超える。
伯爵家の年収の、およそ一割。
三年で千二百ゴルド。
三年後、私はこの千二百ゴルドを横領した罪で処刑される。
なるほど、と思った。
継母は盗んだのではない。盗んだ金を、私の名前に付け替えたのだ。だから裁判で私は反論できなかった。金は確かに消えていて、消えた金の行き先を示す帳簿には、私の筆跡があったから。
私の筆跡。
私は自分の手元を見た。羽ペンを握る、インクの染みた指。
この手が、私を殺した。
「――なら」
私は呟いた。
声は、思っていたよりも低く出た。
「今度は、この手で殺すわ」
窓の外が白み始めていた。徹夜だ。頭の芯が痺れているのに、眠気はまったくない。
私は新しい頁を開き、こう書いた。
一、家中全項目の三年分推移表を作成する。
二、市場価格と照合し、乖離を数値化する。
三、乖離の受け皿となっている商会を特定する。
四、証拠は必ず原本と写しの二重で保管する。
四行。それが、私の宣戦布告だった。
そのとき、扉が叩かれた。
まだ夜明け前だ。グレーテルにしては早すぎる。
「イレーネ? 起きているの?」
継母の声だった。
私は反射的に帳簿を閉じ――その手を止めた。
閉じてはいけない。今の私は、まだ何も気づいていないただの娘であるべきだ。慌てて隠せば、隠すべきものがあると教えることになる。
私は帳簿を開いたまま、薬瓶だけをそっと膝の上に落とした。
「どうぞ、お義母様」
扉が開いた。
寝間着の上に肩掛けを羽織ったアデーレが立っていた。まだ三十半ばの、美しい女だ。私を見て、心配そうに眉を寄せる。
「まあ、まだ帳簿を見ていたの。灯りが消えないから見に来てしまったわ」
「ええ。少し、数字が合わなくて」
私はそう言った。
アデーレの表情は、微塵も変わらなかった。
変わらなかったことが、答えだった。
「あら、どこかしら」
「燭台の蝋代が高いと思って。二年前の倍近いんです。お義母様、蝋の値って、そんなに上がりました?」
「さあ。私は市場のことなんて分からないわ」
彼女は笑って、私の机に歩み寄った。
そして、開かれた帳簿を覗き込んだ。
その頁は――私がわざと開いたままにしておいた、燭台の蝋の頁だった。
「無理をしてはだめよ、イレーネ」
アデーレの手が、私の髪に触れた。
「あなたが倒れたら、レオが悲しむわ」
膝の上で、薬瓶が冷たかった。
私は顔を上げ、目を細めて、できるかぎり無邪気に笑ってみせた。
「……そうですね。レオのためにも、しっかりしないと」




