第48話 降りてくるもの
受領票の鑑定結果が出たのは、六日後だった。
――本物。
紙質、インク、王宮出納の印。すべてが、四百二十七年当時の様式と一致した。
「これで、非公式会計の存在が、紙になりました」
ハーゲンが言った。
「王宮出納は、公式の予算からしか金を受け取らないことになっています。ですが、この受領票は、財務局の補助金から六千ゴルドを受け取ったことを示している」
「――説明を求められますね」
「求められます」
彼は言った。
「そして、王宮出納は、これを説明できません」
◇
結果は、二十日で出た。
王宮出納長が、辞職した。
後任の出納長が、内部調査の結果を公表した。
――非公式会計は、王暦四百二十四年から四百二十九年にかけて、合計三万一千ゴルドを受領していた。うち二万九千ゴルドは、補助金からの流用であった。
――当該会計の管理責任者は、第二王子アルベルト殿下である。
私は、その発表を新聞で読んだ。
保護所の食堂で、三度読み返した。
「――卿」
「はい」
「殿下は、罪に問われますか」
「問われません」
ジークベルトは言った。
「非公式会計を管理していたことは、罪ではありません。制度として存在していたものですから」
彼は言った。
「問われるのは、流用した側です。ラインヴァルトと、その部下たち」
「では、殿下は」
「――責任は、取られます」
彼は言った。
「罪ではなく、責任です」
◇
王宮の発表は、第十一の月の十日にあった。
――第二王子アルベルト・フォン・ヴァイセンブルクは、王宮財務の監督責任を負い、王位継承順位を返上する。
――同時に、王宮内の一切の職務から離れ、南方の離宮において静養する。
私は、その掲示を、王宮の門前で読んだ。
――継承順位の返上。
廃嫡ではない。罪も認めていない。
ただ、王位から降りて、王都から離れる。
人だかりの中で、誰かが言った。
「――逃げたな」
「いや、追い出されたんだろう」
「どっちにしろ、もう戻れんよ」
私は、掲示を見上げていた。
――三年後。
あの日、この人は天蓋の下に座っていた。私が死ぬのを、日差しを避けながら見ていた。
その人が、南へ行く。
私は、勝ったのだろうか。
――分からない。
「イレーネ嬢」
ジークベルトが、隣に立った。
「はい」
「顔が、晴れませんね」
「――はい」
私は言った。
「あの方は、何も認めませんでした」
「ええ」
「母のことも、レオのことも、百五十人のことも」
私は言った。
「一言も」
彼は、掲示を見上げた。
「イレーネ嬢」
「はい」
「監査は、謝罪を得る手続きではありません」
彼は言った。
「金の流れを正し、責任者を職から外す。それだけです」
彼は言った。
「謝罪は、別の場所で起きるか、起きないかです」
私は、頷いた。
「――卿」
「はい」
「私は、謝罪が欲しかったのでしょうか」
「――欲しかったでしょう」
彼は言った。
「人は、そういうものです」
◇
処分は、順に下りた。
ゴットハルト・ラインヴァルト。爵位剥奪、全財産没収、徒刑二十年。終身ではなくなった。証言への協力が考慮された。
ローゼンタール侯爵。爵位剥奪、徒刑十五年。自首が考慮された。
ヴィルヘルム・ローゼンタール。監査妨害および文書移送規程違反。爵位継承資格の永久停止、罰金三百ゴルド、徒刑二年。
薬事局長。免職。
ヨハン・ケラー。徒刑五年。番頭モーゼル。徒刑十二年。
そして。
アデーレ・フォークト。伯爵家財産の横領、および補助金詐取の従犯。徒刑八年。
私は、その判決を、法廷の傍聴席で聞いた。
継母は、判決を聞いても、表情を変えなかった。
背筋を伸ばして、裁判官の言葉を最後まで聞いた。
そして、退廷するとき、傍聴席を見た。
私と、目が合った。
彼女は、口だけを動かした。
――声は、出ていなかった。
