第49話 答え合わせ
監査局は、王都の東にあった。
石造りの、飾りのない建物。窓が小さく、廊下が暗い。
私は、三階の執務室の前に立っていた。
扉を叩く。
「――どうぞ」
入ると、ジークベルトは机に向かっていた。
書類の山。この一か月で、監査局には十九分野すべての再監査の指示が下りている。彼は、その全部を組み立て直している最中だった。
「イレーネ嬢。どうされました」
「――お忙しいところ、すみません」
「構いません」
彼は、ペンを置いた。
「座ってください」
私は、座らなかった。
懐から、封筒を出した。
そして、机に置いた。
「――なんですか、これは」
「読んでください」
私は言った。
「今すぐでなくても構いません。ですが、いつか」
彼は、封筒を見た。
そして、私を見た。
「――今、読みます」
「卿」
「いつかと言われて、いつか読んだことがありません」
彼は言った。
彼は、封を切った。
◇
私は、窓のほうを向いていた。
振り返れなかった。
紙をめくる音がした。
一度。二度。
――止まった。
長い沈黙だった。
窓の外で、鳥が鳴いた。
やがて、紙を置く音がした。
「――イレーネ嬢」
「はい」
「こちらを向いてください」
私は、振り返った。
ジークベルトは、机の向こうで、私を見ていた。
表情が、読めなかった。
「――信じませんよね」
私は言った。
「私が逆の立場なら、信じません」
「イレーネ嬢」
「ですが、書いたことは全部本当です。証明はできません。証明する方法がありません」
私は言った。
「ただ、あなたに言わないまま終わるのが、嫌だったんです」
私は言った。
「私は、この一年三か月、ずっと嘘をついていました。あなたが私を信用してくださるたびに、私は隠していました」
私は、頭を下げた。
「――申し訳ありませんでした」
沈黙。
「イレーネ嬢」
「はい」
「顔を上げてください」
私は、顔を上げた。
彼は、立ち上がっていた。
机を回って、私の前に来た。
「――四百三十二年、第三の月」
彼は言った。
「王都中央広場」
「はい」
「私は、傍聴席の後ろにいた」
「はい」
「一度も、貴女を見なかった」
私は、頷いた。
彼は、しばらく黙っていた。
「――辻褄が、合います」
彼は言った。
私は、顔を上げた。
「――え?」
「一年三か月、説明のつかないことが、いくつもありました」
彼は言った。
「初めて会った夜、貴女は私が来ることを予期していた。伯爵夫人が何を言うか知っていた。婚約者を売ると即断した」
彼は言った。
「貴女は、十七の令嬢が知るはずのないことを、いくつも知っていた」
彼は、続けた。
「私は、それを『よく本を読んだ』で処理していました。処理しきれないと分かっていて、そうしていた」
彼は言った。
「今の手紙で、全部説明がつきます」
私は、息を止めた。
「――卿。それは」
「イレーネ嬢」
彼は言った。
「私は、監査官です。二十年、辻褄の合わないものを見つける仕事をしてきました」
彼は言った。
「そして、辻褄が合う説明が一つしかないとき、それがどれほど信じがたくても、採用します」
彼は言った。
「それが、私の仕事のやり方です」
私は、両手で口を押さえた。
――信じた。
この人は。
「――卿」
「はい」
「本当に、信じるのですか」
「信じます」
彼は言った。
「ただし、条件が一つあります」
「なんですか」
「四百三十二年、第三の月」
彼は言った。
「その日まで、私の目の届くところにいてください」
◇
私は、その場に座り込みそうになった。
彼が、私の腕を支えた。
「――卿」
「はい」
「私、ずっと怖かったんです」
私は言った。
「全部変わったのに、あの日が来たらどうなるのか、分からなくて」
私は言った。
「もう誰も私を殺す理由がないのに、それでも、あの日が近づくのが怖くて」
