第46話 問い
広間の空気が、変わった。
私が立ったからだ。
――令嬢が、王子に問う。
二百人が、その構図を見ている。
「――どうぞ」
王子は言った。
微笑んでいた。
余裕がある。当然だ。彼から見れば、私は私怨で動く小娘で、証言はすべて私の身内から出ている。
「殿下」
私は言った。
「一つ目の質問です」
私は、手元の紙を見なかった。
「四百十九年、第十一の月十日。殿下は、財務局一等書記官ゴットハルト・ラインヴァルトを、王宮に呼ばれましたか」
王子の眉が、わずかに動いた。
「――記憶にありません」
「では、二つ目です」
私は言った。
「その二日後、殿下はフォークト伯爵に宛てた書状を、同卿に託されましたか」
「記憶にありません」
「三つ目」
私は言った。
「四百二十年、第七の月。王宮西の離れにおいて、殿下は同卿に赤子を引き渡されましたか」
「記憶にありません」
「四つ目」
「――令嬢」
王子が、少し声を強めた。
「同じ答えを繰り返させて、何がしたいのですか」
「記録です」
私は言った。
「殿下。ここまでの四問について、殿下は『記憶にない』と四度答えられました。書記が記録しています」
私は言った。
「五つ目に、移ります」
◇
「殿下は、王宮西の離れを、四百十八年から四百二十年にかけて使用されていましたか」
「――していました」
彼は言った。
「私の館です」
「当時、西の離れには、侍女が四名配属されていました」
私は言った。
「証拠番号五十一、王宮人事記録」
私は、紙を掲げた。
「うち三名は、四百二十一年、四百二十三年、四百二十六年に死亡しています」
広間が、ざわめいた。
「殿下は、この三名をご存じですか」
「侍女の名など、覚えていません」
「では、四人目についても、ご存じない」
「――当然です」
「四人目は、マルタ・キーファーと申します」
私は言った。
「証拠番号四十七の、九年分の記録をつけた人物です」
王子の視線が、初めて、私から逸れた。
一瞬。
でも、逸れた。
「殿下」
私は言った。
「六つ目の質問です」
私は、少し息を吸った。
「ヨハンナ・ヴェスターマンという女性を、ご存じですか」
◇
広間が、静まり返った。
誰も、その名を知らない。
私が、まだ一度も出していない名前だった。
王子の顔から、微笑が消えた。
――消えた。
私は、それを見た。
「――知りません」
彼は言った。
声が、平坦だった。平坦すぎた。
「ヴェスターマン子爵家の次女です」
私は言った。
「十七歳のときに家を出て、籍を外されました。相手は王都の楽師。四百十八年に、その楽師が死亡」
私は、続けた。
「同年、王宮西の離れに、針子として入りました。口をきいたのは、姉のエルフリーデ・フォークト」
私は、顔を上げた。
「――私の、母です」
傍聴席が、どよめいた。
「ヨハンナ・ヴェスターマンは、四百二十年、第七の月九日に男児を出産し、三日後に死亡しています」
私は言った。
「そして、その男児が、フォークト伯爵家に届けられました」
私は、王子を見た。
「殿下。もう一度、伺います」
私は言った。
「ヨハンナ・ヴェスターマンを、ご存じですか」
「――知りません」
彼は言った。
私は、頷いた。
「記録を」
私は、書記に言った。
「五度目の否認」
◇
「――令嬢」
王子が言った。
その声に、初めて、硬さが混じった。
「あなたは、何を証明したいのですか」
「証明しません」
私は言った。
「私は、記録を作りに来ました」
「では、無駄です」
彼は言った。
「私が知らないと言えば、それが記録される。それだけだ」
「はい」
私は言った。
「それだけです」
私は、続けた。
「殿下。私は、殿下を罪に問える証拠を持っていません」
広間が、ざわめいた。
「――持っていない、と」
「はい」
私は言った。
「殿下は、二十年、一枚の文書にも名を残していません。金の受け皿は、全部消えました。証言者は三人死んでいます」
私は言った。
「私に集められたのは、証言だけです。そして、証言は否認されれば終わりです」
王子が、私を見た。
その目に、初めて――探るような色が浮かんだ。
――なぜ、こんなことを言う。
そう思っているのが、分かった。
「ですから、私は今日、証明を諦めます」
私は言った。
