第1話 処刑台の朝
私を殺すための鐘だ。
王都の中央広場は、朝だというのに人で埋まっていた。石畳の上に立つ処刑台からは、群衆の顔が驚くほどよく見える。パン屋の女将、井戸端で挨拶を交わした洗濯女、うちの領地から出てきた行商人。三年前まで私に頭を下げていた人たちが、今は誰ひとり私を見ようとしない。
見ているのは、私の首だ。
「フォークト伯爵令嬢イレーネ。汝は伯爵家の財を私し、王国財務に対し虚偽の帳簿を提出した」
書記官が羊皮紙を読み上げる。声が震えているのは、寒いからだろうか。それとも、この文面を自分でも信じていないからだろうか。
「その罪、断頭をもって購わせるものとする」
私は横領していない。
その言葉を、この三年で何度口にしただろう。取り調べで。裁判で。牢の壁に向かって。数えるのをやめたのは、数えることに意味がないと気づいたときだ。証言は握り潰され、私が書いた本物の帳簿は「発見されなかった」ことにされた。
処刑台の下、貴族席の最前列に、継母のアデーレが座っている。喪服のような黒いドレスを着て、レースの手巾で目元を押さえていた。泣いている演技がうまい。昔からそうだ。
その隣に、婚約者だったヴィルヘルム・ローゼンタール侯爵子息がいる。彼は目を伏せている。私と目が合わないように、ずっと足元の石畳を見ている。
三年前、彼は私の手を取ってこう言った。数字が読める女性は初めてだ、君は伯爵家の宝だ、と。
その男が、裁判で証言した。イレーネ嬢は以前から金銭に執着していた、と。
そして最後列の天蓋の下、日差しを避けるように座っているのが、第二王子アルベルト殿下。私の書いた帳簿の数字が、最終的にどこへ流れ着いたのか。私はそれを知っている。知っていると口にした瞬間、私の裁判は打ち切られた。
風が吹いて、私の解かれた髪が頬にかかった。首を切りやすくするために、髪は事前に短く切られている。
「最後に、申し開きはあるか」
執行官が形式的に問う。
私は口を開いた。喉が渇いて、声はろくに出なかった。
「弟に、会わせてください」
この三年、それだけを言い続けてきた。レオ。私の八つ下の弟。生まれつき身体が弱くて、冬になると寝台から出られなくなる子。私が投獄されてから、一度も面会が許されなかった。手紙も届かなかった。
執行官が、少し困ったように目を逸らした。その仕草を、私は見逃さなかった。
「――どうして目を逸らすのですか」
声が出た。今度ははっきりと。
「レオはどこにいるの。答えて。お願いだから」
執行官は答えない。代わりに、貴族席のアデーレが立ち上がった。手巾を口元に当てたまま、この広場の全員に聞こえる声で言った。
「レオはひと月前に亡くなりましたわ。可哀想に。姉が罪人だと知って、あの子は薬も喉を通らなくなって」
世界の音が消えた。
ひと月前。
私はそのとき、まだ牢にいた。壁に向かって、弟のために生きて出なければと繰り返していた。あの子が待っているから、と。
誰も待っていなかった。
アデーレの唇の端が、ほんのわずかに持ち上がるのが見えた。手巾で隠れていない、私からだけ見える角度で。
ああ、と思った。
薬だ。
弟の薬は、うちの御用商会から入っていた。あの帳簿に、薬代の項目があった。数字が合わなかった。仕入額と支払額の差。私はそれを「商会の記帳ミス」だと思って、朱で印をつけたまま放っておいた。
放っておいた。
あれは、ミスじゃなかった。差額の分だけ、弟の薬は買われていなかったのだ。買われていない薬の代わりに、何が飲まされていたのかは、もう考えたくもない。
私は数字を読めた。読めたのに、読まなかった。
膝から力が抜けて、私は台の上に崩れ落ちた。押さえつけられ、首を木枠に嵌められる。冷たい。朝の石は氷みたいだ。
視界の端に、刃が持ち上がるのが見えた。
私は目を閉じなかった。
最後に思ったのは、恨みでも、恐怖でもなかった。
もう一度、あの帳簿を見たい。
朱の印をつけた、あの一行を。今度はちゃんと、最後まで追いかけたい。
刃が落ちた。
◇
インクの匂いがした。
喉に空気が入ってくる。切られたはずの首が、繋がっている。
私は顔を上げた。
書斎だった。フォークト伯爵家の、東棟の二階。日当たりが悪いから誰も使わなくて、だから私の場所になった部屋。窓から夕方の光が斜めに差している。机の上には燭台と、羽ペンと、インク壺。
そして、開かれた帳簿。
指が震えた。震える指で、私は自分の頬に触れた。温かい。生きている。髪は切られていない。長いままだ。
立ち上がろうとして、椅子を倒した。派手な音がした。
廊下を走る足音がして、扉が開いた。
「お嬢様、どうかされ――」
老執事のグレーテルが、目を丸くして立っている。生きている。彼もまた、私の裁判で証言しようとして、その前に「病死」した人だ。
「グレーテル」
声が掠れた。
「今日は、何日?」
「は……第八の月の、十四日でございますが」
「年は」
「王暦四百二十九年でございます。お嬢様、お顔の色が」
王暦四百二十九年、第八の月、十四日。
私が処刑されたのは、四百三十二年の第三の月。
三年と、七か月。
巻き戻っている。
私はゆっくりと机に向き直った。手を伸ばし、帳簿のページに触れる。紙の感触が、指先にざらりと残った。
開かれているのは、御用商会からの月次請求の頁。
あった。
薬代の欄。仕入額と支払額。その差、十二ゴルド。
まだ朱の印はついていない。私はまだ、この数字に気づいていない。今の私は、これから気づいて、そして「商会の記帳ミスだろう」と結論づけるのだ。
羽ペンを取った。手はもう震えていなかった。
私はその行に、朱ではなく、黒で線を引いた。
それから、頁をめくった。先月。その前の月。半年前。
同じ差額が、同じ商会の、同じ項目に、ずっと並んでいた。
十二ゴルド。十二ゴルド。十二ゴルド。
偶然の記帳ミスは、こんなに規則正しく並ばない。
これは、盗みだ。
継母が、私の弟の薬から、毎月きっちり十二ゴルドずつ抜いている。そして三年後、この帳簿は改竄されて、私を殺す凶器になる。
私は目を閉じた。処刑台の朝の、あの冷たい石の感触が、まだ膝に残っている気がした。
いい。
覚えていよう。忘れないでいよう。
目を開けたとき、私はもう泣いていなかった。
「グレーテル。ひとつ頼みがあるの」
「はい、なんなりと」
「向こう三年分の、家の帳簿をすべて持ってきて。写しではなく、原本を。それと」
私は羽ペンの先を、インク壺に浸した。
「――レオの部屋に、まだ誰も入っていないわね? あの子が今飲んでいる薬を、封を切らずに一本、私のところへ」
グレーテルの顔から、血の気が引いた。
彼は何も聞かなかった。ただ深く頭を下げて、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
私は帳簿に向き直り、白紙の頁を開いて、一行目にこう書いた。
――王暦四百二十九年、第八の月、十四日。監査を開始する。
この帳簿が、次に閉じられるとき。
台の上に載っているのは、私の首ではない。




