第44話 前の夜
王暦四百三十年、第九の月三十日。
公開監査の、前夜だった。
保護所の食堂から、資料が運び出されていく。木箱十七個。明朝、王宮大広間に運び込まれる。
私は、最後の一箱に、集計表を入れていた。
「――イレーネ嬢」
ジークベルトが、扉のところに立っていた。
「はい」
「北部から、文が届いています」
私は、顔を上げた。
彼が、封筒を差し出した。
封を切ると、中から二枚出てきた。
一枚は、第三王女の書状。明日、王都に到着し、傍聴すると。
もう一枚は。
――大きな字だった。
まだ、線がまっすぐに引けていない。書き慣れていない子どもの字。
――あねうえへ
――ぼくは、げんきです。にじゅうごほが、ひゃくほになりました。
――ゆきは、まだふりません。
――じいちゃんが、いいました。あねうえは、たたかっていると。
――ぼくは、まだ、うまをかしています。
――かえしてほしいので、はやく、かってください。
――レオ
私は、その紙を、両手で持っていた。
しばらく、動けなかった。
「――イレーネ嬢」
「はい」
「泣いておられますか」
「――いいえ」
私は言った。
「笑っています」
私は、顔を上げた。
確かに、笑っていた。涙は出ていたけれど。
「百歩、歩けるそうです」
私は言った。
「――そうですか」
ジークベルトが、少しだけ、口の端を動かした。
◇
その夜、私は眠れなかった。
寝台に横になって、天井を見ていた。
――明日。
王暦四百三十年、第十の月一日。
私が処刑された日から、逆算すれば、あと一年五か月。
私は、そのことを考えていた。
巻き戻ってから、一年二か月が過ぎた。
継母は罪を認め、ヴィルヘルムは監査対象になり、侯爵は自首し、ラインヴァルトは失脚した。ケラー商会は潰れ、薬は正しく届いている。レオは百歩、歩けるようになった。
――ほとんど、変わった。
それでも。
私は、寝返りを打った。
――第二王子は、無傷だ。
あの人だけが、何も失っていない。
そして、あの人が無傷である限り、一年五か月後に何が起きるかは、分からない。
私は、起き上がった。
燭台に火を入れて、机に向かった。
白紙を引き寄せて、書き始めた。
――卿へ。
私は、そこで手を止めた。
――何を書くつもりだ。
遺書か。
私は、紙を裏返した。
そして、別のことを書いた。
――王暦四百二十九年、第八の月十四日。私は、この日に戻ってきました。
書いてしまってから、私は手を止めた。
――書いてしまった。
一年二か月、誰にも言わなかったこと。
私は、続きを書いた。
――その前、私は王暦四百三十二年、第三の月に、王都中央広場で処刑されました。罪状は、フォークト伯爵家の財産千二百ゴルドの横領です。
――処刑の朝、私は弟レオがひと月前に死んだと聞かされました。
――刃が落ちて、目を開けたら、三年前の書斎にいました。
ペンが、走った。
――私が最初から結論を知っているように見えたのは、そのためです。婚約者を売ると即断したのも、伯爵夫人が何を言うか分かっていたのも、自分が消えれば全部が収まると考えたのも、一度やったことだからです。
――私は、あなたを裁判の傍聴席で見ました。誰よりも長く残って、帳簿を見つめていました。私を一度も見ませんでした。
――今なら分かります。あなたは、数字が合わないと思っていたのですね。
私は、そこで手を止めた。
紙を見下ろした。
――信じてもらえない。
当たり前だ。私が逆の立場なら、信じない。
でも。
私は、最後の一行を書いた。
――全部が終わったら話す、と約束しました。明日で終わるかどうかは分かりませんが、これが私の答えです。
――イレーネ
私は、ペンを置いた。
紙を折って、封筒に入れた。
――渡さない。
明日が終わってから、考える。
私は、封筒を鞄の底に入れた。
◇
夜明け前、扉が叩かれた。
私は、飛び起きた。
――また、何かが。
扉を開けると、ハーゲンが立っていた。
その顔は、蒼白ではなかった。
――むしろ、困惑していた。
「フォークト嬢」
「何がありましたか」
「――王宮から、使いが」
彼は言った。
