第42話 名前を書く
「――お嬢さんが、書くのかい」
「はい」
「わたしの名前を」
「はい」
私は、膝の上に板を置き、その上に紙を広げた。
「お名前を、教えてください」
「ハンナ」
彼女は言った。
「それだけかい」
「姓は」
「――ないよ」
彼女は言った。
「あったかもしれないけど、忘れた」
私は、ペンを止めた。
「ハンナさん」
「なんだい」
「では、ハンナ、と書きます」
「それでいいのかい」
「いいです」
私は言った。
「請願書に必要なのは、その人が誰かということです。姓がなくても、あなたはあなたです」
私は、書いた。
――ハンナ。聖アグネス救貧院。
そして、その横に。
――代筆 イレーネ・フォークト。
ハンナは、私の書いた字を、覗き込んだ。
「――きれいだねえ」
彼女は言った。
「字が読めるのかい、お嬢さん」
「読めます」
「うらやましいね」
彼女は言った。
「わたしはね、名前も書けないまま、七十四になった」
私は、朱肉の入った小箱を差し出した。
「ここに、親指を」
彼女は、震える手を伸ばした。
朱に、親指をつけた。
そして、紙に押した。
――赤い、指の跡がついた。
彼女は、それをじっと見ていた。
「――これが、わたしかい」
「はい」
「ふうん」
彼女は言った。
それから、少し笑った。
「初めて、紙に残ったよ」
◇
一日で、四十人が限度だった。
一人ずつ、名前を聞いて、書いて、拇印を押してもらう。それだけのことに、時間がかかる。
みんな、話をしたがるからだ。
名前を書いてもらうというのは、その人にとって、久しぶりに誰かに向き合ってもらうことなのだと、私は三日目に気づいた。
「お嬢さん、わたしの息子はね」
「わたしの女房が、去年死んだんだ」
「あんた、いくつだい。うちの孫と同じくらいだ」
私は、聞いた。
全部、聞いた。
紙に書けるのは、名前だけだ。でも、聞いた話は、私の中に残る。
――百五十人。
私はずっと、その数字を武器にしてきた。
数字は、正しかった。数字でなければ、役所は動かなかった。
でも、今、私は思う。
――数えるだけでは、足りなかった。
◇
十日目、北部治療院で、私はあの老人に再会した。
女房の名前を書いてくれと言った、歯の抜けた老人。
「――おお、お嬢さんか」
彼は、寝台の上で笑った。
「まだ数えてるのかい」
「今日は、書きに来ました」
私は言った。
「請願書です。あなたの名前を、上院に届けます」
「上院ってのは、なんだ」
「――お偉い方が集まって、国のことを決める場所です」
「ふうん」
彼は言った。
「わしの名前を、お偉方に見せるのか」
「はい」
「そりゃあ、恥ずかしいな」
彼は言った。
「わし、悪いこともしたぞ」
「関係ありません」
私は言った。
彼は、しばらく私を見ていた。
「――お嬢さん」
「はい」
「あんた、去年より、顔が違うな」
私は、手を止めた。
「どう、違いますか」
「去年は、怒ってた」
彼は言った。
「今は、なんだろうな。――疲れてる」
私は、思わず笑った。
「疲れています」
「そうだろう」
彼は言った。
「無理するな。わしらのために」
私は、ペンを置いた。
「――あなたたちのためだけでは、ありません」
私は言った。
「私の弟のためでもあります」
「弟がいるのか」
「九つです」
私は言った。
「同じ薬を、飲んでいました」
老人の顔から、笑いが消えた。
「――そうか」
彼は言った。
「じゃあ、あんたも、こっち側か」
私は、頷いた。
「なら、書いてくれ」
彼は、親指を差し出した。
「ヨーゼフだ。七十六」
◇
署名集めは、四十日かかった。
十一施設。合計、千四百八十二名。
自署できたのが、二百十一名。代筆と拇印が、千二百七十一名。
私の右手は、途中から震えるようになった。四十日で、千二百七十一回、他人の名前を書いた。
「――イレーネ嬢」
最後の施設からの帰り、馬車の中でジークベルトが言った。
「手を」
「大丈夫です」
「見せてください」
私は、右手を出した。
中指の付け根が、赤く腫れていた。皮が破れて、血が滲んでいる。
彼は、それを見た。
そして、懐から布を出して、巻き始めた。
「――卿。自分でできます」