彼は、私の腕を掴んだまま、聞いていた。
「――イレーネ嬢」
「はい」
「一つ、申し上げます」
彼は言った。
「貴女が処刑されたのは、千二百ゴルドの横領罪です」
「はい」
「その千二百ゴルドは、伯爵夫人が抜いたものです。夫人は、現在、徒刑八年で服役中」
彼は言った。
「そして、その横領の全容は、公開監査で記録されました。二百人が聞き、七紙が報じました」
彼は言った。
「貴女を千二百ゴルドで裁くことは、もう、この国の誰にもできません」
私は、彼を見た。
「――卿」
「はい」
「では、私は」
「死にません」
彼は言った。
断言だった。
「イレーネ嬢。私は、可能性を断言しない人間です。二十年、一度も断言したことがない」
彼は言った。
「今、初めて断言します」
彼は、私の腕から手を離した。
「――貴女は、死にません」
◇
私は、しばらく泣いていた。
彼は、何も言わなかった。
いつものように、椅子に座って、書類をめくっていた。
その音が、ありがたかった。
落ち着いてから、私は言った。
「――卿」
「はい」
「一つ、伺っていいですか」
「どうぞ」
「あの日、なぜ、最後まで傍聴席に残っていたのですか」
彼は、ペンを止めた。
「――数字が、合わなかったからです」
「やはり」
「千二百ゴルドの横領なら、抜き方の痕跡が帳簿に残ります」
彼は言った。
「私は、写しを取り寄せて読みました。読んで、これは書いた人間が盗んだ形ではないと思いました」
彼は言った。
「ですが、私は監査局の人間で、あれは司法の管轄でした」
彼は言った。
「――何もしませんでした」
私は、その言葉を聞いた。
「卿」
「はい」
「あなたは、あの日、何を考えていましたか」
彼は、しばらく黙っていた。
「――間に合わなかった、と」
彼は言った。
「刃が落ちるまで、私はそう思っていました」
彼は、顔を上げた。
「そして、今、間に合っています」
◇
執務室を出るとき、私は振り返った。
「卿」
「はい」
「一つ、お願いがあります」
「どうぞ」
「来週、北へ行きます」
私は言った。
「レオを、迎えに」
「――そうですか」
「ヴェスターマン子爵もご一緒です。あの子の伯父にあたる方です」
私は言った。
「卿も、いらっしゃいませんか」
彼は、書類から顔を上げた。
「――私は、身内ではありません」
「身内です」
私は言った。
「あの子は、あなたが二度守りました」
私は言った。
「保護所に移したときと、雪の森で」
彼は、視線を落とした。
「――イレーネ嬢」
「はい」
「一つ、確認させてください」
「どうぞ」
「その手紙に、書いてありました」
彼は言った。
「私が、貴女を一度も見なかった、と」
「はい」
「――今は、見ています」
彼は言った。
私は、動きを止めた。
「それは、確認ですか」
「事実の確認です」
彼は言った。
私は、笑った。
この人は、いつまで経っても、こうだ。
「――卿」
「はい」
「いつか、その言い方を、やめてくださいますか」
彼は、少し黙った。
「――努力します」
◇
その夜、私は書斎で、帳簿を閉じた。
新しいフォークト家の帳簿。二か月分の記録が、そこにある。
私は、机の引き出しを開けた。
中に、木彫りの馬があった。
一年三か月、借りていたもの。
私は、それを取り出して、掌に載せた。
小さい。子どもの手のひらに収まる大きさ。
塗りが剥げて、脚の一本が欠けかけている。
「――返しに行くわ」
私は、小さく言った。
窓の外を見た。
冬の空だった。星が出ている。
三年後の処刑台の朝も、こんな空だったろうか。
覚えていない。
あの朝、私は空を見なかった。群衆の顔と、継母の唇と、落ちてくる刃しか見なかった。
――もう、見なくていい。
私は、木彫りの馬を握った。