「殿下が、公開監査に出席されるそうです」
私は、動きを止めた。
「――第二王子殿下が」
「はい」
彼は言った。
「自ら、出席を申し出られました」
私は、しばらく声が出なかった。
「――なぜ」
「分かりません」
彼は言った。
「拒否されると、我々は思っていました」
私は、廊下に出た。
ジークベルトの部屋の前で、彼と鉢合わせた。彼も、同じ報せを受けたところだった。
「卿」
「聞きました」
彼は言った。
「イレーネ嬢。これは、こちらにとって不利です」
「――なぜです」
「殿下が出席されれば、あの場の主導権が変わります」
彼は言った。
「王族が出席する会に、王族を責める空気は作れません。誰も、面と向かって王子を追及できない」
彼は言った。
「そして、殿下は必ず、こうおっしゃる。『私は説明のために来た』と」
私は、理解した。
「――出席することで、潔白を演出する」
「はい」
彼は言った。
「拒否すれば、疑われる。出席すれば、誠実に見える」
彼は言った。
「そして、どうせ誰も追及できない」
私は、拳を握った。
――上手い。
どこまでも、上手い。
「卿」
「はい」
「一つ、確認させてください」
私は言った。
「明日、殿下に質問できるのは、誰ですか」
「監査主任と、補助監査人です」
彼は言った。
「私と、貴女だけです」
私は、頷いた。
「では、私が聞きます」
「イレーネ嬢」
「卿が聞けば、監査局と王族の対立になります」
私は言った。
「私が聞けば、令嬢の私怨に見えます」
「――分かっていて、言っていますね」
「はい」
私は言った。
「私怨に見えたほうが、殿下は油断します」
◇
朝が来た。
王暦四百三十年、第十の月一日。
私は、黒い上着を着た。監査局の補助員の服だ。喪服ではない。
髪を結い上げ、装飾はつけなかった。
鏡を見た。
――一年前より、痩せている。
目の下に、隈がある。手には包帯。中指の付け根の傷は、まだ治っていない。
私は、懐に手を入れた。
木彫りの馬が、そこにあった。
一年、借りたままだ。
「――勝ってくる」
私は、小さく言った。
◇
王宮大広間は、想像より広かった。
石の柱が二十本。天井が高く、声が反響する。
正面に、監査主任の席。その脇に、補助監査人の席。私の場所だ。
中央に、長い机。関係者が座る。
そして、三方を囲む傍聴席。
――満席だった。
二百人は入っている。議員、記者、そして一般の傍聴人。
私は、傍聴席の一角を見た。
修道服が、並んでいた。
シスター・ベアトリクスと、聖アグネスの人たち。歩ける者が、来ていた。
その隣に、老人が座っていた。
――ヨーゼフだ。
北部治療院の、歯の抜けた老人。
彼は、私を見つけると、片手を上げた。
私は、頭を下げた。
◇
関係者が、順に入場した。
ケラー商会代表ヨハン・ケラー。番頭モーゼル。二人とも、拘置中の身なりだった。
ローゼンタール侯爵。息子のヴィルヘルム。
薬事局長。
継母アデーレ。黒いドレスで、背筋を伸ばして。
そして、ゴットハルト・ラインヴァルト。
彼は、顔色が悪かったが、自分の足で歩いていた。
最後に。
広間の扉が、開いた。
全員が、立ち上がった。
第二王子アルベルト・フォン・ヴァイセンブルクが、入ってきた。
白い上着。金の飾緒。背が高く、姿勢がいい。
彼は、中央の机ではなく、その脇に用意された椅子に座った。
関係者ではなく、参考人の席。
そして、彼は――
私を見た。
目が、合った。
彼は、微笑んだ。
――私を、覚えている。
議場で目が合った、あの日から。
◇
「――公開監査を、開始します」
ジークベルトの声が、広間に響いた。
「王国会計監査法第三十一条に基づく、公開監査です。監査主任、ジークベルト・アーレンス」
彼は言った。
「補助監査人、イレーネ・フォークト」
私は、立ち上がった。
二百の視線が、私に集まった。
膝が、震えていた。
私は、懐の木彫りの馬に、手で触れた。
そして、口を開いた。
「――イレーネ・フォークトです」
私は言った。
「本日、私が読み上げるのは、王国の金が、どこへ行ったかの記録です」




