第50話 迎えに行く
北部への旅は、四日かかった。
馬車が二台。一台に私とジークベルト、もう一台にヴェスターマン子爵とグレーテル。
三日目に、雪が降り始めた。
「――北ですな」
子爵が、宿の窓から外を見て言った。
「王都では、まだ雪が積もりません」
「あの子は、雪が好きだそうです」
私は言った。
「文に書いてありました。まだ降らない、と」
「――もう、降っているだろうな」
彼は言った。
その声が、少し震えていた。
この人は、四日間、ずっと落ち着かない様子だった。何を話せばいいか、決めかねている。
「子爵」
「はい」
「あの子は、九つです」
私は言った。
「難しい話は、しなくていいと思います」
「――何を話せば」
「ヨハンナ様の、好きな食べ物とか」
私は言った。
「そういうことから、で」
子爵は、しばらく黙っていた。
「――杏だ」
彼は言った。
「あれは、杏が好きだった。干した杏を、いつも隠し持っていた」
彼は言った。
「私が、よく取り上げた」
彼は、窓の外を見た。
「――兄というのは、そういうことをする」
◇
第三王女の館は、雪の中にあった。
北部の領都から、さらに半日。丘の上の、石造りの館。屋根に雪が積もっている。
馬車が門をくぐったとき、玄関の扉が開いた。
小さな人影が、飛び出してきた。
――走っていた。
雪の中を、外套も着ずに、まっすぐに。
「姉上ーっ!」
私は、馬車を降りた。
降りきる前に、その子が飛びついてきた。
私は、受け止めた。
――重い。
一年前、あの子は羽のように軽かった。雪の森で抱き上げたとき、恐ろしいほど軽かった。
今、私は膝をつかなければ受け止められなかった。
「レオ」
「かった?」
弟は、私の顔を見上げて言った。
「勝った?」
私は、懐から木彫りの馬を出した。
そして、その手に握らせた。
「――勝ったわ」
◇
レオは、背が伸びていた。
一年で、私の胸の高さまで来ている。頬に肉がついて、目に力があった。
そして、走れた。
「見て、姉上! あそこの木まで!」
彼は、庭を横切って走り、戻ってきた。
息を切らしている。でも、倒れない。
「――百歩と書いてあったわ」
「百歩は、こないだ。今はもう、数えてない」
彼は言った。
「数えなくてよくなったから」
私は、その言葉に、しばらく動けなかった。
――数えなくてよくなった。
私が、一年三か月、数え続けてきたものが、ここで終わった気がした。
◇
ハルデン翁は、館の一室にいた。
老薬師は、暖炉の前の椅子に座って、私を見上げた。
「――お嬢様」
「翁。ありがとうございました」
私は、深く頭を下げた。
「礼はいりません」
彼は言った。
「私は、薬を作っただけです」
「あの日、レオを窓から逃がしてくださいました」
「――あれは」
彼は、少し笑った。
「あれは、私が咄嗟にやったことです。考えていたら、できませんでした」
彼は言った。
「人は、考える前に動くことがあります。それが、その人の一番深いところです」
彼は、暖炉を見た。
「私は、それが薬師でよかった」
◇
ヴェスターマン子爵がレオに会ったのは、その日の夕方だった。
私は、同席しなかった。
二人を庭に出して、私は窓から見ていた。
六十過ぎの男が、九歳の子どもの前で膝をついている。何か話している。
レオが、首を傾げた。
子爵が、懐から何かを出した。
――小さな包み。
レオが、それを開けた。
中を見て、彼は顔を上げた。
そして、口に入れた。
「――杏です」
背後で、ジークベルトが言った。
「持ってこられたそうです。王都から、四日」
私は、頷いた。
庭で、レオが笑っていた。
少し遅れて。
子爵が、その顔を見て――泣いていた。
◇
その夜、第三王女アマーリエが、私を書斎に呼んだ。
暖炉の火が、いつものように燃えている。
「――令嬢」
「殿下」
「一年三か月でしたね」
「はい」
「兄は、南へ行きました」
彼女は言った。
「先週、離宮に入ったと報せがありました」
私は、頷いた。
「殿下」
「はい」
「一つ、伺ってよろしいですか」
「どうぞ」
「殿下は、これで満足なさいましたか」
彼女は、暖炉を見た。
「――いいえ」
彼女は言った。
