第41話 公開監査の申立
保護所の食堂で、私は申立書を書いていた。
――王国会計監査法第三十一条に基づく、公開監査の申立。
「――イレーネ嬢」
ジークベルトが、向かいに座った。
「三十一条は、五十年間、一度も使われていません」
「知っています」
私は言った。
「使えないのですか」
「使えます」
彼は言った。
「ですが、条件が厳しい」
彼は、法令集を開いた。
「監査の結果、王国財産に対する重大な侵害が認められ、かつ、通常の手続きでは是正が困難である場合、監査局は議会の同意を得て、公開の場において監査結果を提示し、関係者に説明を求めることができる」
彼は言った。
「議会の同意。これが一つ目の壁です」
「財政委員会は、前回、動議を通しています」
「あれは資料提出命令です。公開監査は、本会議の議決が要ります」
彼は言った。
「上院と下院、両方の過半数」
私は、ペンを置いた。
「――上院は、貴族院ですね」
「はい。定数八十。うち、王族が五名」
「下院は」
「選挙で選ばれた市民代表。定数百二十」
彼は言った。
「上院は、殿下の影響下にあります。半数以上は動かないでしょう」
私は、頷いた。
「では、下院を取ります」
「イレーネ嬢」
彼は言った。
「下院を全部取っても、上院で否決されれば通りません」
「上院も取ります」
私は言った。
「四十一票」
私は、紙を引き寄せた。
「卿。上院の名簿をください」
◇
名簿を見て、私は三日考えた。
八十名。うち王族五名は、動かない前提。残る七十五名。
私は、それを三つに分けた。
第一群。第二王子の直接の縁者、および王宮での役職を持つ者。二十三名。これは動かない。
第二群。領地経営を主とし、王宮との関わりが薄い者。三十一名。
第三群。どちらとも言えない者。二十一名。
私は、第二群の三十一名を見た。
――財政委員会で賛成に回った七名は、この群にいる。
私は、その七名の共通点を探した。
ホーフマン子爵。羊毛。領収入が三割減。
クレーマー伯爵。麻布。得意先を失った。
シュヴァルツ男爵。子息を九歳で亡くした。
そして、残る四名も同じだった。
――全員、王国の補助金制度と、何らかの形で接している。
私は、顔を上げた。
「卿」
「はい」
「補助金は、貧民施設向けだけではありませんね」
「もちろんです」
彼は言った。
「王国の補助金制度は、十九の分野に及びます。農業、鉱業、織物、教育、道路、橋梁」
「その全部を、監査局は監査していますか」
「――していません」
彼は言った。
「人手が足りません。年に三、四分野です」
私は、立ち上がった。
「では、五年分の支出額と、受領側の記録を、全分野で突き合わせたらどうなりますか」
ジークベルトが、私を見た。
「――イレーネ嬢」
「同じことが、他でも起きているかもしれません」
私は言った。
「起きていなければ、それはそれでいい。起きていれば」
私は言った。
「上院の四十一票は、自分の領地の話として、この件を聞くことになります」
◇
突き合わせには、二か月かかった。
監査局から五名、第三王女が北部から書記を三名出した。私とヴェルナーで、集計表を作り続けた。
十九分野。五年分。
結果が出たのは、第三の月の末だった。
私は、集計表を机に広げた。
「――十九分野のうち、支出額と受領額に一割以上の乖離があるのが、六分野」
私は言った。
「農業補助、鉱業補助、道路補修、橋梁維持、教育助成、そして貧民施設向け薬品」
「乖離の合計は」
「五年で、四万二千ゴルドです」
部屋が、静かになった。
ハーゲンが、髪をかき上げた。
「――薬品の三倍以上ですな」
「はい」
私は言った。
「そして、六分野のうち四分野で、支出承認者が同一です」
私は、名前を指した。
「ゴットハルト・ラインヴァルト」
「――残る二分野は」
「別の承認者です。ですが」
私は、別の紙を出した。
「その二名は、どちらもラインヴァルト卿の部下だった時期があります」
ジークベルトが、集計表を手に取った。
彼は、長いあいだそれを見ていた。
「イレーネ嬢」
「はい」
「これは、監査局が二十年やるべきだった仕事です」