「震えている手で、包帯は巻けません」
彼は言った。
彼の指は、冷たかった。相変わらず。
「イレーネ嬢」
「はい」
「千四百八十二人分の署名を集めた請願は、王国の記録にありません」
彼は言った。
「過去最大は、四百年前の、王都の水道に関する請願で、六百名です」
私は、顔を上げた。
「――記録を、破りましたか」
「破りました」
彼は言った。
「二倍以上」
私は、包帯の巻かれた手を見た。
「卿」
「はい」
「私、この四十日で、気づいたことがあります」
「なんでしょう」
「数字は、嘘をつきません」
私は言った。
「母が言っていた言葉です」
私は、窓の外を見た。夏の終わりの、王都の街並み。
「でも、数字は、名前を持ちません」
私は言った。
「百五十人、と言っても、誰も想像できない。私も、できていませんでした」
私は、続けた。
「ハンナ、七十四歳。ヨーゼフ、七十六歳。エルナ、八歳」
私は言った。
「名前を書いてみて、初めて、一人ずつだったと分かりました」
ジークベルトは、包帯の端を結んだ。
「――イレーネ嬢」
「はい」
「それは、監査官には決して分からないことです」
彼は言った。
「私は二十年、数字だけを見てきました。それが正しいと思っていた。感情を入れれば判断が濁ると」
彼は、手を離した。
「今も、そう思っています」
彼は言った。
「ですが、貴女がやったことは、判断ではありません」
彼は、こちらを見た。
「――記録です」
◇
請願書は、第七の月の末に、上院に提出された。
紙の束は、私の背丈ほどになった。
提出の日、上院の受付には、記者が七人来ていた。ハーゲンが手を回したのだ。
千四百八十二名。そのうち千二百七十一名が、拇印。
翌日の新聞は、一面だった。
――千四百八十二の名。救貧院から上院へ。
記事には、拇印の並んだ頁が、木版で刷られていた。
赤い点が、紙の上に並んでいる。
私は、その新聞を三度読んだ。
◇
上院の採決は、第八の月の十日に行われた。
私は、傍聴席にいた。
隣に、シスター・ベアトリクスが座っていた。
「――令嬢」
彼女は、小声で言った。
「あの請願書は、どこにあるのですか」
「議場の中央に」
私は言った。
「上院の規則で、請願書は議場に置かれます」
私たちは、下を見た。
円形の議場。中央の机の上に、紙の束が積まれている。
議員たちが、その脇を通って席につく。
何人かが、足を止めて、束を見た。
◇
「――公開監査の申立について、採決を行います」
議長の声が、議場に響いた。
「賛成の方」
手が、上がった。
私は、数えた。
十、二十、三十。
三十五。三十八。
――四十。
四十一。
四十三。
私は、シスターの手を握っていた。
気づかないうちに。
「賛成、四十六」
議長が言った。
「反対の方」
手が上がった。
二十九。
「反対、二十九。棄権、五」
議長は、槌を鳴らした。
「――申立は、上院において可決されました」
議場が、ざわめいた。
私は、椅子の背にもたれた。
力が、抜けた。
「令嬢」
シスターが言った。
「勝ったのですか」
「――半分です」
私は言った。
「下院が残っています」
でも、と私は思った。
上院を取った。八十名のうち、四十六。
――五票、多い。
私は、議場の中央を見た。
紙の束が、そこにある。
千四百八十二の名前。
ハンナ。ヨーゼフ。名前も書けないまま七十四になった人たち。
その紙が、今、王国の議事録に載った。
◇
下院の採決は、その三日後だった。
結果は、賛成八十七、反対二十六、棄権七。
――圧倒だった。
下院は、市民代表だ。救貧院に近い人たちが、多かった。
「――可決」
議長の槌が、鳴った。
◇
その夜、保護所に、監査局から正式な文書が届いた。
ジークベルトが、それを読み上げた。
「王国会計監査法第三十一条に基づき、公開監査の実施を決定する」
彼は言った。
「実施日、王暦四百三十年、第十の月一日。場所、王宮大広間」
彼は、顔を上げた。
「監査主任、監査卿ジークベルト・アーレンス」
私は、息を呑んだ。
「――卿が」
「はい」
彼は言った。
「そして」
彼は、次の行を読んだ。
「補助監査人、イレーネ・フォークト」