「兄は、何も認めませんでした。母の名も、あの子の名も、百五十人の名も」
彼女は言った。
「それは、私の中で、ずっと終わりません」
彼女は、こちらを見た。
「ですが、令嬢」
「はい」
「制度は、変わります」
彼女は言った。
「来年から、王国の全補助金に、受領側の記録との照合が義務づけられます。議会で決まりました」
彼女は言った。
「そして、救貧院と治療院の死亡記録は、毎年、監査局に提出されることになりました」
私は、顔を上げた。
「――それは」
「あなたが作った仕組みです」
彼女は言った。
「あなたが九日かけて回って、手で数えたことを、これからは制度がやります」
彼女は言った。
「二度と、誰も、あの九日をやらなくて済むように」
私は、その言葉を、胸に落とした。
「殿下」
「はい」
「私、数えるのは、嫌ではありませんでした」
私は言った。
「ただ、私が数えなければ誰も数えないという状態が、嫌でした」
「――ええ」
彼女は言った。
「それが、制度というものです」
◇
王都へ帰る朝、雪が止んだ。
馬車に荷を積んでいると、レオが走ってきた。
「姉上!」
「なあに」
「これ」
彼は、私に木彫りの馬を差し出した。
「――返してくれるの?」
「ううん」
レオは、首を振った。
「貸す」
彼は言った。
「まだ、貸しとく」
私は、その顔を見た。
「――どうして」
「姉上、まだ数えてるでしょ」
彼は言った。
「じいちゃんが言ってた。姉上は、まだ数えてるって」
私は、しばらく答えられなかった。
「――そうね」
私は言った。
「まだ、数えてる」
「じゃあ、貸す」
レオは言った。
「数えるの、終わったら返して」
私は、その小さな木彫りを受け取った。
脚が一本、欠けかけている。
「――ありがとう」
◇
王都に戻ったのは、第十二の月の初めだった。
屋敷は、少しずつ人が戻り始めていた。
新しい会計係を雇った。ベルガーの後任だ。ハインツ・ベルガーは、従犯として徒刑二年を受け、来年出てくる。娘は、王都の別の工房で働いている。
私は、書斎の机に向かった。
帳簿を開く。
新しいフォークト家の帳簿。
私は、羽ペンを取った。
――王暦四百三十年、第十二の月三日。
そのとき、扉が叩かれた。
「どうぞ」
ジークベルトだった。
黒衣ではなく、いつもより簡素な上着を着ている。
「――卿。どうされました」
「監査局の再監査が、始まりました」
彼は言った。
「十九分野。五年で、終わる予定です」
「五年」
「はい」
彼は言った。
「人手が足りません」
私は、彼を見た。
「――卿」
「イレーネ嬢」
彼は言った。
「監査局は、補助監査人の常設職を新設しました」
彼は、書類を差し出した。
「王国初です」
私は、それを受け取った。
――補助監査人任用通知。
――イレーネ・フォークト。
私は、顔を上げた。
「卿。これは」
「仕事の話です」
彼は言った。
「――仕事の話ですか」
「はい」
彼は言った。
そして、少し間を置いた。
「――半分は」
私は、笑いそうになった。
「残り半分は」
彼は、視線を落とした。
それから、上げた。
「四百三十二年、第三の月まで、あと一年四か月です」
彼は言った。
「その日まで、私の目の届くところにいてください」
彼は言った。
「そして――その日が過ぎても」
私は、書類を胸に抱えた。
「卿」
「はい」
「その言い方、やめてくださると言いましたね」
「――努力しました」
彼は言った。
「これでも」
私は、笑った。
声を出して。
◇
その夜、私は帳簿の一頁目を、書き直した。
白紙を破り、新しい頁を開いた。
そして、一行目にこう書いた。
――王暦四百三十年、第十二の月三日。監査を継続する。
私は、ペンを置いた。
一年三か月前、私は同じ机で、同じように書いた。
――監査を開始する。
あのとき、私は復讐のために書いた。
この帳簿が次に閉じられるとき、台の上に載っているのは私の首ではない、と。
――今は。
私は、羽ペンの先を見た。
インクが、乾きかけている。
私は、それをもう一度、壺に浸した。
書くことは、まだたくさんある。
燭台の火が、揺れた。
窓の外で、雪が降り始めていた。
王都で、今年の初雪だった。