「――卿」
「私が、やるべきだった」
彼は言った。
その声が、いつになく重かった。
「卿、それは」
「言い訳はしません」
彼は言った。
「私は、年に三分野を選んで監査してきました。選ぶとき、私は『問題が起きそうな分野』を選んでいた。それは、私の勘です」
彼は言った。
「勘で選べば、勘に入らないものは、永久に見られない」
彼は、集計表を置いた。
「貴女は、全部を見た」
「時間があったからです」
「時間ではありません」
彼は言った。
「発想です」
◇
説得は、三月かかった。
私は、上院の七十五名のうち、五十二名に会った。
断られたのが十一名。会えたのが四十一名。
どの屋敷でも、私は同じ順序で話した。
まず、その家の領地に関わる分野の乖離額を示す。次に、その分野の支出承認者を示す。最後に、貧民施設向け薬品の件を示す。
――自分の話から始めて、他人の話で終わる。
これは、ジークベルトに教わったやり方だった。
「人は、自分の損から入らないと、他人の死を聞けません」
彼は、そう言った。
「それは、冷たいことではありません。人間の順序です」
◇
第六の月。
上院での事前の感触は、賛成三十七、反対三十、態度未定十三だった。
過半数は四十一。あと四票。
私は、保護所の机で、名簿を睨んでいた。
「――未定の十三名」
私は言った。
「この方々は、何を待っているのでしょう」
「大勢を待っています」
ハーゲンが言った。
「どちらが勝つかを見てから、勝つほうに入る。それが、いちばん安全ですので」
「では、勝つ姿を見せなければならない」
「そうなりますな」
私は、名簿を置いた。
――何を見せれば、勝つと思われるか。
私は、考えた。
票ではない。票は、まだ足りない。
――人だ。
この件で、誰が動いているか。
監査局。第三王女。そして、私。
――足りない。
私は、立ち上がった。
「卿」
「はい」
「一つ、思いついたことがあります」
「なんでしょう」
「私たちは、被害者に会っていません」
私は言った。
「――会っています。救貧院を回りました」
「数を数えました」
私は言った。
「でも、あの人たちに、何かを頼んだことはありません」
私は、顔を上げた。
「聖アグネスのシスターは、薬事局に三度、文を出しました」
私は言った。
「あの方は、動ける人です」
◇
シスター・ベアトリクスは、聖アグネス救貧院の廊下で、私の話を聞いた。
初老の修道女は、最後まで黙って聞いていた。
「――上院に、請願を」
彼女は言った。
「はい」
私は言った。
「王国臣民は、上下両院に請願書を出せます。署名を集めて」
「何人集めれば」
「――決まりはありません」
私は言った。
「ですが、多いほうがいい」
シスターは、廊下の窓から外を見た。
中庭で、痩せた子どもが二人、走っていた。
「令嬢」
彼女は言った。
「ここには、字が書ける者がほとんどおりません」
私は、動きを止めた。
「――署名が」
「集められません」
彼女は言った。
私は、その場に立ち尽くした。
――そうか。
請願という制度は、字が書ける人間のためのものだ。
いちばん被害を受けた人たちが、いちばん使えない。
「……シスター」
私は言った。
「拇印では、駄目でしょうか」
彼女が、こちらを見た。
「拇印は、認められますか」
「――規則を、確認します」
私は言った。
そして、続けた。
「認められないなら、認めさせます」
◇
規則を調べたのは、ヴェルナーだった。
二日で、答えが出た。
「請願書の署名は、氏名の自署を要する。ただし、自署できない者は、代筆と拇印をもってこれに代えることができる」
彼は言った。
「王国請願法、第四条第二項」
私は、その条文を三度読んだ。
「――使えます」
「はい」
ヴェルナーが言った。
「ただし、代筆者は、代筆した旨と自らの氏名を記さなければなりません」
「では、代筆者が必要ですね」
「――誰が、やりますか」
私は、顔を上げた。
窓の外は、夏だった。
この一年、私は数字ばかりを書いてきた。
「私が書きます」
私は言った。
「十一施設、全部」