でも、私には読めた。
――ありがとう。
◇
その夜、私は屋敷の書斎にいた。
一年二か月ぶりに、この部屋で夜を過ごしている。
机の上には、帳簿があった。フォークト伯爵家の、新しい帳簿。
私は、羽ペンを取った。
一頁目に、日付を書いた。
――王暦四百三十年、第十一の月二十日。
その下に、収入と支出を書き始めた。
領地からの収入。使用人の給金。修繕費。燭台の蝋、月四ゴルド八十グロート。
――正しい数字だ。
私は、その一行を、しばらく見ていた。
一年三か月前、私はこの部屋で、同じ帳簿の同じ項目に、十一ゴルドという嘘の数字を見つけた。
あれが、始まりだった。
「――お嬢様」
扉が、叩かれた。
グレーテルだった。頭の傷は治り、屋敷に戻ってきていた。
「お客様でございます」
「こんな時間に」
「――ヴェスターマン子爵家の、ご当主でございます」
私は、ペンを置いた。
母の実家。
私は、一度も会ったことがない。
◇
ヴェスターマン子爵は、六十過ぎの男だった。
母の兄。私の伯父にあたる。
応接間で、彼は帽子を膝に置いて座っていた。
「――イレーネ嬢」
彼は言った。
「初めてお目にかかる」
「はい」
「エルフリーデによく似ておられる」
彼は言った。
私は、頭を下げた。
「用件を伺います」
「――公開監査の記録を、読んだ」
彼は言った。
「ヨハンナの名が出ていた」
私は、身構えた。
「妹君です」
「そうだ」
彼は言った。
「四十年前、家を出て、籍を外した。私が外した」
彼は言った。
「父はもう死んでいて、私が当主だった。楽師と駆け落ちした妹を、私は籍から外した」
彼は、帽子を握りしめた。
「――それきりだ」
彼は言った。
「二度と、会わなかった」
部屋が、静かになった。
「子爵」
私は言った。
「はい」
「なぜ、いらしたのですか」
彼は、しばらく黙っていた。
「――子がいると、知ったからだ」
彼は言った。
「九つの、男の子が」
私は、彼を見た。
「子爵」
私は言った。
「あの子は、フォークト家の籍に入りました」
「知っている」
彼は言った。
「奪いには来ていない」
彼は、帽子を膝に置き直した。
「――ただ、一度、会わせてもらえないだろうか」
彼は言った。
「私は、あの子の伯父にあたる。あなたと同じだ」
私は、彼の顔を見た。
――六十過ぎの男が、帽子を握りしめている。
この人は、四十年、妹を籍から外したことを抱えて生きてきた。
「――子爵」
私は言った。
「あの子は、北にいます」
「北」
「はい」
私は言った。
「近く、迎えに行きます」
私は、続けた。
「そのとき、ご一緒に、いかがですか」
子爵の目が、見開かれた。
「――よいのか」
「はい」
私は言った。
「ただ、条件が一つあります」
「なんだろう」
「あの子に、母親の話をしてください」
私は言った。
「ヨハンナ様が、どんな方だったか。どんな声で、どんなことを言って、どんなふうに笑ったか」
私は言った。
「私は、知らないんです」
◇
子爵が帰ったあと、私は書斎に戻った。
机の上に、鞄があった。
私は、その底に手を入れた。
封筒が、そこにあった。
公開監査の前夜に書いた、あの手紙。
――全部が終わったら、話します。
私は、封筒を取り出した。
終わったのか。
殿下は南へ行った。関係者は処分された。レオは籍に入った。薬は届いている。
――終わった。
でも。
私は、封筒を見つめた。
一つだけ、終わっていないことがある。
王暦四百三十二年、第三の月。
私が処刑された日。
あと、一年四か月。
――何も起きないかもしれない。
もう、私を殺す理由は、誰にもない。継母は牢にいる。ヴィルヘルムは失脚した。殿下は南にいる。
それでも。
私は、封筒を握った。
――知らないままで、終わらせたくない。
私は、立ち上がった。