「代わりに、一つだけお願いがあります」
「――お願い」
「はい」
私は言った。
「殿下。レオ・フォークトの出生届の、母の欄を、埋めさせてください」
◇
広間が、静かになった。
誰も、その意味を理解していない。
ジークベルトが、私を見た。彼の目が、わずかに見開かれていた。
――彼も、この手順は知らない。
打ち合わせていない。
「レオ・フォークトの出生届は、母の欄が空白のまま、九年間放置されています」
私は言った。
「王国戸籍法により、出生届の記載事項に誤りまたは欠落がある場合、血縁関係を証する者の申立により、訂正を申請できます」
私は言った。
「私は、本日、その申請を行います」
私は、書類を掲げた。
「母の欄に記載するのは、ヨハンナ・ヴェスターマン」
私は言った。
「証明は、証拠番号五十二。分娩に立ち会ったマルタ・キーファーの証言。および、ヴェスターマン子爵家の除籍記録」
私は、王子を見た。
「これにより、レオ・フォークトは、私の母の甥として、フォークト伯爵家の血縁に確定します」
私は言った。
「そして、父の欄は」
私は、言葉を切った。
「――空白のままとします」
◇
王子の顔を、私は見ていた。
彼は、動かなかった。
でも、私には分かった。
――理解した。
「殿下」
私は言った。
「父の欄を空白にすれば、あの子は、誰の子でもなくなります」
私は言った。
「フォークト家の血縁として籍に入り、王家とは無関係になります」
私は、続けた。
「殿下が『あの子を外に出すな』とおっしゃった理由は、私には証明できません」
私は言った。
「ですが、その理由がもう存在しなくなることは、証明できます」
広間が、ざわめき始めた。
誰かが、理解し始めていた。
「令嬢」
王子が言った。
声が、低くなっていた。
「あなたは、私と取引をしているのですか」
「いいえ」
私は言った。
「取引には、こちらが差し出すものが要ります」
私は言った。
「私は、何も差し出しません」
私は、書類を机に置いた。
「私は、あの子を守るだけです。殿下が何をなさろうと、なさるまいと」
私は、顔を上げた。
「ただ、一つだけ、殿下にお願いがあります」
私は言った。
「この訂正申請に、異議を唱えないでいただきたい」
◇
沈黙が落ちた。
長い沈黙だった。
王子は、私を見ていた。
私は、その目を見返した。
――三年後、この人は私を見なかった。
処刑台の下、天蓋の下に座って、日差しを避けて。
今、この人は、私を見ている。
「――令嬢」
彼は言った。
「一つ、伺いたい」
「どうぞ」
「なぜ、そこまでするのですか」
彼は言った。
「その子は、あなたの実の弟ではない。母親の妹の子だ。血は薄い」
彼は言った。
「そして、あなたはその子のために、家を失いかけ、婚約を失い、命を狙われた」
彼は言った。
「割に合わない」
私は、その言葉を聞いた。
――割に合わない。
この人は、そういう言葉で世界を見ている。
「殿下」
私は言った。
「一度、あの子を死なせたことがあります」
広間が、静まった。
誰も、意味が分からない。
「――なんと」
「言い間違えました」
私は言った。
「あの子が死ぬのを、見たことがあります」
私は言った。
「夢で」
私は、続けた。
「私は牢の中にいて、あの子はひと月前に死んでいて、私はそれを知らずに、あの子のために生きようとしていました」
私は言った。
「目が覚めて、あの子が生きていました」
私は、王子を見た。
「殿下。割に合うかどうかは、私には分かりません」
私は言った。
「ただ、二度目はありません」
◇
王子は、しばらく動かなかった。
それから、彼は椅子から立ち上がった。
「――監査主任」
彼は言った。
「私からの説明は、以上です」
ジークベルトが、立ち上がった。
「殿下。訂正申請への異議については」
王子は、扉のほうへ歩き出した。
そして、立ち止まった。
振り返らずに、こう言った。
「――王家に、無関係の子だ」
彼は言った。
「異議を唱える理由がない」
広間が、爆発した。
記者が立ち上がり、傍聴席がどよめき、書記官の槌が鳴った。
王子は、扉を出ていった。
私は、その背中を見ていた。
――認めなかった。
最後まで、何も認めなかった。
でも。
私は、机に手をついた。
――守った。




