第43話 五十日
公開監査まで、五十日あった。
保護所の食堂は、作業場になった。長机が三つ入り、監査局から八名、北部から書記が五名。壁一面に、集計表が貼られていく。
「――手順を確認します」
初日、ジークベルトが全員の前で言った。
「公開監査は、裁判ではありません。判決は出ません」
彼は言った。
「我々がやるのは、監査結果を提示し、関係者に説明を求めること。それだけです」
「では、意味がないのでは」
若い書記が言った。
「説明を求められた者は、答える義務があります」
彼は言った。
「答えなければ、答えなかったことが記録されます。虚偽を答えれば、後で崩れたときに罪になります」
彼は、続けた。
「そして、公開監査の記録は、そのまま検察に送られます。ここで作られるのは、起訴の材料です」
私は、手を挙げた。
「卿。関係者として、誰を呼べますか」
「監査対象に関与した者、全員です」
彼は言った。
「ラインヴァルト。ローゼンタール侯爵。同子息。ケラー商会代表。伯爵夫人アデーレ。薬事局長」
彼は、言葉を切った。
「そして――第二王子アルベルト殿下」
部屋が、静かになった。
「殿下を、呼べるのですか」
「呼べます」
彼は言った。
「王族に対する説明要求は、前例がありません。ですが、条文は『関係者』としか書いていない」
彼は言った。
「ただし、殿下が出席を拒否された場合、強制する手段はありません」
◇
準備は、三つに分かれた。
一つ目は、資料の整理。五年分、十九分野。四万二千ゴルドの乖離。それを、誰が見ても追える形にする。
二つ目は、証人の確保。マルタ、グレーテル、シスター・ベアトリクス、ハルデン翁、薬種問屋の店主たち。
三つ目は――私の役割の準備だった。
「補助監査人は、当日、何をするのですか」
私は聞いた。
「数字を読み上げます」
ジークベルトは言った。
「そして、質問に答えます」
「――誰の質問に」
「関係者の反論に対して」
彼は言った。
「イレーネ嬢。当日、向こうは必ず貴女を狙います」
「なぜ」
「私を崩すより、貴女を崩すほうが早いからです」
彼は言った。
「私は監査官です。二十年、同じことをやってきた。感情で崩れない」
彼は、こちらを見た。
「貴女は、当事者です。弟がいて、母がいて、家がある」
私は、頷いた。
「――弱点です」
「はい」
「では、どうすれば」
「訓練します」
彼は言った。
「五十日、毎日」
◇
訓練は、その夜から始まった。
食堂の長机を挟んで、ジークベルトが向かいに座る。ハーゲンが横で記録を取る。
「では、始めます」
彼は言った。
「――フォークト伯爵令嬢。あなたは、婚約を破棄されましたね」
私は、身構えた。
「解消されました」
「破棄でしょう。相手方から」
「――申し入れは、相手方からです」
「屈辱でしたか」
「いいえ」
「では、なぜ相手の家を潰そうとするのですか」
「潰していません」
私は言った。
「監査局が、監査妨害を立件しただけです」
「あなたが告発したのでは」
「していません」
「では、誰が」
「――アーレンス卿です」
「その卿と、あなたは同じ屋根の下で暮らしていましたね」
私は、口を開いた。
――止まった。
答えが、出てこなかった。
「イレーネ嬢」
ジークベルトが、素の声に戻った。
「今、三秒止まりました」
「――はい」
「三秒あれば、傍聴席は結論を出します」
彼は言った。
「もう一度」
◇
毎晩、二刻。
三十日で、私は八十七回、詰まった。
三十一日目の夜、私は机に突っ伏した。
「――もう、無理です」
「イレーネ嬢」
「同じところで、詰まります」
私は言った。
「あなたのことを聞かれると、答えられません」
部屋が、静かになった。
ハーゲンが、記録の手を止めた。
「――少し、席を外します」
彼は言った。
扉が、閉まった。
私は、顔を上げなかった。
「イレーネ嬢」
「はい」
「なぜ、詰まるか、分かりますか」
「――分かりません」
「では、私が言います」
彼は言った。
「貴女は、事実を答えられないのではありません。事実を答えると、嘘になると思っている」
私は、顔を上げた。
「――どういう意味ですか」
「『私と卿は、何もありません』」
彼は言った。
「これを言うのが、嘘だと思っているからです」
私は、彼を見た。
燭台の火が、彼の顔の半分を照らしていた。
「――卿」
「イレーネ嬢」
彼は言った。
「私は、貴女を守ろうとしています」
彼は言った。
「役割を分けているだけだと、一年前に申し上げました。あれは嘘です」
私は、息を止めた。
「北部へ発つ朝、貴女を置いていくのが嫌でした。そう申し上げました。あれは本当です」
彼は言った。
「そして今、貴女を公開監査の場に立たせることが、私は嫌です」
彼は、机の上で手を組んだ。
「ですが、立たせます」
彼は言った。
「貴女でなければ、あの数字を説明できないからです」
私は、何も言えなかった。
「イレーネ嬢。当日、こう聞かれます」
彼は言った。
「『あなたは監査卿と、私的な関係にありますか』」
彼は、私を見た。
「そのとき、貴女はどう答えますか」
私は、しばらく黙っていた。
それから、言った。
「――『関係の有無は、数字に影響しません』」
私は言った。
「『私が読み上げるのは、私が集めた記録です。記録は、誰が読んでも同じ数字を示します』」
ジークベルトが、頷いた。
「――それが、正解です」
彼は言った。
「肯定も否定もしない。争点を数字に戻す」
「はい」
「イレーネ嬢」
「はい」
「今、詰まりませんでしたね」
私は、自分の手を見た。
震えていなかった。
「――卿が、先に言ってくださったからです」
私は言った。
「隠すものがなくなれば、答えられます」
彼は、視線を落とした。
「――そうですか」
彼は言った。
それだけだった。
いつもどおり、言い逃げだった。
◇
四十日目、事件が起きた。
ラインヴァルトが、監察部の拘置室で倒れた。
報せが来たのは、深夜だった。
「――毒ですか」
私は、馬車の中でジークベルトに聞いた。
「分かりません」
彼は言った。
「生きています。それだけが確かです」
監察部の医務室に着いたのは、明け方だった。
ラインヴァルトは、寝台の上で目を開けていた。
顔色が悪い。だが、意識はあった。
「――令嬢」
彼は言った。
「食事に、何か」
「分かりません」
彼は言った。
「昨夜の粥です。半分食べて、吐きました」
「吐いたから、助かったのですね」
「――そうでしょうな」
彼は言った。
私は、寝台の脇に立った。
「ラインヴァルト卿」
「はい」
「公開監査は、十日後です」
「――出ます」
彼は言った。
「私は、出ます」
「体調が」
「令嬢」
彼は、私を見た。
「私は、あなたの母上を死なせた男です」
彼は言った。
「その私が、あの場に出ないという選択は、ありません」
◇
毒の出所は、分からなかった。
拘置室の食事は、監察部の厨房で作られる。厨房には、十二人が出入りする。全員を調べたが、証拠は出なかった。
「――狙いは、口封じではありません」
ジークベルトは言った。
「なぜ、そう言えるのですか」
「殺すなら、確実にやります」
彼は言った。
「これは、警告です」
「誰への」
「――全員への」
彼は言った。
「公開監査に出る者に対して、我々はここまでできる、と」
私は、拳を握った。
「では、証人が怖じ気づきます」
「はい」
彼は言った。
「それが狙いです」
◇
その日のうちに、私は証人全員に会いに行った。
マルタ。グレーテル。ハルデン翁。シスター。薬種問屋の店主五名。
全員に、同じことを言った。
「――降りていただいて、構いません」
私は言った。
「危険です。実際に、毒が使われました」
誰も、降りなかった。
最後に会ったのは、シスター・ベアトリクスだった。
彼女は、聖アグネスの廊下で、私の話を聞いた。
そして、言った。
「令嬢。私は、五十九です」
彼女は言った。
「二年前から、薬が効かないと知っておりました。文を三度出して、返事は来ませんでした」
彼女は、廊下の窓を見た。
「その二年で、この施設で四十六人が死にました」
彼女は言った。
「私は、その四十六人に、何もしませんでした」
彼女は、私を見た。
「今さら、毒が怖いと言えますか」




